第677回のスポットライトリサーチは、東京科学大学 物質理工学院 応用化学コース、館山・安藤研究室の伊藤 暖さんにお願いしました!
館山先生の研究室では、計算化学の知見を活かして、蓄電池、触媒、燃料電池、太陽電池の基礎から応用まで幅広い領域の研究を展開されています。今回伊藤さんは、スーパーコンピュータを用いた第一原理分子動力学(AIMD)シミュレーションを用いて、無水のFe系プルシアンブルーではLi+、Na+、K+イオンがそれぞれ異なる位置に入り、拡散の仕方も違うことを明らかにしました。MOF における基礎的な化学の理解の促進が期待される本研究の成果は非常に高く評価され、J. Am. Chem. Soc.誌に掲載されるとともに、東京科学大学と科学技術振興機構から共同プレスリリースも公表されました。
“Dissimilar Diffusion Mechanisms of Li+, Na+, and K+ Ions in Anhydrous Fe-Based Prussian Blue Cathode”
Dan Ito, Seong-Hoon Jang, Hideo Ando, Toshiyuki Momma, Yoshitaka Tateyama
J. Am. Chem. Soc. 2025, in press
DOI:10.1021/jacs.5c05274
研究室を主宰されている館山教授より、伊藤暖さんについてのコメントを頂きました!
暖さんは、研究に対する情熱が半端なく、「何か新しい概念を見つけてやろう」という探究心にいつも満ち溢れています。とはいっても、一発狙いではなく、地に足がしっかりついた若者で、教科書を読み込んだり、地道な計算をコツコツとやり抜いたり、批判的コメント・指摘にも柔軟に対応したり、一流研究者となる資質を十二分に持っていると感じられます。実際、今回のJACS論文でも、1年間にわたるデータの再計算という心折れそうな作業を着実にこなし最終的に新しい知見を見出したことは指導教員として大変嬉しく思う瞬間でした。
研究室内では、場の空気を柔らかくする穏やかな協調性と、自分の意見をしっかり持つ芯の強さを兼ね備えたバランス型。黙々とやっているようで、ちゃっかり面白い視点を差し込んでくるあたりも、なかなか油断なりません。英語も堪能で国際的な研究室を引っ張ってくれる役割もしてくれています。
今回の研究を通して得た経験とスキルを武器に、きっとこの先もユニークで新しい視点からサイエンスを切り拓いてくれると信じています。そしてそのときもきっと、変わらず真面目に、でも少しお茶目に、楽しそうにやっているんだろうなと。これからの彼の活躍が楽しみでなりません!
それでは今回もインタビューをお楽しみください!
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
スーパーコンピュータ「富岳」を用いた高精度計算により、Naイオン(Na+)電池の有望な電極材料であるプルシアンブルー(PB)結晶におけるNa+の拡散機構とPB結晶の動的な無歪み性が室温以下の高速拡散に重要であることを提唱しました。これは「大きい孔が拡散に有利」という典型的な考え方を書き換え、また開発競争が加速するNaイオン電池の正極材料設計指針を飛躍的に前進させる成果です。
近年、資源制約フリーなNaイオン電池の研究が著しく加速しており、電池性能を決定づける正極材料の性能向上は重要な課題となっています。その解決法の一つとしてPB正極(図1)の利用が注目を集めていますが、PB正極の充放電速度向上の鍵となるNa+拡散の観測・制御は難しく、PB正極の材料設計の課題となっていました。
![]() 図 1. (a) イオン二次電池の模式図。 負極から正極へと、リチウムイオンなどのプラスの電荷を帯びたイオン(濃いピンク色の丸)が移動することで、電流が流れる。(b)正極材料の一種であるプルシアンブルー(PB)結晶。 (c)PB 結晶の孔の中で拡散する A+(= Li+、Na+、K+)イオンとそのサイズの比。 |
本研究では、スーパーコンピュータ「富岳」等を利活用することで、温度効果も含めた高精度な原子レベルの計算、第一原理分子動力学計算(AIMD)を世界に先駆けて実行しました。その結果、Li+、Na+、K+の拡散特性の比較を通して、Na+が室温以下でも高い拡散係数を維持すること、その要因としてPB結晶の動的な無ひずみ性が重要であることを示しました (図2)。一般的に、電池の劣化は正極材料のひずみや膨張によって引き起こされます。したがって、本研究結果は、Naイオン電池の正極材料として、PB結晶が低温〜室温で高速充電が可能であるだけでなく、長寿命化が期待できることを示唆していると言えるでしょう。
得られた知見は、一般の多孔性結晶内のイオン拡散の基礎学理に新たな視点を与えるものであると同時に、室温以下で優位に駆動するNaイオン電池の材料開発にも大きく貢献するものと言えます。
![]() 図 2. 2 × 2 × 2 の PB ケージ構造において、 (a)四つの Na+イオンが偏位面心位置と (b)四つの Li+イオンが面心位置のみを占有する場合の安定配置。 (c-d) Na+、 Li+の拡散に伴う動的な PB 結晶のひずみ。 Na+、Li+が面心位置にいる際の結晶構造ひずみ(矢印はひずみ方向)を示している。 |
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
私は修士課程まで量子化学系の研究室に所属し、電子密度解析を用いたPB類似体中のLi⁺イオン拡散メカニズムの解析に取り組んでいました(J. Phys. Chem. A 2022, 126, 39, 6814–6825)。この経験から、電子状態計算の精度に対して強い関心とこだわりを持つようになりました。
博士課程では、AIMD計算を用いる研究室に移り、新たに電池材料の研究を始めました。当初、多くの既存研究が「統計的な精度」(=長時間のAIMD計算)を優先するあまり、電子状態計算の精度が簡略化されていることに気づきました。実際、自分でも従来通りの設定で計算を行いましたが、物理的に納得のいく結果は得られませんでした。
この違和感の背景を探る中で、「電子状態の記述をもっと丁寧に行うことが、この材料系の本質に迫る鍵になるのでは」と考えるようになり、電子状態計算の精度を変えながら、Li⁺、Na⁺、K⁺イオンの拡散挙動を比較するという方向に舵を切りました。これは当初の研究計画にはなかった展開でしたが、修士課程で培った知識と視点があったからこそ、疑問を持ち、それを掘り下げる決断ができたと思います。
とくにNa⁺イオンの挙動を正しく捉えるためには、PB結晶中の電子状態の扱いが極めて重要であることを示した結果が得られました。その条件を系統的に検討する作業には多くの時間と計算資源を費やしました。これらの比較には多数の計算ケースが必要となり、Supporting Informationは最終的に45ページを超えましたが、それだけの情報量を整理するプロセス自体が、研究内容の再構成や論文構成力の強化にもつながりました。
この一連のプロセスを通じて、遷移金属を含む材料系のAIMD計算に関する実践的なノウハウを深く学ぶことができました。また、他分野(量子化学→第一原理計算)からの視点が新たな発見につながるという経験は、自分の知識基盤をどう応用し直すか、という点においても深い思い入れがあります。
加えて、研究成果をどのように「出版可能な形に仕上げるか」という観点から、ジャーナルの選定、論文構成、カバーレター、共同プレスリリースの書き方まで含めて戦略的に取り組んだことも、大きな学びでした。特に、レビューの通過可能性を高めるため、査読者候補が参加する国際学会での発表や、最近のハイインパクト誌の傾向分析など、研究外の要素も含めて工夫を重ねた経験は、今後アカデミアで研究を継続する上でも貴重な財産だと感じています。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
私の研究では、AIMD計算を用いて、電池材料中のLi⁺、Na⁺、K⁺イオンの拡散挙動を原子レベルで明らかにしようとしました。ただし、このアプローチには大きな壁がありました。多くの先行研究では、室温での拡散性を推定するために、「高温でのシミュレーション結果から室温の拡散係数を近似する」といった手法が使われています。また、電子スピン(スピン分極)の影響を無視するという近似もよく取られます。これは、スピンの影響が小さい「剛直な電子状態をもつ固体電解質」では、ある程度うまくいく手法です。
しかし、私が扱ったPB結晶は、鉄イオンの異なる価数(Fe²⁺, Fe³⁺)を含む混合原子価錯体であり、電子スピンを無視した計算では構造や物性を正しく再現できませんでした。そこで私は、室温付近の電子状態の精度に真正面から向き合うことにしました。どんな条件であれば、電子状態と統計精度のバランスが取れ、かつ実行可能か――この判断のために、1年近くかけて試行錯誤を繰り返しました。
その結果、従来条件と比べて高コストにはなったものの、結果の精度を優先した電子状態計算精度の設定にたどり着きました。このような高負荷計算が実現できたのは、物質・材料研究機構(NIMS)やスーパーコンピュータ「富岳」などの計算資源を使える環境、そしてその機会を与えてくださった指導教員のサポートがあったからこそです。結果として、室温におけるA⁺イオン拡散の評価には、電子スピンの取り扱いが極めて重要であることを、実計算を通じて実証することができました。
技術的な困難に加えて、なかなか論文成果が出ない期間が続いたことも大きなプレッシャーでした。周囲の同期が論文を出し始める中、自分だけが成果を出せていないような焦りを感じ、憂鬱になることもありました。
そんな中で私が意識していたのは、「精神が腐らないようにすること」です。気持ちを切り替える工夫をしながら、できる範囲で日々の生活リズムを整えるようにしました。また、小さな成功体験を積み重ねることも支えになりました。例えば、研究以外の面でも「うまくいった」と思える瞬間を大事にするようにしました。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
私は物理系の出身ですが、ミクロなスケールで見れば、物理と化学が関心を寄せる現象には多くの共通点があると感じています。将来的にもアカデミアの研究者として、電子状態や構造の歪みに着目しながら、基礎・応用の両面から化学にとって本質的な課題に取り組んでいきたいと考えています。
今回、応用計算化学の分野で求められる素養をある程度身につけられたという手応えを得ました。一方で、新しい理論やアルゴリズムの開発という、理論研究者としての本質的な貢献はまだ十分に果たせていないという自覚もあります。そうした問題意識から、理論電気化学計算プログラムの開発を早稲田大学の学生と共に取り組んでいます。
日々の議論を通じて、意欲的な学生たちから刺激を受けると同時に、教育者としての成長の機会もいただいています。今後は、勢いのある後輩や先輩と力を合わせながら、化学の発展に、教育の観点からも広く貢献できるよう努めていきたいと思います。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
研究には技術的なハードルと同じくらい、精神面の持続力も大事です。論文が出るまでには時間がかかることもありますが、焦らず、柔軟に取り組み続けることが大切だと思います。特に博士課程では、「うまくいかない時間」をどう過ごすかが、その後の力になると感じました。
また、化学系出身でない私が、こうして化学を志す皆さんにメッセージをお伝えする機会をいただけたことは、大変光栄に思っております。
私は物理、化学、そして応用数理の境界領域に身を置いており、その立場から、少しでも皆さんの研究や将来に役立つ視点を共有できればと思います。
近年の物性物理や化学の分野では、計測技術の飛躍的な発展に伴い、ミクロとマクロを接続する研究への注目が高まっています。複数の時空間スケールを結びつけるには、理論と実験の連携、さらには計算科学との融合がこれまで以上に求められるでしょう。ゆらぎのエネルギー論やマルチスケール解析といったテーマはその一例であり、国内でもJSTの大型研究費公募などにその傾向が見られます。
このような背景の中で、化学を学ぶ皆さんに期待されているのは、自分の専門分野に閉じることなく、物理や数理、材料といった異分野の知見を柔軟に取り入れ、新しい課題設定に挑む姿勢だと感じています。ぜひ、分野を超えたつながりを恐れず、広い視野で研究に取り組んでください。
今後、このような問題意識を共有できる皆さんと、共同研究や議論の場でお会いできる日を楽しみにしています。
最後に、本研究の遂行にあたり、多くの方々のご支援をいただきました。
- 物質・材料研究機構(NIMS)および東京科学大学において、常に的確なご指導と研究環境をご提供くださった指導教員・館山佳尚先生
- NIMS在籍時に日々の議論や技術的サポートを通じて多くの刺激をいただいたJang Seonghoonさん(現・東北大学)
- 博士課程進学後、早稲田大学にて共同研究の機会をいただき、さまざまなご助言と支援をくださった早稲田大学 門間聰之先生
- 修士課程在学時までの研究指導に加え、NIMSでの研究インターンの機会を後押しいただき、本研究の出発点を作ってくださった山形大学 安東秀峰准教授
また、全所属の山形大学、NIMSと現所属の早稲田大学、東京科学大学にて研究面で接することがあった方々にも大変お世話になりました。上記の共同研究者の方々のご指導とご支援がなければ、本研究に取り組むことはできませんでした。深く感謝申し上げます。
研究者の略歴

名前:伊藤暖
所属:
– 早稲田大学 先進理工学研究科 ナノ理工学専攻 博士後期課程3年
– 東京科学大学 物質理工学院 応用化学コース 特別研究学生
専門:計算材料科学、理論化学、固体イオニクス
略歴:
2016年 東北学院榴ケ岡高校 普通科 卒業
2019年―2020年 Latvia University Quantum Algorithm Group, international student
2021年 山形大学 理学部物理学科 卒業 (安東研究室)
2023年 山形大学大学院 理工学研究科 理学専攻 物理学分野 卒業 (安東研究室)
2023年―現在 早稲田大学 理工学術院 先進理工学研究科 ナノ理工専攻 (館山-門間研究室)
2023年―2025年 物質・材料研究機構 界面電気科学グループ 研究研修生 (館山グループ)
2024年―現在 日本学術振興会特別研究員 DC2
2025年―現在 東京科学大学 物質理工学院 応用化学コース 特別研究学生 (館山-安藤研究室)

































