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ベンゼン分子のπ電子は不安定な状態にある?

 

 

ベンゼン環は通常の化学反応では壊れることはありません.非常に安定な系で,ほとんどの有機化学者は,その安定性はπ電子によると信じています.この常識に挑戦するような論文がShaikらによって198595年にアメリカ化学会の雑誌などを中心に掲載されました.そのうち主なものを参照文献1-7に示しました.アメリカ化学会誌は化学分野の研究をリードする雑誌ですので,有機化学者のとまどいは容易に想像されます.
 ところがよく調べてみると,彼らの結論は間違いで,間違いの原因は研究手法として分子軌道法を用いたがその用い方が間違っていたことが明らかになりました.量子力学の基本的知識に欠いていたことと文献をよく調べなかったのが原因だったのです.
 驚くべきことは,このような単純な間違いに論文審査員がだれも気づかず出版を許したことです.アメリカ化学会誌の審査員はいわゆる一流(?)と自他共に認めている化学者がつとめています.これは,一流といわれている理論(?)化学者の中にすら量子力学の基本的知識が正しく浸透していないことを露呈するものでした.この経緯をtanukiが編集してなるべくわかりやすく報告します.

 

図1.附加反応と置換反応の例

 

芳香族性

   

芳香族性のトピックはすでに取り上げられていますので,そちらも参照してください.

http://www.chem-station.com/yukitopics/aromatic.htm).また,芳香族性は有機化学の基本的概念ですので,どの有機化学の本にも載っています.ここでは,専門書のうちいくつかをあげました[8].ベンゼンは非常に安定な不飽和炭化水素です.不飽和炭化水素は付加反応を起こすのがふつうですが,ベンゼンは置換反応(ベンゼンの水素原子が他の原子(団)に置き換わる反応)を起こします.つまり通常の不飽和炭化水素は不飽和結合を解消する方向で反応が進むのに対し,ベンゼンはベンゼン環の環状不飽和結合構造を保つように反応が進むのです.このような性質を示す環状不飽和炭化水素が多数あり,芳香族系化合物(aromatic compounds)といいます.ベンゼンのほか,ナフタレン,アントラセン,フェナントレン等があります.芳香族の“芳香:aroma-”の由来は,このような化合物は比較的いい匂いがするからです(一般に鎖状の不飽和炭化水素は腐ったタマネギのような悪臭があります).しかし,現在では“いい匂い”ではなく,不飽和環状化合物の特別な安定性を指します. 

 

 

図2.環状不飽和炭化水素のπ電子の数と化合物の安定性の関係

 

芳香族化合物の安定性は,ヒュッケル則の発見によってπ電子の共役によると長い間信じられてきました.環状不飽和炭化水素の安定性とp電子の数の関係が調べられ,p電子の数が4n+2n=0,1,2,・・)のとき,同じ数の不飽和結合を有する鎖状炭化水素とくらべて安定となり,4nn=1,2,4・・)のとき不安定となることがわかりました.これをヒュッケル則あるいは4n/4n+2則といって,有機化学ではもっとも基本的な概念の一つです.ベンゼンは安定系のn=1の代表的な例です.

 

 環状不飽和炭化水素系で,不安定なものは化学反応性が非常に高くすぐに他の分子と反応し消滅したり(例,シクロブタジエン)やp電子の共役を避けるため,平面構造をとらず曲がった形になる(例シクロオクタテトラエン)ものがあります.しかし,π電子を除いたりあるいは加えたりして,π電子の数をヒュッケル則の安定系の数にしてやると系は共役に都合のいい平面構造となるのです.そのような例を図3に示します.図3の下段に示されたイオンは左か正4,5,6,7,8角形の構造を有しています.つまり,-CH=CH-CH=CH-の結合ではなく,すべてのC-C結合が1重結合と2重結合が区別のない均一な結合となるのです.

 

さらに次のような事実もあります.ベンゼンのC-H結合は,炭素原子の電気陰性度は2.5で水素原子のそれは2.1ですのでCδ-—Hδ+のように分極します.分極した構造体を双極子(dipole moment)といいます.その大きさ(μ)は分極した電荷の量(Q)と電荷間の距離r(この場合は結合距離),Q×rで表され,双極子能率といいます(単位はデバイD).双極子能率はベクトル量で方向を持ち,-から+の方向を正にとります(方向を逆に定義するテキストもあります.例http://www.springer-tokyo.co.jp/mailnews/physycs/isbn4-431-70957-6.html

 

図3.不安定な系であっても,π電子の数をヒュッケル則の安定な数にするとπ電子系は完全な共役となる 

 

ベンゼンの場合おのおののC-H結合は双極子を持ちますが,分子の対称性から必ず反対の方向の双極子があります.互いに相殺して,ベンゼン分子全体の双極子能率は0となります.ところが,ある種の環状不飽和炭化水素は分子全体として特異な双極子能率を持つ場合があります.図4にその例を示します.μ値は分子の双極子能率,構造式の炭素原子につけられた数値はヒュッケル分子軌道法という方法で計算したπ電子の電子密度です.

 

 

図4.フルベンやアズレンは分子全体として大きな双極子能率を持つ.

 

フルベンの環の中のπ電子数は5つですが,もし末端のメチレンからπ電子を1個を環の中に取り入れれば,環の中のπ電子数は6個となります.アズレン分子は,5員環のπ電子系と7員環のπ電子系が融合した構造をもち,それぞれπ電子数は5個と7個です(境にある炭素原子のπ電子は両方の環のπ電子数に数えます).アズレン分子で,もし7員環のπ電子1個が5員環側に移れば,両方の環ともに6個のπ電子系となります.これらを考えると,環状不飽和炭化水素のπ電子系は,ヒュッケル則の安定系である4n+2n=1)になるようにπ電子は移動し,大きな双極子能率が発生します.分子軌道計算の結果もそのようなπ電子の移動を支持しています.

 

話をベンゼンに戻しましょう.ベンゼンの特異な安定性は共役の特別な形としてとらえられ,長い間有機化学者にも,理論化学者に受け入れられてきました.余談ですが,E. Hückelは,ベンゼンのこの特別な安定性を説明するために,有名なヒュッケル分子軌道法を導入したのです[9].くりかえしますが,このように電子系の安定性は有機化学者の間では絶対的な信頼を得ているのです.

 

 炭素原子同士の1重結合の結合距離はだいたい1.54 Å,2重結合は1.35 Åですので,本来なら(芳香族性という特別な共役がなければ)構造Aのようにいびつな形を持っているはずです.(A構造を分子の対称性表現の約束で,D3hの記号で表されます.)しかし,ご存じのようにベンゼン分子は正6角形の構造Bをとります.(これは,D6hと表現されます.しかも,結合距離は1.4 Åとなっています.これは,2重結合同士が完全に共役して,2重結合の間にある1重結合にも2重結合にもπ電子が同等に分布し,それらの結合が区別出来ない状態になっています.

このよう事実からもベンゼンの特別な安定性とD6h構造は,π電子に由来するという考え方にはほとんど疑いが入れられませんでした.ですから,Shaikらの発表は,芳香族性という有機化学の基本的概念を揺るがしかねない重大な問題なのです.

 

図5.ベンゼン分子の構造

 

Shaikらの主張

   

 平面状の不飽和炭化水素の全エネルギー(E)はシグマ(σ)電子のエネルギー(Eσ)とパイ(π)電子のエネルギー(Eπ)に分けることができます.これは結合次数(P)をシグマ電子の結合次数(Pσ)とパイ電子の結合次数(Pπ)との和(P = Pσ + Pπ)として表すことができるので可能なのです.

 

 

 Shaikらは,D6hのベンゼンを一つおきの結合を距離dだけ伸ばし,もう一つおきの結合をdだけ短くし(D3hの構造C),EσEπの変化を見たところ,D6hのベンゼンに比べてEσは低下し,Eπは上昇したというのです.この事実から,ベンゼンのπ電子は,均等分布よりは局在化した電子構造を好むと結論したのです.その後この結論を補強するため数多くの論文を発表しました.一見して非常にもっともな主張です.しかし,“一見もっともな”現象には,思いがけない裏があるものです.これが,研究者が研究に熱中する所以なのです.

 

 

多くの理論化学者の関心をよびました.Shaikらの結論に賛成する論文[10-16],反対する論文[17-19],また研究の方法によって異なる結論を与えることを疑問視する論文[20]などが現れました.

この問題を解決したのは,Ichikawaらの一連の論文です[21-25].彼らが指摘したのは,まず,1式で表された,Eπが本当にπ電子のエネルギーを表すか.次に構造BCに変化させると,Eπの値は変化するが,それにはπ電子構造の変化によるエネルギー変化だけでなく原子核の位置の変化によるエネルギー変化も含まれる.したがって,一概に電子構造の変化によってEπが低下するとはいえないということでした.この詳しい説明は後にして,ベンゼンに対するShaikと同じような疑問を持った人はいなかったかを調べてみましたら,彼らの指摘以前に2つほどありました.

 

Honigの疑問[26]

   

 50年以上も昔の話ですが,Honigはベンゼンの振動スペクトル(赤外線領域)を調べたら奇妙なことに気がつきました.ベンゼンの平面構造を保つ振動の様式は2つあります.一つは,ベンゼンの正6角形構造(D6h)を保つ振動でベンゼン核が膨らんだり,縮んだりする振動でa1g形の振動とよばれています.もう一つは,一つおきの結合距離が伸び,ひとつおきの結合が同じ割合で縮むというものです.これは,D3h構造を保つ振動で,b2u形振動といいます。

 

図6.ベンゼンのD3h対称を保った振動(b2u)

 

 b2u型の振動数が非常に少なく(1311, 1147cm-1),振動数は振動エネルギーに対応します.Honigが指摘したのは,“b2u型振動は,小さなエネルギーで起こる.その理由は,ベンゼンがD3h構造になることことによるKekulé電子構造(p結合が完全な共役せずに1重結合と2重結合の性質が保たれる電子構造)が安定なためである.つまり完全共役しないで2重結合と1重結合からなる方がベンゼンのπ電子は安定である”と推定したのでした.

 
 それから,10年後,BerryHonigの主張を,分子軌道計算結果を基に支持しています[27].そこでtanukiは,Berryのいう分子軌道計算の方法を調べてみましたが,Snyderという人のシンポジウムでの発表(口頭発表)の引用であり,Snyderはどのような方法で計算し,どんな結果を得たのかは知ることはできませんでした.

 
 ところで,Honigの結論はそのまま受け入れられるでしょうか?実は,b2u振動の振動数が小さくなくなる(少ないエネルギーで振動する)ことは,当然なのです.例として,原子核間反発のエネルギーで考えてみましょう.b2u振動は一つおきの結合がdだけ長くなるともう一つおきの結合がdだけ短くなる振動です.原子核間反発エネルギーは,炭素原子核の間の距離をRとしますと,36e2/Rで与えられます(eは電子(陽子)の電荷量).b2u振動でRR+dに伸びれば,36e2d/R(R+d)だけエネルギーは低下しますが,隣の結合はR-dとなり,36e2d/R(R-d)だけエネルギーは増加します.dが小さければ,差し引きのエネルギー変化はほとんど0となります.ですから,特にπ電子のKekulé構造が安定だからという訳ではないのです.というわけで,HonigBerryの論文は無視することにします.

 

図7.分子のエネルギーは電子の運動エネルギー(<T>),1電子ポテンシャルエネルギー(<VeN>),電子間反発エネルギー(<Vee>),および原子核間反発エネルギー(VN)から成る.

  

 

Shaikらの主張に対する疑問

   

 Shaikらの結論に対する根本的疑問はIchikawaらの指摘は次のようなものです.(1)1式で与えられるEpは本当にπ電子のエネルギーを表すのかという点と,(2)異なる原子配置でのπ電子のエネルギーを比較出来るかという点でした.

 

 

分子の全エネルギー(E)は全電子エネルギー(Eel)と原子核間反発エネルギー(VN)に分けることが出来ます.Eelは,電子の運動エネルギー(<T>:古典力学的な描像ですが,運動している電子の運動のエネルギーに相当します),1電子ポテンシャルエネルギー(<VeN>:電子の負の電荷と原子核の正の電荷による静電気的引力に基づくエネルギー),および電子間反発エネルギー(<Vee>:電子と電子の負の電荷間の反発力に基づくエネルギー)に分けられます(図7). なお,‘<’と‘>’でくくった項は量子力学的期待値を表します.量子力学による値には期待値と固有値があり,両者には深遠な意味の違いありますが,ここでは説明を割愛します.

ベンゼンのような平面構造を持つ不飽和炭化水素では,はさらに細かく,π電子に関するエネルギー(Eπ)とσ電子に関する部分(Eσ)とにわけ,
 

の形に表すことができます.ここで,<T>π<VeN>π 等ははπ電子の運動エネルギー,π電子の1電子ポテンシャルエネルギー等の意味です.また,<Vee>πσ π電子がσ電子より受ける電子間反発エネルギー,<Vee>σπ σ電子がπ電子より受ける電子間反発エネルギーを表します.ただし,作用・反作用の法則により<Vee>πσ = <Vee>σπです.全エネルギーの分割に関しては,文献[28]を参照してください.

 

ところで,Shaikらはπ電子のエネルギーおよびs骨格のエネルギーとして,6および7式で定義しました.これは,“ヒュッケル分子軌道(後述)で得られるエネルギーは,原子核,(固定した)σ電子および他のπ電子が作るポテンシャルの中で運動するπ電子のエネルギー”という解釈に基づいたものと思われます.

 

 

しかし,σ電子も運動しますので,

 

 

のように定義するのがより合理的と思われます.いずれの方法でも,本当にπ電子のエネルギーを表すかは吟味する必要があります.

 

続きはベンゼン分子のπ電子は不安定な状態にある?へ。(現在作成中)

(2005.9.5 tanuki)

 

(2005.6. 8 XX)

 

参考、関連文献

 

1.       Hiberty, P. C.; Shaik, S. S.; Lefour, J.-M.; Ohanessian, G. J. Org. Chem. 1985, 50, 4657.

2.       Shaik, S. S.; Hiberty, P. C. J. Am. Chem. Soc. 1985, 107, 3089.

3.       Shaik, S. S.; Hiberty, P. C.; J.-M. Lefour, Ohanessian, G. J. Am. Chem. Soc. 1987, 109, 363.

4.       Shaik, S. S.; Hiberty, P. C.; J.-M. Lefour, Ohanessian, G. Nouv. J. Chim. 1985, 9, 385.

5.       Hiberty, P. C. Topics Curr. Chem. 1990, 153, 28.

6.       Hiberty, P. C.; Shaik, S. D.; Ohanessian, G.; Lefour, J.-M. J. Org. Chem. 1986, 51, 3909.

7.       Hiberty, P. C.; Danovich, D.; Shurki, A.; Shaik, S. J. Am. Chem. Soc. 1995, 117, 7760.

8.       芳香族性は有機化学の基本的概念ですので,どの有機化学の本にも載っています.ここでは,専門書いくつか挙げましょう.

    a:“新しい芳香族系の化学”化学総説 15 日本化学会 編 

    b: Badger, “Aromatic Character and Aromaticity,” Cambridge University Press, London, 1969; Bergmann and Pullman, “Aromaticity, Pseudo-Aromaticity, and Anti-Aromaticity, “Israel Academy of Sciences and Humanities, Jerusalem, 1971.

        c: Minkin, Glukhovtsev, and Simkin, “Aromaticity and Antiaromaticity,” A Wiley-Interscience,Aromaticity and Antiaromaticity New York, 1994
 

 

 

 

 

9.       Hückel, E. Z. Phys. 1931, 70, 204.  廣田 穰 分子軌道法”化学新シリーズ 裳華房 ISBN4-7853-3207-7

10.   Kataoka, M.; Nakajima, T. J. Org. Chem. 1987, 52, 2323.

11.   Nakajima, T.; Kataoka, M.; Theoret. Chim. Acta 1992, 84, 27.

12.   Epiotis, N. D. Nouv. J. Chim. 1984, 8, 11.

13.   Cooper, D. L.; Gerratt, J.; Raimondi, M. Nature 1986, 323, 699.

14.   Heilbronner, E. J. Chem. Education, 1989, 66, 471.

15.   Jug, K; Koster, A. M. J. Am. Chem. Soc. 1990, 112, 6772.

16.   Janoschek, R. J. Mol. Struct. (Theochem), 1991, 229, 197.

17.   Baird, N. C. J. Org. Chem. 1986, 51, 3908.

18.   Aihara, J. Bull. Chem. Soc. Jpn. 1990, 63, 1956.

19.   Kollmar, H. J. Am. Chem. Soc. 1979, 101, 4832.

20.   Glendening, E. D.; Rüdinger, F.; Streitwieser, A.; Vollhardt, K. P. C.; Winhold, F. J. Am. Chem. Soc. 1993, 115, 10952.

21.   Ichikaw, H.; Kagawa, H.; J. Phys. Chem. 1995, 99, 2307.

22.   Ichikaw, H.; Kagawa, H.; Bull. Chem. Soc. Jpn. 1997, 70, 61.

23.   Ichikaw, H.; Kagawa, H.; Bull. Chem. Soc. Jpn. 1997, 70, 727

24.   Ichikaw, H.; Kagawa, H.; Bull. Chem. Soc. Jpn. 1997, 70, 1805

25.   Ichikawa, H.; Yoshida, A.; Kagawa, H.; Aihara, J.; Bull. Chem.Soc. Jpn. 1999, 72, 1737.

26.   Hornig, D. F. J. Am. Chem. Soc. 1950, 72, 5772.

27.   Berry, R. S. J. Chem. Phys. 1961, 35, 2253.

28.   全エネルギーをその成分の和の形に表す方法をエネルギー分割法とよばれ,比較的昔から用いられている手法です.詳しくは,下記の文献およびそこに引用されている文献を参照してください.Ichikawa, H.; Yoshida, A.; Int. J. Quantum Chem., 1999, 71, 35.

【用語ミニ解説】