第667回のスポットライトリサーチは、東京大学大学院工学系研究科 野崎研究室 の萬代遼さんにお願いしました。
今回ご紹介するのは、ルイス酸性部位を備えた特異なアニオン「BBcat」の開発に関する研究論文です。
遷移金属触媒では、BF₄⁻やPF₆⁻などの有機溶媒への溶解性を高めるためのカウンターアニオンが一般的に用いられていますが、これらのアニオンは通常、反応に関与しないものとして反応機構から省略されるのが通例です。
本研究では、ボレートアニオンの周囲にルイス酸性を示すボロネートエステル構造を組み込むことで、新たな機能性アニオン「BBcat」を創出し、これが遷移金属錯体のカウンターアニオンとして機能することを明らかにしました。
岩崎先生のコメントにもある通り、筆者も萬代さんの発表を第15回大津会議で拝聴し、その圧倒的なプレゼンテーション力に強い感銘を受けました。研究内容だけでなく、リサーチプロポーザルも非常に完成度が高く、見事、優秀発表賞を受賞されています!
本成果は、Angew. Chem. Int. Ed.誌 原著論文およびプレスリリース(日本語・英語)に公開されています。
“Stable Yet Strongly Lewis-Acidic Anions Enabling Cooperative Catalysis with Cationic Transition-Metal Complexes”
Ryo Mandai, Takanori Iwasaki,* and Kyoko Nozaki*, Angew. Chem. Int. Ed. 2025, e2025033322. DOI: 10.1002/anie.202503322
研究を指導された野崎京子教授(東大)と岩﨑孝紀准教授(研究当時、現九州大学教授)から、萬代さんについて以下のコメントを頂いています。それでは今回もインタビューをお楽しみください!
野崎先生
萬代さんは卒業論文研究開始と同時に、コロナ禍で自宅待機になった学年です。オンラインで、「今だからできること」と称して日々の研究に縛られない議論をしていたのを思い出しました。研究室に戻り、准教授の岩﨑さん(現九州大学教授)主導で対アニオンに着目した触媒反応開発を開始しました。5年にわたる紆余曲折を経てついに形にできたこと、萬代さんの類まれな才能と情熱、何よりたゆまぬ努力があってこそと心から敬意を表します。
岩崎先生
触媒サイクルで遷移金属の対アニオンが省略されている。論文でよく見かけますが、反応機構を考える際にイオン性錯体の両方のイオンの機能を考えるべきなのでは?という疑問に対する答えを具現化したのが、今回萬代君が開発してくれたルイス酸でありながらアニオン性という新しい分子です。
助教時代に取り組んだグリニャール試薬と遷移金属塩から生じるアート型錯体を用いた反応開発の過程で対カチオンであるマグネシウムカチオンがルイス酸として脱離基の活性化に重要な役割を担っていることに気づきました(有機合成化学協会誌2020, 78, 109)。これを汎用のカチオン性遷移金属錯体の対アニオンの分子設計に落とし込むという研究提案に萬代君は試行錯誤しながら具体的な分子の設計と合成・評価に非凡な才能を発揮してくれました。
ルイス酸点としてカテコールで安定化したホウ素を提案してくれた時は「ルイス酸として弱すぎひん?」と思いましたが、綿密に組み立てられた実験で触媒として必要な要件を満たしたルイス酸点であることを示してくれました。
萬代君は実験技術だけでなくプレゼン能力も抜群です。今回の成果についても論文になる前から片手で収まらない数の発表賞を獲得しています。論文を読む際は彼のセンスが光る図表にも注目してください。
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
アニオン(陰イオン)でありながら強いルイス酸性を示す分子を実現し、これを遷移金属触媒と組み合わせることで触媒に分子認識能を付与する手法を開発しました。
負電荷を持つアニオン(陰イオン)は、電子が余っている状態であり、教科書的には塩基性(=電子を与える性質)を示すとされています。一方で、電子を引き抜く性質をもつ酸性分子は、本質的にアニオンと相容れません。実際に従来のアニオンの触媒への応用は、すべからく塩基としての性質に基づいていました。
これに対し、我々はアニオンでありながら強いルイス酸性を示す安定イオンの合成に成功しました。その構造的特徴からBBcatと名付けたこの分子がルイス酸性を示すことを、塩基性分子であるトリエチルホスフィンオキシドによって滴定することにより実験的に確かめました。最大の特徴はその熱的安定性で、固体として単離可能なほか、遷移金属錯体の対アニオンとして利用できることが示されました。

開発したBBcatの構造
さらに研究を続けていく中で、BBcatが遷移金属触媒反応において化学選択的な活性向上を示すことを見出しました。BBcatをイリジウム触媒と組み合わせ、2つ以上の置換基をもつベンゼン誘導体の重水素化反応を検討したところ、従来の触媒に比べ8.2倍反応速度が上昇しました。興味深いことに、BBcatによる活性の向上は、基質上の置換基の塩基性と立体に強く依存することから、BBcatがその酸点で分子を見分けて選択的に反応を触媒していると考えられます。イオン対に働く静電相互作用は、認識された基質を遷移金属触媒に近接させ、反応を加速していると推察されます。このことは陽イオン性の分子触媒にルイス酸性アニオンを加えることで、分子を見分ける能力を簡単に付与できることを示唆しています。

BBcatをカウンターアニオンとして有するイリジウム触媒による位置選択的C-H重水素化反応
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
本論文最大の見どころは、「安定ながら強いルイス酸性を示すアニオン性分子」の実現です。先述の通り”ルイス酸性”と”アニオン性”は相反する性質であり、同一分子内にこれらの性質を両立することは化学的直観に反します。実際に、ルイス酸点をむき出しで持つアニオンは、アニオンのルイス酸点への分子内転位や電子移動を経て熱力学的に安定な化学種へ分解する傾向があり、強いルイス酸性と安定性、金属に対する弱い配位能をすべて併せ持つ分子の合成は極めて困難でした。本研究では以下の3つの戦略により、この課題をクリアしています。すなわち、「①非求核性の4配位ボラート(B–)まわりにTd対称な構造を持つ、②ボラン上にカテコール保護基を導入する、③リンカーにフッ素を導入し、ボラートの安定性を高めつつ、ボランのルイス酸性を強める。」です。とりわけ鍵になったのは③フッ素の導入で、遷移金属と組み合わせた際のトランスメタル化による分解の抑制にも寄与していると考えられます。フッ素化されたルイス酸性アニオンの合成には、オルト位にフルオロ基を有するテトラメタル中間体を経由する必要があり危険性の高い実験を繰り返す必要がありましたが(オルトフルオロ化されたアリール金属種は一般的に高い爆発性を持つ)、小スケールでの種々検討ののちに中間体を安全に発生する条件を見出し、ついにBBcatを96%NMR収率で得ることに成功しました。(再現される場合にはくれぐれも爆発事故にはお気を付けください!!!)この時点で合成の最初のトライアルから3年半の歳月が流れていましたが、単結晶X線解析のAutoChemに目的の構造が現れた際には安堵のため息とともに、すべて報われたように感じました。

BBcatの分子設計
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
ルイス酸性アニオンの合成とならんで工夫を要したのは、アニオン上の酸点を活かした遷移金属触媒作用というコンセプトの実証です。アニオンの合成の成功に先立って、 “ルイス酸性アニオンだからこそできる”なにかをしたいという想いはずっとありましたが、その実現にはBBcatの単離からさらに1年を要しました。遷移金属錯体-BBcat協働的な触媒作用を実証するためには、BBcat触媒が他のアニオンと異なる反応性を示すだけでなく、非アニオン性のルイス酸添加と差別化する必要があります。この観点から、ルイス酸によって促進される触媒系をあえて避けて検討しました。重合やいくつかのC–H官能基を試しましたが、BBcatによって活性が上がるどころか、一般的な弱配位アニオンBArFよりも収率が下がるケースがほとんどでした。そこで反応後の反応液をNMRによって詳細に解析すると、BBcatを用いた系のみ加熱によって配位子の遊離が見られたことから、BBcatが配位子の金属からの解離を促進していると考察しました。そこで①二座以上の堅牢な配位子を用い、②低温で速やかに進行する反応に絞って検討したところ、Ir/PHOX錯体による二官能性アレーンの水素同位体交換反応において、BBcatがBArFよりも高い活性を示しました。一般的に1,2-二置換アレーンのC–H官能基はキレーション等による触媒活性の低下が問題になるといわれており、BBcatによる配位子(ここでは反応基質)の遊離が逆にコンセプトとかみ合った幸運なケースといえます。本論文では水素同位体交換反応によってコンセプトを証明していますが、さらなる応用も目下検討しており、続報を期待していただけますと嬉しいです。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
将来は大学教員を志しています。化学は理論・実験の両側面において、掘り下げるほどに新たな問いが立ち現れる、尽きることのない魅力を持った学問分野です。しかし同時に、現在は化学との向き合い方を再考すべき転換期にあるとも感じています。理由のひとつは、実生活が物質的に飽和しつつあることです。こと有機合成化学においては1828年のヴェーラーによる尿素合成以降、数世代にわたる化学者たちの努力により、現代では(少なくとも我が国においては)プラスチックや医薬品をはじめとする化成品に容易にアクセスできるようになりました。結果として、人々の関心は「存在しない未知の物質」よりも、むしろ「既にあるものをいかに効率よく・公平に利用するか」へと移りつつあるように思われます。加えて、今年は量子力学の成立から100周年、化学の微視的描像も理論的・計算的に高度な成熟を迎えつつあります。満たされつつある実社会の隣にあって、それでもなお多彩な顔を見せ続ける化学に対していかに向き合うべきか、自問しています。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
本研究を遂行するにあたり野崎京子教授、岩﨑孝紀准教授(現九大教授)には数え切れないほどのご指導とご助力を賜りました。この場を借りて深く御礼申し上げます。また、研究室の皆様には6年を通して多く支えていただきました。この研究室でここまで研究できて本当に良かったです。研究室外でも学会やセミナーで広い研究分野の方々にお会いし、数多くのご助言や激励をいただきました。改めて感謝申し上げます。
本記事は、とりわけ研究で結果が出ず悩んでいる・これからに不安を感じている学生の方々に届けば幸いです。思い通りに進まない実験や結果に直面すると、自分の力量や向き不向きを疑ってしまうこともあるかもしれません。周囲の言葉や態度が重く感じることもあります。でも、振り返ってみると、そうした時期にもらった言葉の中に、前に進むきっかけがあったと感じます。無理に自分を追い込まず、時には立ち止まったり、遠回りしながらでも、少しずつ進んでいけばいいと私は思います。
最後に、本研究成果を取り上げてくださったChem-Stationのスタッフの皆様に感謝申し上げます。
研究者の略歴

(左)萬代遼 (右)岩﨑孝紀教授
名前 (ふりがな): 萬代 遼(まんだい りょう)
所属: 東京大学工学系研究科化学生命工学専攻 野崎研究室 博士3年
略歴:
2021年3月 東京大学工学部化学生命工学科 卒業
2021年4月 東京大学大学院工学系研究科化学生命工学専攻 修士課程 進学
2023年3月 東京大学大学院工学系研究科化学生命工学専攻 修士課程 修了
2023年4月 東京大学大学院工学系研究科化学生命工学専攻 博士課程 進学
2023年4月 日本学術振興会特別研究員(DC1)
関連リンク
- 岩崎先生コメント内の有機合成化学協会誌の記事
- 第624回のスポットライトリサーチ 野崎研究室 山田 悠斗さん
「ウレタンを選択的に分解する触媒の開発―カルボニル基を保持してウレタンからホルムアミドとアルコールへ分解ー」 - 日本人化学者インタビュー第16回 教科書が変わる心躍る研究を目指すー野崎京子教授































