金属錯体(complex)とは「金属イオンに配位子が配位した化合物」と定義されます。金属錯体はそれぞれ独特の構造をしています。たとえば鉄錯体イオンである[Fe(CN)6]4-は正八面体構造をしています。また、「触媒」としての働きのため、無機化学以外の分野でも非常に重要な位置づけにあります。
今回はこういった「遷移金属錯体」について理論面から説明していきたいと思います。
配位子(ligand)には多数の種類がありますが、おのおのの配位子が共通として持つ性質は、「共有電子対もしくは負電荷を持っている」ということです。これは中心金属が通常電子不足で正電荷を帯びていることを考えると、至極当然のことといえるでしょう。
配位子は一つあたり何カ所配位できるか、という観点から分類されることが多いです。一カ所のみで金属と配位できる配位子は単座配位子、二カ所で配位できるのは二座配位子、三カ所は三座配位子…という名前で呼ばれます。
代表的な配位子の例を以下にあげておきます。
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名称 |
略称 |
化学構造式 |
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ハロゲン化物イオン |
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F-, Cl-, Br-,
I- |
シアン化物イオン |
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CN- |
アンモニア |
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NH3 |
ピリジン |
py |
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トリフェニルホスフィン |
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PPh3 |
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エチレンジアミン |
en |
H2NCH2CH2NH2 |
アセチルアセトナート |
acac |
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エチレンジアミンテトラ酢酸イオン |
edta |
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遷移金属の場合、配位数は実際に2〜9配位のものが存在しますが、電子的・立体的にも安定な4〜6配位の錯体化合物が多く存在します。6がもっとも一般的です。7配位以上になると立体障害のため、小さい配位子でしか安定に存在し得なくなります。見かけることの多い錯体構造を以下に示しておきます。
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立体構造 |
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例 |
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正四面体型(Td) |
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[CoCl4]2-, [Ni(CO)4],
etc |
正方平面型(D4h) |
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[Pt(NH3)4]2+,
[AuCl4]-, etc |
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三角両錐型(D3h) |
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[Fe(CO)5], etc |
四角錐型(C4v) |
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[VO(H2O)4], etc |
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正八面体型(Oh) |
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[Fe(CN)6]4-, [Ni(en)3]2+,
[Co(NH3)6]3+, etc |
配位子がすべて同じ種類でない場合(例:[PtCl2(NH3)2]
etc)、有機分子と同じような考え方により、幾何異性体や光学異性体も存在しえます。
中心金属原子である遷移金属は、d軌道と呼ばれる電子軌道を持ちます。配位時にはこのd軌道が重要な役割を果たします。それぞれのd軌道は下に示すように角度依存的なので、どのd軌道に電子が存在するかによって金属の電子分布も変化し、配位子が配位しやすい角度というものができてきます。同じ配位数でも錯体の構造が複数存在するのは、金属-配位子の組み合わせ・相互作用によって各d軌道のエネルギーレベルに違いができることが理由なのです。
このようなエネルギーレベルの違いは、静電結晶場理論(electrostatic
crystal field theory)によって説明されます。実際の配位結合は共有結合とイオン結合の混じりあった結合ですが、この理論では配位結合はイオン性結合である、と仮定し、近似したモデルを考えます。
たとえば、原点に中心金属、xyz軸方向に配位子を持つ正八面体モデル構造(下図)を例にとってみます。
配位子の存在しないとき、遷移金属の5つのd軌道は縮退しており、すべて等しいエネルギーを持ちます。このときの電子密度分布は5つのd軌道の重ね合わせにより球対称場になります。しかしながら、負電荷を持つ配位子が近づいてくると、軌道電子と配位子の電荷との反発が生じ、d軌道のエネルギーレベルの分裂が起こります。dz2やdx2-y2軌道は軸方向に最大の電子密度を持つため、もっとも反発が大きく、相互作用によりエネルギーレベルが上昇します。その結果、正八面体型(Oh)では下のようにdγ軌道とdε軌道へと分裂が起き、軸方向への電子分布が少なくなるようなエネルギーレベルをとります。同様の考察が正四面体型(Td)、平面正方型(D4h)でも行え、以下の図のようにそれぞれd軌道が分裂することが示されます。
このように分裂した軌道へは、Pauliの排他則およびHundの規則に従って金属d電子が詰められます。金属d電子が分裂したd軌道に入ることによって得られる安定化エネルギーを結晶場安定化エネルギー(CFSE)といいます。たとえば、Ti(V)のd電子数は1個です。これが正八面体錯構造をとる場合、球対称場よりエネルギーの低いdε軌道にd電子が詰められるため、その分結晶場安定化エネルギーが2ΔE'分だけ得られることになります。
錯体の場合、軌道エネルギー的に低い組み合わせが他にあっても、不対電子を作って存在するほうが安定な場合があります。たとえば、d電子が7つの正八面体錯体で、(dε,
dγ)にそれぞれ(1, 6)、(2,
5)と詰める電子の詰めかたを考えます。当然軌道エネルギー的には前者のほうが有利なのですが、同じ軌道に2つの電子が入ると、強い静電反発作用が生じるため、ある程度不安定になります。つまり、結晶場安定化エネルギーの度合い(ΔE)が大きい時は軌道エネルギー的に有利な方(前者)をとり、ΔEが小さい場合は電子対形成を避けるような方(後者)の配置をとります。不対電子数の少ない配置を低スピン配置、多い配置を高スピン配置といいます。同様の考察はd電子の数が違っても、また正四面体型、平面正方型構造でも行えます。
静電結晶場理論では、配位結合を完全なイオン性結合だと見なしていましたが、実際は共有結合性もいくらか含まれます。これを考慮した理論が配位子場理論(ligand
field
theory)です。結晶場理論では金属のもつd電子軌道だけを考慮しましたが、配位子場理論では配位子電子も金属d電子と同等に考えます。このため、分子軌道法的な考察をもって理論は進みます。
たとえば、[Co(NH3)6]3+では、分子軌道相互作用は下図のようになり、エネルギーの低い軌道からPauliの排他則とHundの規則に従って電子が詰まっていく、というプロセスで議論されます。これは通常の分子軌道法と全く同様ですので、詳しいことは省略します。参考サイトに分子軌道法のサイトをとりあげておきましたのでご覧下さい。
配位子場理論の強力なところはπ結合の軌道相互作用も同様に議論ができる点です。π結合の分子軌道と相互作用するのは金属d軌道です。特に空のπ軌道をもつ一酸化炭素COなどの配位子の場合、配位と逆方向に、つまり金属原子からπ*軌道へ電子が流れ込む、逆供与(back-donation)という現象が起こり、d電子の多い金属が中心原子の錯体は、より安定化されます。
金属の価電子と配位子の価電子を合計した数が18であるとき、遷移金属の有機金属化合物は安定性が高い、という経験則が知られています。これを18電子則といいます。
これを満たす化合物にはCr(CO)6などがありますが、Co(C5H5)2など、18電子でなくても安定に存在する錯化合物ももちろんあるので注意して下さい。
今回の話は理論中心だったので、少々難しくなってしまいましたがいかがでしたか?金属錯体の実際の応用例などは実例編でお話ししたいと思います。
(2002.3.8 by cosine)
・「化学入門コース 無機化学」斉藤太郎
岩波書店
・「無機化学」木田茂夫 裳華房
・「現代の無機化学」合原眞ら 三共出版
・実験化学講座〈21〉有機遷移金属化合物、超分子錯体
ナノテクノロジーに対応する一連の巨大有機金属化合物、フラーレン錯体やデンドリマー錯体、さらにはメタセシスや不斉反応触媒用の錯体なども追加。
・ヘゲダス遷移金属による有機合成
有機合成を志す人のための教科書。遷移金属錯体のタイプにより章を構成し、全編多くの反応例をあげ、これらを単純な遷移金属反応のパターンで解説。遷移金属錯体の関係する反応を整理できるようになる。 |