芳香環が平行に並んで近接しているとき、その構造を「π–π スタッキング」と表されることがよくあります。しかし中性で閉殻の芳香環は π 軌道を介して特別な引力を感じているわけではありません。芳香環が平行に近接した配置は、静電相互作用、分散力、脱溶媒和、誘起·分極、交換反発という一般的な分子間相互作用から説明されます。
本記事では、J. Am. Chem. Soc. 誌に Perspective として 投稿された上述の太字で示された Iverson らの意見1について紹介しつつ、π–π スタッキングいう言葉をどのように使うべきかについて考えたいと思います。
Rethinking the Terms “π-Stacking” and “π–π Stacking” Again: A Proposal to Clarify the Language of Aromatic Interactions
Xiao, Q.; Levine, M. S.; Iverson, B. L. J. Am. Chem. Soc. 2026, 148 (15), 15331–15340. DOI: 10.1021/jacs.6c03371.
はじめに:「π–πスタッキング」にまつわる論争
芳香環が平行に並んで近接しているとき、その構造を「π–π スタッキング (π–π stacking)」と表現している論文がよく見かけられます。実際に Web of Scienceで検索してみると、2024年だけで「π-stacking」あるいは「π–π stacking」という語句をタイトル・アブストラクト・キーワードに含む論文は1538報あったそうです。芳香環が積み重なったような構造は、DNA の二重らせん構造2や超分子の集合構造など3、さまざまな分野で見られます。
そのような構造をもたらす物理的起源として 「π–π 相互作用 (π–π interactions)」という分子間相互作用が引き合いに出されることがあります4。
一方で、π–π 相互作用という言葉が原因となり、「π–πスタッキングはπ軌道を介した特別な引力により生じるものである」という誤った認識も生まれていました。そしてそのような認識は誤りである、という主張が 1990 年ごろから計算や実験的に繰り返し示されてきました5,6。今回、Iverson らは「π–πスタッキングが誤解を生みやすい用語である」という主張について再び論じ、芳香環が積み重なった構造の物理的起源に対する現代的な解釈を踏まえて、その物理的起源を EDDIE と呼んではどうかという提案を J. Am. Chem. Soc. 誌に Perspective として投稿しました1。
今回から 2 回に分けて、芳香環が積み重なる構造の物理的起源はなにか、なぜ「π–π stacking」という用語が推奨されないのか、そして私たちは今後どのように言葉を選べばよいのかについて、Iverson らの主張を整理したいと思います 。
筆者らの主張の要点 (忙しい人はここだけ読めば十分)
- 無置換の芳香族分子は、多くの場合中央揃えには積層しない
- 「芳香族の π 軌道同士が特別な引力を感じる」という描像はほぼ成立しない
- 芳香族環が平行に近接した配置は、静電相互作用 (electrostatic force)、分散力 (dispersion)、脱溶媒和 (desolvation)、誘起作用(induction)、交換反発 (exchange repulsion) という一般的な分子間相互作用から説明される
- 芳香環が積層した構造の物理的起源を表すために、上述の 5 つの用語の頭文字をとって EDDIE と呼称することを提案する
- π–π スタッキングという用語は、芳香環が積層した構造を記述するための語としてのみ使用されるべき
文献に蔓延するπ–π スタッキングの 2 つの用法
筆者らは、「π–π スタッキング」が2つの異なる意味で使われていることを指摘しています。1つ目は、構造の記述です。すなわち、芳香環が積層した構造そのものを記述するために「π–π スタッキング」と呼ぶことです。2つ目の意味は、その積層構造の原因の説明です。その用法では「π–π スタッキング」を「π–π 相互作用」と言い換えても文が成立します。

構造を記述する意味での「π–π スタッキング」は、分子がどのように充填しているかを表すのに正確かつ便利な言葉であると、筆者らは明記しています。この記事では、この用法での「π–π スタッキング」を構造的用法と呼ぶことにしましょう。
一方で、筆者らが問題視しているのは、2つ目の用法、すなわち「積層構造の原因の説明としての π–π スタッキング」そして「π–π 相互作用」という用語です。この記事では原因的用法と呼ぶことにします。π–π 相互作用という言葉からは、π電子同士で特別な引力が働いており、それが原因となって中央揃えに芳香環が積層した構造を生むという印象を与えます。さらに、その相互作用はあたかも π 電子に特異の機構であるような印象さえ生みます。
しかし、さまざまな実験や理論研究の結果、実際には π 電子の特別な相互作用はほとんど存在せず、芳香環が積層した構造は普遍的な分子間相互作用として解釈できると明らかになってきました。したがって、原因的用法での「π–π スタッキング」や「π–π 相互作用」は敬遠されるべきなのです。繰り返しになりますが、構造的用法での π–π スタッキングについては、筆者 Iverson らは有用であると考えているようです。
無置換のベンゼン環は実際には中央揃えに積層しない
π–π スタッキングの原因的用法が問題なのは、現実には中性の芳香族分子は中央に整列して積層されることはなく、π 電子同士で特別な引力が働いているとは言い難いからです。芳香族分子が配列するときによく議論されるパターンとして、次の3つが考えられます: 中央積層型 face-centered stacking、T 字型 edge-to-face、ずれ積層型 slip-stacked, parallel-displaced (日本語訳はこの記事の筆者によるものです)。

π–π 相互作用と呼ばれるところの非結合性の分子間相互作用によって、 π 電子同士で特別な引力が働くならば、中央積層型が有利になりそうな予感がします。しかし、無置換の中性の芳香族分子の結晶構造を見てみると、実際によくみられるのは T 字型やずれ積層型です。例えばベンゼンの結晶は T 字型構造を示します7。ベンゼンを一次元に拡張したナフタレン8やヘキサセン9も同様に T 字型構造を示します。さらにピレン10やコロネン11のような円盤状の分子ですら完全な中央揃えで積層構造は取らず、部分部分の分子間配列の関係はT字型構造とずれ積層構造の組み合わせであると考えることができます。

タンパク質の世界でも同じです。フェニルアラニン (Phe) 、チロシン (Tyr)、ヒスチジン (His)、トリプトファン (Trp) といった芳香族側鎖における配置においても、中央積層型よりもT字型やずれ積層構造の方が圧倒的に優勢だと示されています12,13。
「π–π スタッキングが π 電子間の特別な引力によるならば中央積層構造が最も安定なはず」という素朴な期待は、構造のデータベースから否定されるのです。
EDDIE: 5つの寄与で芳香環の配列構造を理解する
それでは、どういった相互作用が、芳香環の配列を支配しているのでしょうか?Iverson らは、芳香環の配列に重要な役割を果たす分子間相互作用 5 つをリストアップしました。それらの頭文字をとり、分子間相互作用をEDDIE と総称することを提案しています。
静電相互作用 electrostatic force
分散力 dispersion force
脱溶媒和 desolvation
誘起作用 induction
交換反発 exchange repulsion
これらの相互作用は分子間相互作用として一般的に議論される要素で、いくつかは大学初級の一般化学や中級–上級の物理化学に登場する概念として記述されていますね。上の5つの相互作用は芳香環に特別なものではありません。
また分子間相互作用の物理的源を論じるにあたっては、理論化学計算を用いたエネルギー分解分析 (energy decomposition analysis; EDA) という手法がよく用いられます。上述の要素のいくつかはエネルギー分解分析でも論じられる要素として知られています。
上述のそれぞれの要素について、学部レベルの教科書に記載される説明とエネルギー分解分析の観点から簡潔に整理していきましょう。と思ったのですが、書き始めると長くなってしまったので EDDIE の要素については次回の記事でまとめていきます。次回の記事を読むためのモチベーションとして、これらの細かい言葉の使い分けがなぜ重要かについて簡単に述べて、この記事を締めようと思います。
言葉は設計指針を変える
結晶構造やホスト–ゲスト相互作用について議論するときに、「π–π stackingで安定化されている」の一言で済ませるのは便利です。しかし、その説明は「分散力と脱溶媒和を主な駆動力にする凝集」とか「置換基の部分電荷による静電相互作用による積層構造」といった実際に効いている分子構造や実験条件による外部要因 (溶媒) を曖昧にしてしまうことがあります。例えば芳香環の分子間相互作用を強めたい場面で、「π–π stackingが効くから芳香環を配置すればよい」と考えるのと、「置換基−環頂点の静電相互作用を最適化して積層の配置を制御し、接触面積で分散を稼ぎ、周囲を疎水的に閉じて脱溶媒和の利得を取りにいく」と考えるのとでは、立てる仮説も実験も大きく変わってくるでしょう。
というわけで、上述のように具体的で説得力のある議論ができるように、次回の記事でそれらの分子間相互作用について学んでいきましょう。
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関連書籍
参考文献
- Xiao, Q.; Levine, M. S.; Iverson, B. L. Rethinking the Terms “π-Stacking” and “π–π Stacking” Again: A Proposal to Clarify the Language of Aromatic Interactions. J. Am. Chem. Soc. 2026, 148 (15), 15331–15340. https://doi.org/10.1021/jacs.6c03371.
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