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エネルギー移動

 

 色の三原色はですが,光の三原色はです.この光の三原色を混ぜ合わせると白色の光になります.ということは,青色の光を放出する蛍光物質と緑色の光を放出する蛍光物質と赤色の光を放出する蛍光物質の三種を混ぜ合わせて溶液とし,励起光を照射したらそれぞれの物質からの蛍光が混ざり合い白色光が出てきますね.と,言いたいところなのですがこれは間違いなのです.実際には赤色の蛍光のみが出てきます(条件にもよりますが).これは,青色緑色の光を放出する蛍光物質の励起状態が,赤色の光を放出する蛍光物質の励起状態よりもエネルギー的に高いためエネルギー移動が起こった結果なのです.興味深い現象ですね.今回はこのようなエネルギー移動についてのお話をしたいと思います. 

 

予備知識

   

今回のトピックを読む上で「スピン禁制則」と「重原子効果」という言葉が出てきます.この二つの用語を知らないと内容を理解しにくくなる可能性があるため先に説明しましょう.

 

 まずはスピン禁制則について.化合物に紫外光or可視光を照射すると電子遷移が起こります.その際,電子遷移前のスピン多重度と電子遷移後のスピン多重度は同じでなければなりません(図1).つまり,一重項からは一重項へ,三重項からは三重項への電子遷移しか起こりません.これがスピン禁制則です.言い換えると,電子遷移の際にスピンの反転(αスピンからβスピンへの変化 or βスピンからαスピンへの変化)は起こってはならないのです.

 

 

 

図1. スピン禁制則の概念図。

 

スピン禁制則は励起状態から基底状態に戻る際にも当てはまります.一重項励起状態から一重項基底状態へ戻る過程はスピン反転を伴わないため許容となりスムーズに起こります.その際,光を放出しながら戻る過程を輻射(ふくしゃ)失活と呼び,熱を放出しながら戻る過程を無輻射(むふくしゃ)失活と呼びます.また,一重項励起状態から一重項基底状態への輻射失活を蛍光と呼びます.さて,一方で三重項励起状態から一重項基底状態へ戻る過程はスピン反転を伴うため禁制となります.では,この過程は起こらないのでしょうか?

 

   答えはNoです.実際には励起状態というのは分子にとっては非常に不安定な状態のため,基底状態に戻っていきます.しかし,スピンの反転を伴わなければならないため,少々時間がかかります.この過程は大抵の場合,無輻射失活なのですが物質によっては輻射失活も起こします.その時放出される光をリン光と呼びます.蛍光の寿命が数ナノ〜数マイクロ秒なのに対しリン光の寿命は数ミリ〜数秒となるのは,このスピン反転の有無に深く関与しているのです.

 

 続いて重原子効果について.原理まで詳しく書くとそれだけで一つのトピックになってしまいますので,そこは専門書にお任せしてここではエッセンスだけを説明します.図2を見ながら読み進めてください.「重原子」とはその名のとおり「重い原子」のことです.つまり原子番号の大きな原子のことですね.有機化合物に含まれる重原子としては臭素やヨウ素を挙げることができます.また,金属錯体などであれば中心金属が重原子であることが多いと言えましょう.当然,原子の重さはほぼ原子核で決まりますので,重原子の原子核は重いのです.

 

原子核の周りでは電子が軌道運動(公転運動)していますね.電子は電荷を持っているため,軌道運動すると円電流を生じます.その際,中心の原子核が重ければ重いほど円電流の大きさも大きくなるのです.そして,電流と磁気は表裏一体であるため,そのような原子の場合,電子の軌道運動により大きな磁気モーメントを生じます.一方,電子は自転運動(電子スピン)もしています.それによっても磁気モーメントを生じます.これら電子の公転と自転により誘起された二種類の磁気モーメントは相互作用します.それをスピン-軌道相互作用SOC:Spin-Orbit Coupling)といいます.重い原子のときほど公転による磁気モーメントの大きさが大きくなるため,このスピン-軌道相互作用の大きさも大きくなります.そして,このスピン-軌道相互作用ですが,これが大きければ大きいほどスピン反転がしやすくなるのです.つまり,重原子ではスピン禁制則が弱まるのです.これが重原子効果です.実際には溶媒が重原子を含んでいる際にもこの重原子効果は観測されます.そこで,分子内に重原子を含むときを内部重原子効果,溶媒が重原子を含むときを外部重原子効果と呼び区別します.

 

 

  

 

エネルギー移動機構

   

 エネルギー移動の機構は大きく分けて二種類あります.一つはフェルスター機構,もう一つはデクスター機構です.以下説明に入っていきますが,励起エネルギーを与える側の分子をホスト分子,励起エネルギーを受け取る側の分子をゲスト分子と呼ぶことにします.そして,重要なこととして頭に入れておいていただきたいことはホスト分子の励起状態の方がゲスト分子の励起状態よりもエネルギー的に高いのです.そうでないとエネルギー移動は起こりません.

  

 さて,フェルスター機構は別名双極子-双極子機構とも呼ばれます.高校の物理の実験で「おんさ」というものを見たことがあるでしょうか?知らない方のために説明しますと「おんさ」とはU字型をした金属のことで,何かで叩くと,ある一定周波数の音を出すものです.同じ周波数の音を出すおんさを二つ用意して一方のおんさのみを叩くと,叩いていない方のおんさまで音が鳴り始めます(図3).この現象を共鳴と呼びます.

 

 

 

フェルスター機構ではこれと似た現象が分子レベルで起こっているのです.音は波動です.そして,波動関数という言葉からも分かるように分子中の電子は波動運動をしているとみなせます.こう考えると分子レベルで共鳴現象的なものが起こることも理解できるのではないでしょうか?励起状態のホスト分子の近くに基底状態のゲスト分子があると,共鳴的性質によりゲスト分子の波動関数が変化し,基底状態のホスト分子と励起状態のゲスト分子ができるのです(図4).

 

 

この機構からも分かるようにフェルスター機構では分子間の接触(衝突)の必要がありません.そのため,極低温で分子の熱運動がほとんどないような状態でも起こり得ます.また,分子間の距離がそれなりに遠くても起こり得ることが知られており,その有効半径は110 nmと言われています.

 

 一方のデクスター機構ですが,こちらは別名電子交換機構と呼ばれます.この機構ではその名の通り励起状態のホストの電子と基底状態のゲストの電子を交換し合うことによりエネルギー移動が起こります(図5).

 

 

この機構では分子間の接触(衝突)の必要があります.そのためフェルスター機構とは異なり極低温で分子の熱運動がほとんどないような状態では起こりません.また,その有効半径も小さく0.31 nm程度となります. 

 

フェルスター機構とデクスター機構の許容と禁制

   

 それではホスト分子の励起状態の方がゲスト分子の励起状態よりもエネルギー的に高ければ必ずエネルギー移動は起こるのでしょうか?実はそうではないのです.実際にはスピン多重度まで考慮してやらねばならないのです.ここではその点についてお話しましょう.スピン多重度まで考慮した場合,エネルギー移動におけるホストとゲストの組み合わせは次の四つが考えられます.

 

 

Hはホストを,Gはゲストを意味します.また,左上の数字はスピン多重度を,右上の「*」は励起状態を意味します.

つまり,

 

(1)は一重項励起状態のホストから一重項基底状態のゲストへエネルギー移動が起こり,一重項

 基底状態のホストと一重項励起状態のゲストを生じる機構

(2)は三重項励起状態のホストから一重項基底状態のゲストへエネルギー移動が起こり,一重項

 基底状態のホストと三重項励起状態のゲストを生じる機構

(3)は三重項励起状態のホストから一重項基底状態のゲストへエネルギー移動が起こり,一重項

 基底状態のホストと一重項励起状態のゲストを生じる機構

(4)は一重項励起状態のホストから一重項基底状態のゲストへエネルギー移動が起こり,一重項

 基底状態のホストと三重項励起状態のゲストを生じる機構

 

となります.

 

 フェルスター機構の許容条件は,励起状態のホスト分子が基底状態に戻る際と,基底状態のゲスト分子が励起状態に変化する際の電子遷移が共に許容遷移であることとなります.その場合,(1)では条件を満たすために許容となることが分かります.しかし,(2)ではいずれの過程もスピン禁制となるため,フェルスター機構も禁制となります.(3)ではゲストの遷移は許容なのですが,ホストの遷移がスピン禁制となるため駄目です.(4)では逆にゲストの遷移がスピン禁制となっているため駄目であることが分かるかと思います.すなわち,フェルスター機構によるエネルギー移動は(1)のみが許容であり(2)(3)(4)は禁制となります.

 

 一方,デクスター機構の許容条件は,エネルギー移動前後で全スピン多重度の和が一致していることとなります.つまり,矢印の左辺と右辺とでそれぞれ左上の数字の和をとり,それが一致していればいいわけです.(1)では左辺の和が2,右辺の和も2であるため許容となります.(2)では左辺の和が4,右辺の和も4であるため許容となります.一方,(3)では左辺の和が4,右辺の和が2となるため禁制となります.(4)では左辺の和が2,右辺の和が4となるため禁制となります.すなわち,デクスター機構によるエネルギー移動は(1)(2)が許容であり(3)(4)は禁制となります.

 

 しかしながら,いずれの機構においても重原子効果等が働く場合,その禁制の度合いが弱められ,フェルスター機構では(2)(3)(4)の過程が,デクスター機構では(3)(4)の過程が起こる場合もあります.

 

増感剤とエネルギー移動

   

 エネルギー移動の仕組みはこれまでの解説でおおよそ分かっていただけたのではないでしょうか?それでは,実際の研究の中でエネルギー移動はどのように利用されているのでしょう?その最も基礎的な例が増感剤(ぞうかんざい)を用いた反応ではないでしょうか.増感剤とは光を照射することにより特定の働きをする分子のことです.

 

 ここにAという分子があったとしましょう.そしてこの分子は基底状態が一重項のため,光を照射すると一重項励起状態1A*となります.スピン禁制則のため,三重項励起状態3A*への電子遷移は起こりません.しかし,1A*からの系間交差によりわずかに3A*ができるとしましょう.そして,1A*からはBという生成物を,3A*からはCという生成物を与えると仮定します.

 

 

もし,ここでCという化合物が欲しい目的の化合物であったならばどうするでしょうか?3A*はわずかしかできませんのでCもわずかしかできません.一方で副生成物のBは多量にできてきます.確かに,大量スケールで反応を何度も仕掛け地道に分け続けるのも一つの手段かもしれません.しかし,このような場合にエネルギー移動の知識があると大変効率的な工夫が可能になるのです.例えばベンゾフェノンという化合物があります.この化合物は光を照射するとほぼ100%の効率で系間交差が起こり三重項励起状態を生ずることが知られています.つまり,Aとベンゾフェノンを同じ容器内に入れ,ベンゾフェノンを光励起してやると,三重項励起状態のベンゾフェノンからエネルギー移動が起こり,3A*が定量的に発生するのです.結果としてCも定量的に得られるというわけです.

 

 

この場合,ベンゾフェノンは三重項エネルギー移動増感剤となったわけです.これは上記の機構の(2)に対応しますね.ということでデクスター機構で進行しているものと考えられます.

 

おわりに

   

 光反応は反応の制御が難しいものが多いため有機合成に用いられることは多くないかもしれません.しかし,最後の例から分かるように増感剤を上手く利用すれば目的化合物のみを高収率で得られることもあり,今後の発展が期待される分野とも言えるでしょう.また,近年話題の有機EL素子などではドーピングという手法を用い,エネルギー移動を有効利用することにより発光色を調整したり素子の耐久性を向上させたりしているのです.その点についてはいずれ別のトピックでお話しましょう.

 

(2005.7. 23 YU)

 

参考、関連文献

 

・「光電子移動」 George J. Kavarnos著,小林宏 編訳  丸善

 

・「光化学I」 井上晴夫,高木克彦,佐々木政子,朴鐘震 共著  丸善

 

・「光化学」 杉森彰著  裳華房

  

・「レーザー光化学」 伊藤道也著  裳華房

 

関連リンク

 

東京都立大学 井上研究室

 

東京大学 村田研究室

 

【用語ミニ解説】

 

光の三原色

 

赤(Red)、緑(Green)、青(Blue)ーRGB

 

 キリヤ化学Q&A