Tshozoです。前回の続きをいきます。
ここまでは第一次世界大戦がはじまる前のBoschたちの華々しい開発物語でしたが、今後は技術以外のややこしい話も含まれてきます。このBoschのお話を書き始めた2018年頃からここまで現実が悪化するとは正直思ってませんでして、たとえば1925年あたりは日本国内自体は比較的呑気な時代だったとも聞くので(日中戦争とか日露戦争とかはありましたが)今はその繰り返しなのかもしれんなぁと思ったり,,,人間の本質は反省をしないことなのですがやはり諸行無常、万物流転で世界中で不穏さが増している現在こそ、Boschが生き抜いた時代をまとめておくことはきっと何かの意味を持つと思いますし、関わった人の意思を記録しておかなければ救いが無くなってしまう、と考えやっていきます。
アンモニアの合成技術開発を仕上げて生産しようと思ったら 1914年付近~
今回話すのは1913年あたり、廉価なアンモニア合成用活性触媒を見つけ高圧反応リアクターの問題を解決し、石炭からのSyngas合成に成功し、一酸化炭素の除去錯体溶液を発見し高圧系昇圧設備と付属装置・計測機器を発明し農業用肥料配合を商品として準備し出した以降の話。何度も書きますがこれをHaberとRossigenolがつくった小さな机上機からたった4年、しかも組長のBrunckを途中で失うという苦境・鉄火場の中で成し遂げたというのが、書いている筆者も信じられません。腹の据わった親分衆(Brunck, Sapper, …)と唯一無二の優秀な若頭(Bosch)、数多くの優れた鉄砲玉(Mittasch, Krauch, Stern…)とそれを支える職人(Kranz, …)たちがいてこそ成り立った話なのでしょうがそれでも奇跡としか考えられない。ただそうした歴史上稀に見るこれらの労苦と成果に対し待っていたのは時代の過酷な仕打ちでした。

アンモニアの試験生産が完了した前後の主要開発イベント やっぱり1909年~1915年が頭おかしい
昔知り合いにもらった文献では開戦直後”愛国心に駆られて軍隊へ爆薬原料の供給を申し出た”としていたが、
(文献1)にはそうした記載はなく、どうも実際には様々な状況を背景に総合的な判断を下したらしい(後述)
まずアンモニア小型合成プラントは1913年の春に稼働(im Betrieb)した長さ8000mm、直径285mm、重量3.5トンの高圧リアクターを備えた構成から始まります(Carl Bosch Museumの入り口横に置いてあったものでもまだパイロットレベル)。数々の問題をクリアしただけあって最初は順調な滑り出しでした。試験的生産は1913年春の日あたり生産量20トン(!!!)から始まり、1914年年初には25トンに増産、そしてその夏には少々の改修を経て日産40トンまで一気に倍増。この数量、現代なら少ないと思うかもしれませんが1914年前後で当時世界トップクラスの製鉄能力を持っていた長い歴史のあるドイツ鉄鋼業界の粗鋼生産が100トン/年でしたから、当時としては常軌を逸した生産量レベルであるのがよく理解できるでしょう。
ただ、1914年オーストリア皇太子夫妻がセルビアへの訪問中に民族主義者により暗殺されたことを発端に第一次世界大戦が勃発し同社は大きく出鼻をくじかれます。現某共産主義国の影響が強かった民族の坩堝セルビアに対しドイツはこの時オーストリア側に与して連合国とコトを構えるのですが、当時も今も面倒なイギリス、フランス、ロシア3国がセルビア側についたことで2正面作戦を余儀なくされます。一説にはどの国もドイツ(正確にはドイツ帝国)のアンモニアも含めた先進的科学技術が欲しいために計算づくで仕掛けたという陰謀論すらあるこの戦い、特にプロイセンの妖怪ビスマルクがヴィルヘルム二世との対立で引退し15年近く経ち、外交が国王の腹三寸による恣意的なものになった側面もありましたから、腕力は強いけど持久力と腹黒さと団結力が微妙なドイツと老獪な各国との闘いは最初から勝ち目の薄いものでありました。
んで、この戦いが勃発(Krieg bricht aus)した途端、海上封鎖で相当数の商品流通がシャットダウンします(いわゆる”ドイツ封鎖 Seeblockade”)。当然BASFの稼ぎ頭の染料はもちろん、増産途中のアンモニアもほぼ全ての注文がキャンセル。これらを当て込んだ最新鋭の設備は不良資産となり、そして技能レベルが著しく上がった重要な工員たちが徴兵に駆り出される(einberufen werden wuerden)、あるいは志願兵として出ていく(als Kriegsfreiwillige hinausgehen wuerden)可能性が極めて高くなる→現場の技術が失われるという悪循環が目の前にあり、Boschを含むBASFの取締役会はこの現場工員の喪失を絶対に防がなくてはならなくなります。しかし染料は市場の大半が海外にあり変えが利くようなものではない。工場はほぼ全て操業がストップ、一気に経営難が予見される状態まで悪化してしまうことに。

当時の工場内の様子を示す貴重な写真 (文献1)より引用
ワイヤのかけ方、ネジの締め方ひとつで安定操業が出来るかどうかがきまるので
高いレベルの現場技能は経営に極めて重要な因子だった(もちろん今も)
戦争が始まったならとっとと軍事物資でもつくりゃいいじゃないか、と思うかもしれませんが1914年の開戦当時実はBASFは一切火薬など軍事物資の製造設備を持っていなかったのです。BASFでこれですから当然国全体もこんな感じで、なんでおまえら(ドイツ)この状態で開戦に踏み切ったんだ、というお寒い体たらく。ついでに書くと新兵用の訓練用資材も海外に依存していて国内に入ってこなくなったばかりか火薬原料の硝石、硫酸も海外から仕入れているのがまるごとストップしたわけで、お前ら(=開戦を決断した連中)ええかげんにせえよ、と思っている人が現実を正しく把握していた産業界には多かったのではないかと思います。
じっさいBoschが体験したひどい話として、開戦と同時に「チリ硝石の供給が止まった以上軍事物資の即座の供給が出来なくなる」と早々に読み切っていた彼が1914年の9月にベルリンの軍事省(Kriegsministerium)へ呼び出された際の話が(文献1)に詳細に記載されていて、ちょっと長いですが引用しますと
“Was er dort erlebte, war niederschmetternd. Er wußte nicht, worüber er mehr erschrecken sollte, über die Ahnunglosigkeit der obersten militärischen Führung in chemischen Dingen oder über die Hoffnungslosigkeit, auch nur die allernotwendigsten Mindestmengen an Munitionsrohstoffen zu beschaffen. Die Offiziere im Kriegsministerium waren sich nicht klar darüber, daß man zur Munitionsherstellung Saltpetersäure braucht und daß bis dahin alle Saltpetersäure aus Chilesalpeter gewonnen wurde. Als Bosch bemerkte: “Wenn die Vorräte an Chiesalpeter zu Ende gehen, sind wir fertig”. entgegnete man ihm: “Wir haben doch die großen Kalisalzlager in Staßfurt!”. Die Offiziere hatten offensichtlich Salpeter für dasselbe wie Kalisalz gehalten.”
大意:”彼(Bosch)が呆れ返ったのは、軍事省と言いながら無知蒙昧の塊で軍事物資のイロハすらも知らないような連中が軍を率いているという目の前が真っ暗になるような事実を知ったためであった。そも軍事行動、つまり火薬製造に必要なチリ硝石がどのくらい必要なのかすら把握していない。Boschが「チリ硝石が尽きたら我が国は終わりだぞ」と警告するも「なぁに、我が国にはシュタースフルト(地名)の巨大なカリ鉱山(Kalisalz)がある!」と言い返す始末。彼らは硝石と岩塩との区別すらついていなかったのだ。”
・・・ここで言うKalisalzというのはカリウムやマグネシウムの塩化塩や硫酸塩を含む重要な鉱石ですが硝酸塩(硝石)は一切入っていない。無知蒙昧 羊の如くと書いたのは決して誇張ではなくこの戦いは海上封鎖後すぐドイツ帝国の負けで速攻で終わっていた可能性があったためなのです。じゃあなんで軍事行動を続けられたかというと、開戦後一番最初に攻め込んだベルギーで大量の火薬を鹵獲出来たためだと言われています。あるいは現場(前線)は軍事施設を鹵獲し続けられればある程度は供給出来る、と踏んだのかもしれません。
いずれにせよこんなお寒い状態で開戦したのだから腹の据わったBoschも慌てるわ、と思いきや冷徹に行動を考えていました。上記のとおり愛国心に駆られたというより、ドイツ帝国の企業である以上、自分らの国が勝つ方がそりゃいい、という算段が大半だったものとしたのは、これまでとこの後の彼の行動原理からも容易に推測されます。また上記の工場の稼働、工員問題、そして火薬供給問題を全部一気に解決することが出来る策がある、と考えたのでしょう。上記の軍事省からBASF本社に戻るやいなや、すぐ研究部長のミタッシュを呼び出します。この際のやりとりが公式に記録が残っているわけではないのですが、(文献1)の作者Holdermannがどちらかからその時の様子を口伝で聞いたであろう表現が”Mittasch musste erwieden, …”という前置きと共に記載されていまして・・・

内容は完全に(文献1)に準拠しています
1914年9月のこのやりとり後、Boschはすぐに軍事省に出向いてその上層部に「(1年以内に)BASFは硝酸製造プラントを立ち上げて大量の硝酸塩をあんたらに供給することを約束するけぇ」と大タンカを切ったのです(Er teilte der Obersten Heersleitung in Berlin mit, dass die BASF ein Verfahren ausarbeiten koenne, mit dem es moeglich sein werde, Saltpetersaeure in grossen Mengen herzustellen.)。プラントも設計図も反応設計も触媒も何もない、自分で二階に上がってから一階に火を点けるこの行為、いや二階すらも無い状態なのに、高圧アンモニア合成プラント立上げだけでも世紀の大プロジェクトだったのに、その翌年にこんなムチャクチャな発言。当時成功していたのはラボベースの小規模なものだったのにいよいよアタマおかしくなったか、と思った部下社員もいたでしょうが、親分は意に介していなかったというか、実際にはアンモニア量産をやり遂げた事で俺たちは関連する化学合成はほぼ何でも出来る、という自信にあふれていたのかもしれません。
まずは一番大事な技術開発。アンモニア酸化反応自体が進むことは、Mittaschの恩師Ostwaldが1900年前後に既に見出してはいました(いわゆる有名なオストワルト法)。彼はBASFとは別にWestfalen地方のLothringen鉄鉱山に設立された小さな研究所(工業試験所のようなもので、企業の資本が入ってなかったようです)で1905年あたりから既にEberhard Brauerというオストワルトの弟子でもあり後にオストワルトの娘さんの婿になる人と共にアンモニア酸化反応の開発を進めていました(文献2)。極少量ながら反応自体はそこそこうまくいっていて、遡ること1908年には硝酸ナトリウムと硝酸アンモニウムをいずれも少量合成の出来る設備まで作り上げていたようです(Die Zeche Lothringen hatte ein Patent zur Herstellung von Salpetersäure aus Ammoniak erworben (Ostwald-Verfahren). Hierzu wurden die Chemischen Werke Lothringen gegründet und 1905 eine Versuchsanlage am Standort Lothringen 3 aufgebaut…1908 wurde eine Produktionsanlage für Salpetersäure und Nitrate (Natrium- und Ammonsalpeter) in Betrieb genommen.)。これは現代のオストワルト法のミニスケール合成で、酸素とアンモニアを混ぜて高熱で酸化させれば硝酸が出来るもの。高温でも酸化環境でも変化を起こさず活性表面を維持し続けられる材料さえあれば進むであろう、というのは容易に想像が出来ます。反応条件も厳しいわけではなく爆発や腐食に気を付けた構成さえあればおそらく少量なら進むはず。実はMittaschはこのBrauerとオストワルト研究室の同僚で、何かしら情報交換をしていた可能性はあります。
一方でBASFも1900年あたりから既にアンモニアの酸化反応について開発を進めていました(文献3)(文献4)。ただそれに使っていた触媒は同じく白金で、当時も今も白金は超レア材料。アンモニア合成開発が始まった初期の初期に大量にガメてたのは(ウランと)オスミウムだけだったのでBASFには大量の白金の手持ちがなかった(以前記載したAuer社/現Osram社にはあったようだがムチャクチャ高かったはず)ためアンモニア合成の触媒開発をやったように低価格版を作るしかない。当然研究部長であるMittaschに白羽の矢が立ったわけです。
・・・んで開発から半年、作ってしまいました。のちに彼はメタノール合成触媒も見つけてしまうわけなのですが、こういうのを見るにつけマイダスハンドというのはMittaschのための言葉なのではという気もします。どういうものの金属組合せ、無機物組合せがどの用途に向いているという匂いを嗅ぐ力というのか、その能力が頭抜けていたというか。具体的にはこのアンモニア酸化反応の時も開発開始後のかなり早期に”Braunoxyd(Fe, Mn、そしてBiを含んだ複合酸化物)”を見出し(文献3)白金同等の酸化性能を実現した材料を特定していました。これを使ってどんどん合成…というと威勢がいいのですが実はこの複合材料は耐久性に難があり、結論を先に言うと1960年以降は完全に白金にとって代わられます(文献4)。それでも特に第一次世界大戦中の資材調達に困る時期に大きな意義をはたした材料あり、一時代を築いたほどの性能を示したと言うことが出来ましょう。何よりこの短期間で見出したこと自体が驚異というほかない。
そして巨大化プラント。常軌を逸したレベルで鉄のデカモノを作るのはBoschの得意技。当初直径10cm、高さ25cmだった試験用リアクターの直径は半年も経たないあっという間に直径3.5メートル、高さ20メートル(!!!)まで巨大化しこれを設計、試作。これがそのまま量産用リアクターとなりますが、結局ムチャクチャなアンモニア合成の高圧リアクター作りで製造する側(現ティッセンクルップ)も鍛え上げられていたためにこんなハイペースで進むことができたわけです。それでも何度考えてもムチャクチャですが…
この結果、上記の衝撃発言から1年も経たず1915年の3月に硝酸合成プラントが立ち上がってしまいます。年間生産量150トン(すぐ300トンに増産)、冒頭で述べた、海外に肥料原料として売るはずだったアンモニアが全部キャンセルされたぶんが、兵器、つまり火薬原料としての需要に全部化けたわけです。なおここら辺での硝酸合成プラントの写真はほとんど一切出てきておらず&見つからず、手元にあるのはフランス戦線に送られた火薬を積んだ列車の写真くらい。これはおそらく相当警戒してプラントを記録していなかったためだと思われます。
この時BoschはとにかくBASF組の組幹部の一員、実質総裁(この後の1916年に社長に昇進)として自分のとこの組織をぶん回す必要に駆られた存在だったわけで、その時に敵対する組織の都合なんか考えちゃいられなかった。組織のトップメンバほど、世界平和、全体最適、お互い様という言葉が遠い立場はないわけでここに個人の本来の意思はほとんどなく、極悪非道と呼ばれようがなんだろうが”自転車”をこがないといろんなものがダメになる以上「行くところに行かなければならない」競馬の騎手か馬かと大した差はないというように筆者は解釈してしまいます。小説『罪と罰』に出てくるダメ官吏マルメラレードフの言葉、「どこへもほかに行く先がないとしたら! どんな人間にしろ、せめてどこかしらいくところがなくちゃ、やりきれませんからな」というのはどんな状況でも通じる言葉なのだと思います。
しかし同時に思い出すのは(文献5)に書かれていたBoschのその時(硝酸供給に関する軍との契約時)の様子、”…Bosch had referred to “this dirty business.” “…he said that he was going to drink himself into “the biggest high of my life.””という表現(大意:「この薄汚い商売」と硝酸の供給について言及し、(契約が締結された後は)「死ぬ程酒を飲んでやる」と言った)。この文を著者であるHagerがどこから抜き出したのか、いくら孫引きしても出てこなかったので本当にそんなことを言っていたのかを知る術が無いのですが、良心の呵責に苛まれながらBoschが日々を迎えていたかもしれない点を思い返すにつけ、まだこの時は多少なりとも救いがあったのではと思うのは筆者だけではないと信じたいです。
それでは今回はこんなところで。結局こうしたBoschたちドイツの化学者の奮戦にも関わらずお察し通りドイツは敗戦をむかえ、その代償として様々な技術などが接収されることになります。BASFも例外ではなく、戦後はフランスとの国境に近いこともあってか、フランスの化学企業の”アタック”を猛烈に受けるのですが、次回はその詳細について述べようと思います。
参考文献
1. “Carl Bosch Leben und Werke –Im Banne der Chemie” Karl Holdermann, Econ Verlag
2. “Chemische Werke Lothringen GmbH”, リンク
3. “Salpetersäure aus Ammoniak. Geschichtliche Entwicklung der Ammoniakoxydation bis 1920.”, 1953, Mittasch, Verlag Chemie
4. “Ersatzstoffe im Zeitalter der Weltkriege: Geschichte, Bedeutung, Perspektiven”, Deutsches Museum Studies
5. “The Alchemy of Air”, Chapter 12, Thomas Hager, Three Rivers Press, リンク





























