柳沢 正史(やなぎさわ まさし、Masashi Yanagisawa、1960年5月25日–)は、日本出身 (現在はアメリカ国籍) の医学者・分子薬理学者・神経科学者。筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構 (WPI-IIIS) 機構長・教授、株式会社S’UIMIN の取締役 CSO 会長。
強力な血管収縮ペプチド・エンドセリン (endothelin)、睡眠・覚醒制御に関わる神経ペプチド・オレキシン (orexin) の発見で知られる。現在は睡眠・覚醒制御の分子機構、睡眠恒常性の解明、オレキシン受容体を標的とした創薬研究を展開している。
経歴
| 年 | 経歴 |
|---|---|
| 1985 | 筑波大学医学専門学群 卒業 |
| 1988 | 筑波大学大学院医学研究科博士課程 修了 |
| 1989 | 筑波大学基礎医学系薬理学 助手 |
| 1991 | 京都大学医学部薬理学 助手 |
| 1991 | テキサス大学サウスウェスタン医学センター准教授、Howard Hughes Medical Institute Associate Investigator |
| 1996 | テキサス大学サウスウェスタン医学センター教授、HHMI Investigator |
| 2001–2007 | JST ERATO 柳沢オーファン受容体プロジェクト 研究総括 |
| 2010 | FIRSTプログラム採択、筑波大学に研究室を開設 |
| 2012–現在 | 筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授 |
| 2017 | 筑波大学発ベンチャー S’UIMINを創業 |
| 2021–現在 | AMEDムーンショット型研究開発事業 プロジェクトマネージャー |
柳沢は 1991 年、31 歳で渡米し、その後 2014 年まで約 24 年間、テキサス大学サウスウェスタン医学センターおよび HHMI を研究拠点とした。2010 年に日本にも研究室を開設し、2012 年に発足した WPI-IIIS の機構長に就任している。
受賞歴
| 年 | 主な受賞・栄誉 |
|---|---|
| 2003 | 米国科学アカデミー(NAS)正会員 |
| 2016 | 紫綬褒章 |
| 2017 | エルウィン・フォン・ベルツ賞1等 |
| 2018 | 朝日賞 |
| 2018 | 慶應医学賞 |
| 2019 | 高峰記念第一三共賞 |
| 2019 | 文化功労者 |
| 2022 | 時実利彦記念賞 |
| 2023 | Breakthrough Prize in Life Sciences |
| 2023 | Clarivate Citation Laureate(引用栄誉賞) |
| 2024 | Fellows of IUPS Academy |
| 2024 | University of Oxford Burdon Sanderson Prize Lecture |
| 2024 | 筑波大学卓越フェロー |
| 2026 | Albert Lasker Basic Medical Research Award |
2023 年の Breakthrough Prize、2026 年の Albert Lasker Basic Medical Research Award はいずれも Emmanuel Mignot との共同受賞であり、オレキシンとナルコレプシーの関係を明らかにした一連の研究が高く評価された。特にラスカー賞では、覚醒を維持する脳内ペプチド・オレキシンの同定と、オレキシン欠乏がナルコレプシーを引き起こすことの発見が受賞理由として挙げられている。
研究概要
エンドセリンの発見
柳沢の最初の代表的業績は、エンドセリン (endothelin) の発見である。
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エンドセリン-1・ヒト (富士フイルム和光純薬株式会社試薬サイトより) |
筑波大学大学院で、故・眞崎 知生 教授のもと血管作動性物質を研究し、1988 年、血管内皮細胞が産生する 21 アミノ酸残基からなるペプチドを単離した。エンドセリンと命名されたこの物質は極めて強力な血管収縮作用を示し、成果は柳沢を筆頭著者として Nature 誌に報告された (1)。
血管内皮は単なる血管壁の構造物ではなく、NOなどの血管弛緩因子とエンドセリンなどの収縮因子を放出して血管トーヌスを能動的に調節する。この発見を契機としてエンドセリン受容体や生合成機構の研究が急速に発展し、後には肺動脈性肺高血圧症などを対象とするエンドセリン受容体拮抗薬という創薬分野にもつながった。
現在はメディア出演などの影響もあり「睡眠研究の柳沢」というイメージが強いが、研究キャリアの出発点はむしろ、新しい生理活性ペプチドを発見する分子薬理学にあったといえる。
オーファン GPCR からオレキシンを発見
1990年代、GPCR (Gタンパク質共役受容体) のクローニングが急速に進む一方、配列は分かっていても内因性リガンドが不明なオーファンGPCR が数多く存在していた。柳沢らは1996年頃から、これら受容体を発現させた細胞と脳抽出物を組み合わせ、未知の内因性リガンドを探索する研究を開始した。その結果発見されたのオレキシンA、オレキシンBである。1998年の Cell 論文では、櫻井武が筆頭著者、柳沢正史が最終著者を務めた(2)。両ペプチドは共通のprepro-orexinから生成し、それまでオーファン受容体だったOX1RとOX2Rを活性化することが示された。
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オレキシンAは 33 残基、オレキシンBは 28 残基の神経ペプチドである。当初注目された作用は睡眠ではなく摂食であった。実際、最初の論文タイトルも “…regulate feeding behavior” であり、orexin という名前も「食欲」を意味するギリシャ語 orexis に由来している。
なお、オレキシン発見の翌1999年には、寒川賢治・児島将康らが胃から新規ペプチドホルモン・グレリン (ghrelin) を発見している。グレリンはオーファンGPCRであった GHS-R の内因性リガンドとして単離され、その後、強力な摂食促進作用をもつことが明らかとなった。中枢由来のオレキシンと胃由来のグレリンという二つのペプチドの発見は、1990年代末の摂食・エネルギー恒常性研究を大きく進展させた。
オレキシンとナルコレプシー
オレキシン研究を一気に睡眠研究へと転換させたのが、遺伝子改変マウスの解析である。オレキシン欠損マウスでは、活動中に突然睡眠状態へ移行するナルコレプシー様表現型が認められ、1999年にオレキシン系が覚醒状態の安定化に必須であることが示された。ほぼ同時期、Mignot らのグループもイヌの家族性ナルコレプシーからOX2Rの異常を同定した。
一方が「未知の受容体とリガンド」から、一方が「睡眠疾患の遺伝学」から出発し、オレキシン–OX2R系という同じ分子機構に到達したことは、睡眠研究史上の重要な成果となった。これらの研究が、後の Breakthrough Prize および Lasker Award 共同受賞へとつながっている。
柳沢と櫻井武
オレキシン発見において重要な役割を果たしたのが、現・筑波大学教授の櫻井武である。
両者の共同研究はオレキシンから始まったわけではなく、櫻井が筑波大学医学専門学群 5 年生だったころ、エンドセリンを発見したばかりの柳沢から研究に誘われたことがきっかけだったという。その後、櫻井は1990年にエンドセリン受容体の cDNA クローニングに関する論文を筆頭著者として Nature に報告し (3)、さらに柳沢の米国研究室でオレキシン探索を担った。
櫻井はその後独立し、オレキシン神経と睡眠・覚醒、情動、報酬、レム睡眠、カタプレキシーなどを結ぶ神経回路研究を展開している。柳沢が「未知の分子を発見し、睡眠の原理へ迫る」方向へ進んだのに対し、櫻井は「その分子を使う神経回路がどのように行動を制御するか」を精密に解明してきた、と整理すると両者の関係が分かりやすい。現在は両者とも筑波大学 IIIS の主任研究者を務めている。
「睡眠量」を決める分子機構へ
オレキシン発見後、柳沢の研究対象は「覚醒を維持する仕組み」から、より根源的な睡眠恒常性 (sleep homeostasis) へ広がった。代表例が、ランダム変異マウスを用いた大規模フォワードジェネティクスである。2016 年には睡眠時間が異常に延長する “Sleepy”マウスなどを解析し、SIK3 を睡眠必要量の制御に関わる重要分子として同定した。その後、リン酸化プロテオミクスや神経細胞特異的解析などから、睡眠圧とタンパク質リン酸化の関係を追究している。
オレキシン創薬―拮抗薬から作動薬へ
化学・創薬の観点から特に興味深いのが、オレキシン研究のトランスレーショナルな展開である。オレキシンによる覚醒シグナルを遮断するオレキシン受容体拮抗薬は不眠症治療薬へと発展し、スボレキサント (ベルソムラ®) やレンボレキサント (デエビゴ®) などが実用化・承認されている。
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承認済みのオレキシン受容体拮抗薬 |
一方、ナルコレプシー1型ではオレキシン産生神経そのものが失われるため、上記の拮抗薬とは反対に受容体を刺激するOX2R作動薬が合理的な治療戦略となる。2026 年には武田薬品が開発した低分子OX2R選択的作動薬オベポレクストン (オーゼイフル®) が、ナルコレプシー1型治療薬として米国および日本を含む複数地域で承認された。オレキシンシグナルそのものを回復させるという、疾患機序に直接基づいた薬剤である。
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オレキシン受容体作動薬 |
エピソード
オレキシン発見当初、柳沢らが注目していたのは「睡眠」ではなく「摂食」だった。ところが、オレキシン欠損マウスを作ってみても摂食量や体重には期待したほどの変化がなく、当初は「表現型がない」と落胆したという。
転機となったのは、柳沢が偶然目にした SONY の新製品、赤外線撮影機能「NightShot」を搭載したビデオカメラの広告だった。マウスは夜行性なのだから、夜の行動を見てみよう――。研究室では暗闇のケージを撮影し、退屈ともいえる映像をひたすら観察した。すると、元気に動き回っていたオレキシン欠損マウスが突然動きを止める奇妙な現象が見つかった。その正体を脳波解析で追った先にあったのが、ナルコレプシーであった。
「摂食ペプチド」を追っていたはずが、家庭用ビデオカメラをきっかけに睡眠研究の大発見へ――。時実利彦記念賞受賞時、柳沢自身がオレキシン研究を “fishing expedition” と振り返るように、予想どおりの結果を得ること以上に、予想外の結果を見逃さないことの重要性を示すエピソードである (2026年ラスカー賞HPより)。
Orexin—a brain peptide that maintains wakefulness
参考文献
(1) Yanagisawa, M., Kurihara, H., Kimura, S. et al. A novel potent vasoconstrictor peptide produced by vascular endothelial cells. Nature, 1988, 332, 411–415. DOI: 10.1038/332411a0.
(2) Sakurai T, Amemiya A, Ishii M, Matsuzaki I, Chemelli RM, Tanaka H, Williams SC, Richardson JA, Kozlowski GP, Wilson S, Arch JR, Buckingham RE, Haynes AC, Carr SA, Annan RS, McNulty DE, Liu WS, Terrett JA, Elshourbagy NA, Bergsma DJ, Yanagisawa M. Orexins and orexin receptors: a family of hypothalamic neuropeptides and G protein-coupled receptors that regulate feeding behavior. Cell, 1998, 92, 573-585, DOI: 10.1016/s0092-8674(00)80949-6.
(3) Sakurai, T., Yanagisawa, M., Takuwat, Y. et al. Cloning of a cDNA encoding a non-isopeptide-selective subtype of the endothelin receptor. Nature, 1990, 348, 732–735. DOI: 10.1038/348732a0,



































