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解毒薬のはなし その2 化学兵器系-2

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Tshozoです。 前回中途半端なところで終わったのですが、分量的に膨れ上がりそうだったのでお許しを。こちらで神経剤に対する解毒剤のことを書いていきます。

ではどういう解毒剤があるのか 最新の研究傾向まで

前述の通り、神経ガス分子の悪さというのはAChEを強く阻害してしまうこと(注:他のエステラーゼ類にもどうも悪さをするらしいが確たる情報が無いので今回は記述しません)。これに対しこれまで主に使われてきたのはアトロピン2-PAMという化学物質。いずれも「実績」がある材料で、両者とも米軍での緊急注射剤に含まれていますし、特に2-PAMは当時唯一生産していた住友製薬(現 住友ファーマ)の尽力で地下鉄サリン事件の患者が大量に担ぎ込まれた聖路加国際病院で多数の方に処方されることになりました。ということで順に説明してみようと思います(注:2-PAMは日本ではヨウ化塩の方が一般的なもよう)。なお今回確認した中でこの2剤が効くと公開された一番早い論文はなんと1957年のもの!(文献1)。 イギリスの防衛省から公開されていて、当時はソ連の脅威が現状の比ではなかった関係であるため早々に公開情報にしたのでは、と推察されます。

まずアトロピンは(文献2)に由来など詳細が記載されていて、まるごと引用させていただくとすると

“「Belladonna (ベラドンナ)」はイタリア語で「美しい貴婦⼈」という意味。中世ヨーロッパのルネサンス期には貴婦⼈達が美しく⾒せるために、この植物の葉の汁を点眼して散瞳作⽤で⽬をぱっちりさせていたという。「美しい貴婦⼈」の呼び名はこれが由来とされている。属名の「Atropa」はギリシャ神話 アトロポス( Atropos )という運命の三⼥神の1⼈、運命の⽷を断ち切る役割をもつ⼥神に由来”

・・・との話。日本で言ったら弁財天薬、みたいな感じの名前。ここで書いている散瞳作用って要は瞳孔を広げる(黒目が大きく見える可能性がある)作用ですから、美容のためには昔から恐ろしいことするもんだなぁと思いますがこれが作用機序とも深くかかわるものになります。どういうことかというと、サリン被害にあった方の症状は時系列で一般的に縮瞳→鼻汁→気管支異常→発汗・発涙→呼吸障害→全身症状、という流れになるのですが、アトロピンはその一番最初の症状の逆を起こせる効果を持つわけです。前回書いた通りあくまで色々対応して患者さんのバイタルが安定した時点で使うとして、投薬された後に神経内でどういう作用をしているかというと、具体的には下図。

ムスカリン受容体は5種類ありアトロピンはその5種類全部に作用しますが、特に2種類目のムスカリン受容体を強く阻害することができ、この間くっつかれた受容体はイオンを通せなくなります。この結果AChがシナプス間隙に大量に存在しようともムスカリンスイッチがOFFのままでいることが出来、”時間稼ぎ”としては大きな役割を果たします。・・・ただ、NR(ニコチン受容体)の方にはアトロピンはくっつけませんのでそのままですし、何よりAChEにくっついた神経剤もそのまま。部分解ではありますがなんも根本解決になっとらんやないか、というのはその通りなわけです。このため、アトロピンは神経剤の解毒薬としてはほとんどの場合単独では用いられず、下記の2-PAMと併用で使われることが一般的です(後述)。

いっぽう2-PAMの方は、AChEにくっついた神経剤自体を壊しに行く。どういうことかというと、下図。

(文献3)から筆者が編集して引用 ⑤の後は基本的に腎臓から排出されるらしい

神経剤は、AChEの水酸基にリン酸(エステル)が共有結合することで強力に阻害するのですが、その結合をぶった切りに行けるのが出来るのが2-PAMの凄さ、つまりAChEにくっついた根本のP-O-のところを切るのが2-PAMの特徴です。推定される反応機構は上図、2-PAMのオキシム部がリン原子の後ろ側からアタックしてくっつく(①)、次に離れたプロトンがAChE内のイミダゾールに作用しながら-O-P-O-を直線状にずらし(②③)、最終的には2-PAMのオキシム部に引っ付けて引き剥がす(④⑤)(文献3)、リン酸エステルの背面を叩くものです。AChEのような体内の巨大酵素の細かい挙動含めて解毒作用を解析するのは難しいのですが、よくここまで推定メカニズムを作れたものだと敬服します。しかも結合を切れる作用を持つ割には「極端に」副作用がきついわけでもない(医薬品添付文書リンク・ただオキシム系材料は人体への長期的な影響が明確でない部分もありそう平気で使えるものでもない)ので防衛上極めて重要なツールであるのは理解できるでしょう。

これらの背景からアメリカ軍の化学兵器対策に2-PAM(ヨード塩ではなくクロリド塩のもよう)と上記アトロピンが混合された緊急注射キットがあるわけで(文献4)(文献5)、化学テロや要人防御のために準備しておくのがいかに大事か、ということでもあります。工学的に面白いのはこの注射構造で、体にバンっと突き刺すと主ばねの推力が解放され針が飛び出しそのまま10秒ほどで内容物2個(今回の場合アトロピンと2-PAM)が順に体内に注入される仕組みな点。日本だとミニモーター等で液を押し込むキットが多いようなのですが、万一の時にモータが壊れてたら意味がありませんので敢えてメカニカルな構造にしているのだと思われます。

(文献4)(文献5)より引用 2-PAMとアトロピンとの比率はずいぶん大きいが、ちゃんと両方入れてる
インジェクタの針の太さも0.7mm(23ga)なので心置きなく臀部か太ももに打てます
なお体重が41kg以上の大人のみが使用可能 → リンク

ただ少し気になるのは、上記の2-PAMを示す医薬品添付文書の中にも記載がある「アトロピンと併用すると効果が遅延する」という特徴。このDuoDoteはほぼ同時に体内に打ち込むわけで、そこんところ大丈夫なのでしょうか。しかも重症の場合は3本連続して注入するように書いていますし、、、この点、緊急時では併用も致し方なしということと理解しております。

ということで、Chemical Warfareなどの有機リン酸化合物(農薬誤用なども含む)に併用で使用されるこの2剤。ただ説明では万能っぽく書きましたが全て「早期に使用してこそ効果を発揮する」薬剤である点は注意が必要。つまり、サリンなどの毒ガスに暴露してからある程度時間が経ってしまうとAChEにくっついたリン酸エステルが加水分解する”Aging”という不可逆的な変化を起こしてしまい、もうこうなると2-PAMだろうが何だろうが一切受け付けなくなる恐ろしい状態となるためです(文献6)。つまりAChEにくっついた形のアルキル基が加水分解しやすいのがよろしくなく、どれもクソであることを前提に比較するとこの点で言うと一番タチが悪いのがソマンでAChEへ結合後たった5分程度で半分近くがAgingし(文献6・以下同じ)、一方でサリンは5時間程度、(図にはないですが)シクロサリンは22時間程度、タブンとVXは40時間前後とマチマチです。ただあくまでこの値は平均的なものでとにかく暴露後早急に処置をするのが最優先なわけで。

Agingのイメージ NGが脱アルキル化すると2-PAMでは手の施しようが無くなる
反応的には中心のPまわりの電子が非局在化してアタックしにくくなるということか

またこういう面倒な経時変化に対し化学者が手をこまねいているわけではなく他の材料が探られているのですが、かなり科学技術が進化した現在でもどうもあんまり特効のある新機軸が出てきてなさそう。たとえば(文献7)によると2-PAM以外にもオキシム系の材料がズラッと並んでいて、

(文献7)の図より引用 ただし左下のDAMとMINAは開発のかなり早期に
2-PAMに比べて効きが悪いということがわかっている

必ずしも2-PAMでなければならない、という話ではないのが分かりますしHI-6やHLö-7,オピドキシムやメトキシムは分子内に2個オキシムが存在しますから反応効率や効果は場合によっては高くなる見込みもあったりするのですが、結局これらは全て2-PAMの類似物といわざるを得ない。(文献8)のように色々提案はされているものの、Agingが起こった後にも効果があると明確に示されたものは2025年現時点では存在しないという解釈が妥当なようです。現実問題として平時にどうやって毒ガスの臨床試験やるんだ、という大変な壁が立ちふさがるでしょうし…

ということでAgingまで至るともう手の施しようがなくなるとすると、そこに至る前にどうにかする、というのが現実的な解決になりそう。そこで「予防的に」体内に入ってきたものをトラップまたは分解する、いわゆるスカベンジャータイプのものが提案されています(“Given the drawbacks associated with the currently available treatment options, research in recent years has focused on a third therapeutic strategy aimed at preventing (or at least substantially reducing) the symptoms of nerve agent poisoning by administering substances that rapidly detoxify OPs before AChE inhibition occurs.” (文献9))。つまりAChEと競合してNGに食いつくように仕向ける化学物質を仕立てるわけで、最初に読んだときはそんなもん果たして間に合うのかなとも思ったのですが体内半減期を調整して、たとえば半月くらいもたせるようにしておけば政情不安で警戒レベルが上がっているような時には非常に役立つ、そういう使い方が出来るわけです。

(文献9)から筆者が有望なものを編集して引用  同論文は非常によくまとまっていてオススメ
ただしこの論文も含め、Agingを解除する(加水分解したサリンなどを生体内で
改めてひっぺがす)のはやはり非常に難しいというテンションだった

もちろんこれは諸刃の剣で、もしこうした材料が出来上がったとしてもAChとすぐくっついてしまっては神経動作のバランスを崩してしまいますから、AChとNGとに対する選択性をいかに向上させるかが機能的なポイントになっていくでしょう。上図に示すシクロデキストリンのような形状的に選択性を付与しやすく分解されにくく、かつ人体に対し有害性が低いものを基質に使っている例があることは十分うなずけるものがあります(ただしシクロデキストリンベースのものは疎水性の材料に近づきにくく、ノビチョクのような極性がある脱離鎖を持つものに対する選択性がまだ低いらしい)。またこうした「防衛的化学技術」というのは今後極めて重要な分野になってくるのではと個人的には思い込んでいます。ある沖縄古流空手の達人は「一番大事な概念は攻防一致だが、実際には防が先だ」と言われていたのですがこれはどの科学分野にも当てはまる言葉であり、防衛が主目的でなければ歴史上のろくでもないことを繰り返してしまいますから。

ただ、言うは易しで、現実的にはこうした解毒剤のような「定常的に数が出ない(というか多量に出る事件が多く発生すると困る)化学物質」は9割9分商売にならないという大問題があります。何度も申し上げている2-PAMも、住友製薬殿の理念と意地と気概によってのみ操業されていた部分があります。だからこそ社会的に誰が負担するのかというのは明確にしたうえで備蓄した方がよいと思うのですが…この点は世情不安が続いている現在だからこそ議論されるべき点ではないかと思ったりもします。

それでは今回はこんなところで。次回こそ、その1の冒頭で述べたエチレングリコールを含むアルコール系や、今話題のオピオイド系の材料に対するの解毒剤のことについて記載いたします。

参考文献

1. “OXIMES AND ATROPINE IN SARIN POISONING”, Brit. J. Pharmacol. (1957), 12, 340.

2. “ベラドンナ”, 東京理科大薬学部資料集, リンク

3. “The Pharmacokinetics of Medical Countermeasures Against Nerve Agents”, UNIVERSITY OF SOUTHAMPTON
FACULTY OF MEDICINE, Institute of Developmental Sciences, Stuart Jon Armstrong, Thesis for the degree of Doctor of Philosophy, November 2014

4. “Nerve Agents”, Medical Management of Chemical Casualties Handbook Ch.4, リンク

5. “DuoDote® Single-Dose Auto-Injector”, Kindeva Drug Delivery, リンク

6. “Advances in toxicology and medical treatment of chemical warfare nerve agents”, DARU Journal of Pharmaceutical Sciences 2012, 20, リンク 

7. “HLö-7 – A REVIEW OF ACETYLCHOLINESTERASE REACTIVATOR AGAINST ORGANOPHOSPHOROUS INTOXICATION”, Mil. Med. Sci. Lett. (Voj. Zdrav. Listy) 2017, vol. 86(2), p. 70-83

8. “Efforts towards treatments against aging of organophosphorus-inhibited acetylcholinesterase”, Ann N Y Acad Sci. 2016 Jun 21;1374(1):94–104. リンク

9. “Supramolecular Approaches to the Detoxification of Nerve Agents”, Isr. J. Chem. 2024, 64, e202400019, リンク 

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Tshozo

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メーカ開発経験者(電気)。56歳。コンピュータを電算機と呼ぶ程度の老人。クラウジウスの論文から化学の世界に入る。ショーペンハウアーが嫌い。

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