[スポンサーリンク]

一般的な話題

トリチウム水から完全無害な水素ガスを作り出す?

[スポンサーリンク]

東日本大震災以来我が国の原子力に対する見方はずいぶん様変わりしたように思います。

原子力政策については科学者としてある程度のレベルで意見を持つべき責任があると考えており、筆者も化学者の端くれとしてスタンスはあります。

様々な考えがある中で国の方向性を含めた議論は必要ですが、科学的に誤りがある議論や、風評による二次的被害などは決して許されません。最近ネットを賑わせたトリチウム除去をめぐる騒動に関し改めて化学(科学)教育の重要性を再認識するにいたりました。ここでもう一度皆さんと確認しておきたいと思います。

今回のポストではその意見表明や原子力政策に対する批評は一切行いませんことをお断りいたします。

さて事の発端は東洋経済オンラインの記事に発します。騒動の経緯などはこちらをご覧下さい。当該記事は既に削除されており、現在では魚拓でしか読むことはできません。魚拓から抜粋します。

(前略)

さて、そこでまず気になるのはこの技術の中身である。生まれたての技術、しかも我が国と世界の命運を握っている技術であるので十分に秘密を守りながら、あえてざっくりとその概要を書くとこうなる:

●特殊加工した炉の中に、オリジナルの溶媒を入れる。そしてその中に気体や液体を入れて、特定の温度で熱する。技術的にはこれだけ、である。無論、その運用には熟練した技が必要だ

●A社の実験施設においては、これまで繰り返し「重水(D2O)」をこの炉の中に入れ、試験を行ってきた。その結果、気体として水素などが出てくることが判明した

●さらにこの炉の中にトリチウム水(T2O)を入れると、水素ガスが出て来ることが判明している。すなわち完全無害化されることになるのだ

(中略)

しばらくすると温めた炉を抜けて出て来る物質の性質を、傍らに設置された質量計で見ることができる。

「あ、これ見てください、○○さん。普通に考えると、地球上では存在し得ない物質が出て来ていますよ」

地球上では変わらないはずの元素が、明らかにそこでは「変性」していたのである。そして理論的には宇宙空間のどこかでしか存在し得ない物質が、私たちの目の前に出現していた。私は思わず「元素転換ですね、これは!」と叫んでしまった。

(後略)

文中名前の部分は筆者により伏せてあります

地球上では存在し得ない物質ですか・・・それを質量スペクトルでどうやって測定したんでしょうか?というつっこみは置いておくこととしまして、なるほど放射性物質の除去というのは福島原発事故を終息に向かわせるには必須の技術と言えます。放射性セシウムなどは現在イオン交換樹脂吸着剤などを用いて回収するなどの措置がとられているものと推察されます。ではこの放射性物質を除染、除去するというのはそもそもなんなんでしょうか?皆さんもお皿が油で汚れたら洗剤とか重曹とか使って洗いますね。これは油を水に分散、溶解するようにしてその油を流してしまうだけですから、その油は基本的全て下水に行きます。

もし、放射性物質でそのような洗浄方法を使ったら、単に放射性物質の場所が移動するだけで無意味です(濃度が下がるというある一定の意味はあるか・・・)。

注意しなければならないのは、現在のところ放射性物質を真の意味で除去するには、その元素が放射性を持たない核種に変化するまで待つしかないという事実です。ですから例えセシウムを回収できたとしても放射性廃棄物として保管しておき、放射性が事実上無くなるまで保存するしかありません。全量の半分がいなくなる時間の事を半減期と呼び、例えばセシウム137の場合は半減期約30年ですので約200年経たないと元の100分の1に減らない計算です。

繰り返しになりますが、放射性物質に液体や気体か何かをふりかけると放射性が消えるという技術は存在しえません。原子核を変化させるにはそれこそ大きなエネルギーを投入してやる必要がありますし、それは原子炉や原子爆弾の役割に他なりません。

tritium_1.png一家に一枚周期表が必要ですね

問題の件に戻りましょう。そもそもトリチウムってなんでしょう?そんな元素聞いたことあるようなないようなという方の方が圧倒的に多いはずです。では元素の周期表をご覧ください。さてどれでしょう

Ti 残念チタンです。

Tc それはテクネチウムです。放射性元素ではあります。

Tl それはタリウムですね。毒性はあるようです。

どうです?見つからないでしょう。それもそのはずトリチウムという元素はありません。トリチウムは水素の同位体の1つに特別に名前をつけているものです。地球上で最も多く存在する水素の原子核は1Hで原子核に陽子が1つだけあります。たまにプロチウムと呼んだりされます。次に多いのが2Hで原子核に陽子が1つ、中性子が1つあります。和名は重水素で、英名deuteriumから頭文字をとって、2Hの代わりにDで表すことがあります。例えば通常の水(軽水と呼ぶこともあります)はH2Oですが、重水素でできた水はD2Oといった具合です。

さていよいよトリチウムですが、スペルはtritiumであり、頭文字をとってTで表します。重水素よりさらに中性子が1個多い原子核をもっており、中性子2こ、陽子1こで計3個、すなわち3Hで、和名は三重水素というわけです。三重水素の原子核は不安定なので自発的に壊変します。すなわち放射性を持ちます。

tritium_2.jpgトリチウムで発光する時計なんてものも売られているようです

大事なことなので繰り返しますが、トリチウムというなんだか特殊な元素があるわけではなく、あくまでも水素の同位体です。よって、通常の水素原子1Hと3Hは“化学的な”性質に差は全くと言っていいほどありません。よって、1Hと3Hが混ざって存在する物質、例えばH2OとT2Oがあったとしても、そこに何らかの物質を加えて化学反応させたところで、別々の反応は起こりません。ただし、原子核に含まれる粒子の数が違うので、原子の重さは約3倍の重さの違いがあります。強力な遠心分離機などを用いれば“物理的に”分離することは可能です。

放射性のトリチウムが多量に含まれている福島第一原子力発電所から出てくる汚染水があったとして、その水からトリチウムを除去することは原理的には物理的手法で分離可能です。しかし、そのためには莫大なエネルギーがかかりますので、コストに見合うような効果は薄いです。 件の記事ではこの汚染水からトリチウムを除去して安全な水素に変えると言っています。トリチウムは元々水素の同位体ですから、T2Oを電気分解すれば水素ガスが発生します。すなわち化学的に

2T2O → 2T2 + O2

とする変換は非常に簡単です。

ただしここで出てくる水素ガスは1Hではなく3HからできたT2ということになりますので、安全かどうかは疑問符がつくでしょう。(実際にトリチウムを含む水では濃度としてT2OよりTHOになっている方が圧倒的に多いはずです。できる水素ガスもT2ではなくTHの方が圧倒的に多いはずです。)

2T2O → 2 1H2 + O2

という反応は絶対に起こりえません。中性子の数が左右であっておりません。中性子線でも放射するんでしょうか?

元素転換なる用語が飛び交っているようですが、3Hは放っておいても半減期12年ほどで以下のような反応式に従って勝手に元素は”転換”されます。

3H → 3He + e + (反電子ニュートリノ)

ここでできたヘリウムの同位体3Heは安定な核種なので、こうなってしまえば”安全な”物質に変換したことになります。また、重水素と核融合することで4Heになる反応(T-D反応)が知られており、これは核融合炉の実現のための有力な候補となる反応ですが膨大なエネルギーが必要です。

3H + 2H → 4He + n

もし、トリチウム原子を含んだ化合物に何らかの処理をして人工的に3Heにする反応を加速する術があるのであれば、トリチウムを除染する夢の技術になるでしょう。3Heは核融合炉を実現させる可能性があるので3Hから3Heを大量生産できる技術があれば非常に重要な、ノーベル賞級の発見になることでしょう。そのような技術が我が国で報告されたという事実は全くありませんし、今まで説明してきた通りの理由により、”トリチウム汚染水を水素ガス化して完全無害化するA社の技術”というのは科学的に全く正しいところがなく、100%あり得ないと断言します。別に陰謀でも、政治的な圧力でも何でもありません。

なんとなく科学っぽい用語で人の目を欺くというのは常套手段としてよくある手です。”マイナスイオン“などというのは存在しませんが、なんとなく”陰イオン“と誤認しますよね。”元素転換“とかいうとなんとなく意味が伝わってしまいますが、そのような科学用語はありません。ググると生物学的元素転換などがヒットしますが、カテゴリは錬金術に含まれていますし、英文サイトではfringe physicsすなわちオカルト扱いです。ちなみに生物学的元素転換で有名なケルブランが1975年にノーベル医学生理学賞にノミネートされたという記述がどこからともなく湧いていますが全くのデマです。なぜならノーベル賞関係の書類は50年間非公開なので、そんなことが分かるはずがないです。

今回のポストのようなことを主張すると、“じゃあ絶対無いって言いきれんのか?”と問われることがあります(筆者の場合よく夫婦ケンカになります)。科学では”無い”ことを証明することは並大抵のことではできません(数学はうらやましいです)。科学では、こんな現象が“ある”ことを証明することが、その提唱者に求められます。そしてその証拠が十分に根拠があれば、科学の世界で徐々に認められていき、時間がたつと科学的に正しいと認知されていきます。よく勘違いされるのですが、学会で発表したり、論文や書籍を出版さえすれば科学的に正しいということになるわけではないんです。

1990年頃科学コミュニティーでは、常温核融合で 大騒ぎしたことがあります。当時賛否あり、我が国でも大きな研究資金が動いたことがありましたが結局否定されています。常温核融合を信じている研究者は現 在でもいて、論文もたまに出ているようです。科学的手法に正しくしたがっているのであれば、常温核融合の研究をすることに対して何の問題もありません。そ の成果について発表することも問題ありません。ただ、信憑性が低いデータや無関係の実験結果を基にして、あたかもその現象が事実であるかのような言説は許 されないのです。科学と科学でないものの違いは少し分かりづらいですが、全く異質なものですので注意が必要です。

科学教育、科学リテラシーというのは人類にとって非常に重要です。最先端の科学技術は人々を幸せにもしますが、不幸にしてしまうこともあるでしょう。市民が正しい目をもって科学と付き合っていくことは今後ますます必要になってくると思います。無知の輩の妄言であれば一笑に付し悪意を持った甘言にはノーということで、安心して暮らせる世の中であって欲しいと思います。

東日本大震災、続く福島第一原子力発電所の事故はまだまだ収束したとは言いがたい状況です。特に破損した原子炉について根本的な対応がなされているわけでもありませんので、放射性物質の放出が無くなったということはありません。正しい科学によって一刻も早く解決することを願ってやみません。

関連書籍

[amazonjs asin=”4478023379″ locale=”JP” title=”元素戦略 科学と産業に革命を起こす現代の錬金術”][amazonjs asin=”4422420046″ locale=”JP” title=”世界で一番美しい元素図鑑”][amazonjs asin=”4072746606″ locale=”JP” title=”元素図鑑  宇宙は92この元素でできている―周期表ポスターつき!”][amazonjs asin=”430373490X” locale=”JP” title=”疑似科学はなぜ科学ではないのか―そのウソを見抜く思考法”]
Avatar photo

ペリプラノン

投稿者の記事一覧

有機合成化学が専門。主に天然物化学、ケミカルバイオロジーについて書いていきたいと思います。

関連記事

  1. マイクロ空間内に均一な原子層を形成させる新技術
  2. NMR が、2016年度グッドデザイン賞を受賞
  3. 有機化学美術館が来てくれました
  4. 第30回ケムステVシンポ「世界に羽ばたく日本の化学研究」ーAld…
  5. シュプリンガー・ネイチャーが3つの特設ページを公開中!
  6. クレブス回路代謝物と水素でエネルギー炭素資源を創出
  7. 化学者のためのWordマクロ -Supporting Infor…
  8. エーテルがDiels–Alder反応?トリチルカチオンでin s…

注目情報

ピックアップ記事

  1. 情報の最小単位がついに原子?超次世代型メモリー誕生!
  2. エレクトライド:大量生産に道--セメント原料から次世代ディスプレーの材料
  3. マテリアルズ・インフォマティクスにおけるデータ0からの初期データ戦略
  4. 住友化学、液晶関連事業に100億円投資・台湾に新工場
  5. 酸化グラフェンに放射性物質を除去する機能が報告される
  6. 第71回「分子制御で楽しく固体化学を開拓する」林正太郎教授
  7. 細菌を取り巻く生体ポリマーの意外な化学修飾
  8. 原子量に捧げる詩
  9. 稀少な金属種を使わない高効率金属錯体CO2還元光触媒
  10. 第12回 DNAから人工ナノ構造体を作るーNed Seeman教授

関連商品

ケムステYoutube

ケムステSlack

月別アーカイブ

2014年1月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

注目情報

最新記事

はじめから組み込んじゃえ!Ambiguine P の短工程合成!

Ambiguine Pの特徴的な6-5-6-7-6多環縮環骨格を、生合成を模倣したカスケード環化反応…

融合する知とともに化学の視野を広げよう!「リンダウ・ノーベル賞受賞者会議」参加者募集中!

ドイツの保養地リンダウで毎年夏に1週間程度の日程で開催される、リンダウ・ノーベル賞受賞者会議(Lin…

ダイヤモンド半導体について調査結果を発表

この程、TPCマーケティングリサーチ株式会社(本社=大阪市西区、代表取締役社長=松本竜馬)は、究極の…

有機合成化学協会誌2025年6月号:カルボラン触媒・水中有機反応・芳香族カルボン酸の位置選択的変換・C(sp2)-H官能基化・カルビン錯体

有機合成化学協会が発行する有機合成化学協会誌、2025年6月号がオンラインで公開されています。…

【日産化学 27卒】 【7/10(木)開催】START your ChemiSTORY あなたの化学をさがす 研究職限定 Chem-Talks オンライン大座談会

現役研究者18名・内定者(26卒)9名が参加!日産化学について・就職活動の進め方・研究職のキャリアに…

データ駆動型生成AIの限界に迫る!生成AIで信頼性の高い分子設計へ

第663回のスポットライトリサーチは、横浜市立大学大学院 生命医科学研究科(生命情報科学研究室)博士…

MDSのはなし 骨髄異形成症候群とそのお薬の開発状況 その2

Tshozoです。前回はMDSについての簡易な情報と歴史と原因を述べるだけで終わってしまったので…

水-有機溶媒の二液相間電子伝達により進行する人工光合成反応

第662回のスポットライトリサーチは、京都大学 大学院工学研究科 物質エネルギー化学専攻 阿部竜研究…

ケムステイブニングミキサー 2025 報告

3月26日から29日の日本化学会第105春季年会に参加されたみなさま、おつかれさまでした!運営に…

【テーマ別ショートウェビナー】今こそ変革の時!マイクロ波が拓く脱炭素時代のプロセス革新

■ウェビナー概要プロセスの脱炭素化及び効率化のキーテクノロジーである”マイクロ波…

実験器具・用品を試してみたシリーズ

スポットライトリサーチムービー

PAGE TOP