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K. C. Nicolaou が引退を宣言 – 全合成の巨塔と「最後の怪物」

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有機合成化学、とりわけ天然物全合成の世界を長年牽引してきた Kyriacos Costa Nicolaou 教授が、80歳を迎える2026年夏をもって正式に引退することを明らかにしました。2026年7月に Nature Reviews Chemistry に掲載されたインタビュー「Tales of total synthesis」の中で語られたものです。

K. C. Nicolaou ― この名前を聞いて、タキソール、ブレベトキシン、カリケアマイシンといった巨大天然物の構造式を思い浮かべる有機化学者も多いのではないでしょうか。

「全合成」の黄金時代を駆け抜けた化学者

Nicolaou は 1946 年にキプロスで生を受けました。ロンドン大学で博士号を取得した後、米国へ渡り、コロンビア大学、ハーバード大学を経て研究者としてのキャリアを築きました。その後ペンシルベニア大学、スクリプス研究所などで研究チームを率い、2013 年からはライス大学で研究を続けてきました。

その研究歴は、1980 年代から 2000 年代にかけての天然物全合成における歴史そのものと言っても過言ではありません。
エンジアンドル酸(1)、アムホテリシンB (2)、カリケアマイシン (3)、ラパマイシン(4)、タキソール(5)、ブレベトキシンB(6)/A(7)、エポチロンA/B(8)、バンコマイシン(9)、アザスピラシド-1(10)、チオストレプトン(11)、などなど。教科書に登場するような複雑天然物がずらりと並びます。Nicolaou 研究室のサイトに掲載された全合成リストだけでも、その守備範囲の広さが分かります。

中でも特に有名なのがタキソール(パクリタキセル)の全合成です。1990年代初頭、世界中の有力研究室が競って攻略を目指していたTaxolに対し、Nicolaouらは収束的な合成戦略を展開し、1994年に全合成を報告しました。その仕事は翌年、JACS 誌上で一連の論文として詳細にまとめられています(5)。

タキソール® (パクリタキセル) (出典: Wikipedia)

そして Nicolaou の名をさらに強く「巨大天然物全合成」と結び付けたのが、ブレベトキシンB(6) でしょう。Nicolaouは 11 個の環状エーテルが連続して縮環したラダー型ポリエーテルを相手に、10 年以上に及ぶ研究を経て 1995 年に全合成を達成しました。その過程では環状エーテル構築のための新反応・新戦略が開発され、単に一つの天然物を作るという枠を超えて、後の海洋ポリエーテル合成にも大きな影響を与えました。

ブレベトキシンB (出典: Wikipedia)

「最後の怪物」マイトトキシン

しかし、そんな Nicolaou にも攻略しきれなかった標的があります。

それが “Maitotoxin (マイトトキシン)” です。

渦鞭毛藻 Gambierdiscus 属が産生するマイトトキシンは、32 個もの環状エーテルと 98 個の不斉炭素を持つ超巨大なラダー型ポリエーテル天然物です。全合成の標的として見れば、ブレベトキシンをさらに何段階も巨大化させたような、文字通り「怪物」と呼びたくなる構造を持っています。

マイトトキシン (出典: Wikipedia)

ブレベトキシンの全合成で培ったポリエーテル合成化学を背景に、Nicolaou らはこの究極の標的にも挑みました。ただし、いきなり全分子をつなぐのではなく、巨大分子を複数のドメインに分割し、それぞれを合成する戦略を採用しています。
GHIJKLMNO 環部(12a)、ABCDEFG 環部(12b)、C′D′E′F′ 環部(12c)、WXYZA′ 環部(12d) などが次々と合成され、合成した部分構造と天然物標品の NMR データを比較することで、マイトトキシンの構造決定そのものにも重要な化学的証拠を与えました。

2014年 にはさらに巨大な QRSTUVWXYZA′ ドメインの合成まで到達しています(12e)。

しかし、それらすべてを連結したマイトトキシンそのものの全合成には、ついに至りませんでした。2026 年現在もマイトトキシンの全合成は達成されておらず、現在も九州大学の 大石 徹 教授らをはじめとする研究者によって部分構造の合成研究が続けられています。

全合成が残したもの

Nicolaou の仕事を見ると、全合成の価値が単なる「ものづくり競争」ではないことがよく分かります。

到底作れそうにない分子を標的に設定する。そのために新しい結合形成反応を考え、保護基戦略を組み替え、収束性を高め、時には天然物の構造そのものを問い直す。そして、その過程で生まれた方法論が別の分子の合成へと広がっていく。
タキソールもブレベトキシンもカリケアマイシンも、そして未完に終わったマイトトキシンへの挑戦も、その意味では同じ一本の線上にあります。

80 歳で研究室を離れる Nicolaou ですが、彼が築いた合成戦略と「複雑だからこそ作ってみる」という全合成化学の精神は、これからも天然物化学の中に残り続けるでしょう。そしていつの日かマイトトキシンの全合成が達成されたとき、その歴史を語るうえでも、Nicolaou らが築いた巨大な足場を抜きにすることはできないはずです。

筆者が選ぶ “Nicolaouの全合成” ベスト5

あくまで個人的インパクトに基づいたランキングですが、こうして見ると天然物医薬への貢献が大きく、またブレベトキシンも薬学分野で学ぶ化合物ですので、薬学者としても目を見張るものがあります。

(1) タキソール® (パクリタキセル)
1994 年に全合成を達成した、Nicolaou の業績を代表する抗がん活性天然物。

(2) ブレベトキシンB
11個の環状エーテルが連続する巨大ラダー型ポリエーテル。

(3) カリケアマイシンγ1I
非常に強力な抗腫瘍活性をもつエンジイン天然物で、後の ADC 開発にも繋がった。

カリケアマイシンγ1 (出典: Wikipedia)

(4) バンコマイシン
高度に架橋した複雑なグリコペプチド抗生物質。

バンコマイシン (出典: Wikipedia)

(5) アムホテリシンB
巨大ポリエンマクロライド系抗真菌薬の全合成で、複雑天然物合成の幅広さを示した。

アムホテリシンB (出典: Wikipedia)

関連リンク

(1) “Tales of total synthesis“, K. C. Nicolaou & Stephanie Greed,  Nature Reviews Chemistry  2026, 10, 517–518.
(2) ケー・シー・ニコラウ K. C. Nicolaou (ケムステ記事)
(3) ニコラウ祭り (ケムステ記事)
(4) Nicolaou 研の全合成達成リスト
(5) “Maitotoxin: An Inspiration for Synthesis“, K. C. Nicolaou & Robert J. Aversa, Israel J. Chem, 2011, 51, 359-377, DOI: 10.1002/ijch.201100003.

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参考文献

(1) エンジアンドル酸
(a) K. C. Nicolaou, N. A. Petasis, R. E. Zipkin, J. Uenishi, J. Am. Chem. Soc. 1982, 104, 5555–5557, DOI; 10.1021/ja00384a077.
(b) K. C. Nicolaou, N. A. Petasis, J. Uenishi, R. E. Zipkin, J. Am. Chem. Soc. 1982, 104, 5557–5558, DOI: 10.1021/ja00384a078.
(c) K. C. Nicolaou, R. E. Zipkin, N. A. Petasis, J. Am. Chem. Soc. 1982, 104, 5558–5560, DOI: 10.1021/ja00384a079.
(d) K. C. Nicolaou, N. A. Petasis, R. E. Zipkin, J. Am. Chem. Soc. 1982, 104, 5560–5562, DOI: 10.1021/ja00384a080.
(2) アムホテリシンB
K. C. Nicolaou, R. A. Daines, T. K. Chakraborty, Y. Ogawa, J. Am. Chem. Soc. 1987, 109, 2821–2822, DOI: 10.1021/ja00243a043.
(3) カリケアマイシンγ1I
R. D. Groneberg, T. Miyazaki, N. A. Stylianides, T. J. Schulze, W. Stahl, E. P. Schreiner, T. Suzuki, Y. Iwabuchi, A. L. Smith, K. C. Nicolaou, J. Am. Chem. Soc, 1993, 115, 7593–7611, 10.1021/ja00070a004.
(4) ラパマイシン
K. C. Nicolaou, T. K. Chakraborty, A. D. Piscopio, N. Minowa, P. Bertinato, J. Am. Chem. Soc, 1993, 115, 4419–4420, DOI: 10.1021/ja00063a093.
(5) タキソール (パクリタキセル)
(a) K. C. Nicolaou, P. G. Nantermet, H. Ueno, R. K. Guy, E. A. Couladouros, E. J. Sorensen, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 624–633. DOI: 10.1021/ja00107a006.
(b) K. C. Nicolaou, J.-J. Liu, Z. Yang, H. Ueno, E. J. Sorensen, C. F. Claiborne, R. K. Guy, C.-K. Hwang, M. Nakada, P. G. Nantermet, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 634–644. DOI: 10.1021/ja00107a007.
(c) K. C. Nicolaou, Z. Yang, J.-J. Liu, P. G. Nantermet, C. F. Claiborne, J. Renaud, R. K. Guy, K. Shibayama, J. Am. Chem Soc, 1995, 117, 645–652, DOI: 10.1021/ja00107a008.
(d) K. C. Nicolaou, H. Ueno, J.-J. Liu, P. G. Nantermet, Z. Yang, J. Renaud, K. Paulvannan, R. Chadha, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 653–659. DOI: 10.1021/ja00107a009.
(6) ブレベトキシンB
(a) K. C. Nicolaou, E. A. Theodorakis, F. P. J. T. Rutjes, J. Tiebes, M. Sato, E. Untersteller, X.-Y. Xiao, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 1171–1172, DOI: 10.1021/ja00108a051.
(b) K. C. Nicolaou, F. P. J. T. Rutjes, E. A. Theodorakis, J. Tiebes, M. Sato, E. Untersteller, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 1173–1174. DOI: 10.1021/ja00108a052.
(c) K. C. Nicolaou, F. P. J. T. Rutjes, E. A. Theodorakis, J. Tiebes, M. Sato, E. Untersteller, J. Am. Chem. Soc, 1995, 117, 10252–10263, DOI: 10.1021/ja00146a010.
(7) ブレベトキシンA
K. C. Nicolaou, Z. Yang, G. Shi, J. L. Gunzner, K. A. Agrios, P. Gärtner, Nature, 1998, 392, 264-269, DOI: 10.1038/32623.
(8) エポチロンA/B
K. C. Nicolaou, S. Ninkovic, F. Sarabia, D. Vourloumis, Y. He, H. Vallberg, M. R. V. Finlay, Z. Yang, J. Am. Chem. Soc, 1997, 119, 7974–7991, DOI: 10.1021/ja971110h.
(9) バンコマイシン
(a) K. C. Nicolaou, S, Natarajan, H. Li, N. F. Jain, R. Hughes, M. E. Solomon, J. M. Ramanjulu, C. N. C. Boddy, M. Takayanagi, Angew. Chem. Int. Ed, 1998, 37, 2708-2714, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3773(19981016)37:19<2708::AID-ANIE2708>3.0.CO;2-E.
(b) K. C. Nicolaou, N. F. Jain, S. Natarajan, R. Hughes, M. E. Solomon, H. Li, J. M. Ramanjulu, M. Takayanagi, A. E. Koumbis, T. Bando, Angew. Chem. Int. Ed, 1998, 37, 2714-2716, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3773(19981016)37:19%3C2714::AID-ANIE2714%3E3.0.CO;2-%23.
(c) K. C. Nicolaou, M. Takayanagi, N. F. Jain, S. Natarajan, A. E. Koumbis, T. Bando, J. M. Ramanjulu, Angew. Chem. Int. Ed, 1998, 37, 2717-2719, 10.1002/(SICI)1521-3773(19981016)37:19%3C2717::AID-ANIE2717%3E3.0.CO;2-IDigital%20Object%20Identifier%20.
(d) K. C. Nicolaou, H. Li, C. N. C. Boddy, J. M. Ramanjulu, T.-Y. Yue, S. Natarajan, X.-J. Chu, S. Bräse, F. Rübsam, Chem. Eur. J, 1999, 5, 2584-2601, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3765(19990903)5:9<2584::AID-CHEM2584>3.0.CO;2-B.
(e) K. C. Nicolaou, C. N. C. Boddy, H. Li, A. E. Koumbis, R. Hughes, S. Natarajan, N. F. Jain, J. M. Ramanjulu, S. Bräse, M. E. Solomon, Chem. Eur. J, 1999, 5, 2602-2621, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3765(19990903)5:9<2602::AID-CHEM2602>3.0.CO;2-X.
(f) K. C. Nicolaou, A. E. Koumbis, M. Takayanagi, S. Natarajan, N. F. Jain, T. Bando, H. Li, R. Hughes, Chem. Eur. J, 1999, 5, 2622-2647, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3765(19990903)5:9<2622::AID-CHEM2622>3.0.CO;2-T,
(g) K. C. Nicolaou, H. J. Mitchell, N. F. Jain, T. Bando, R. Hughes, N, Winssinger, S. Natarajan, A. E. Koumbis, Chem. Eur. J, 1999, 5, 2648-2667, DOI: 10.1002/(SICI)1521-3765(19990903)5:9<2648::AID-CHEM2648>3.0.CO;2-Q.
(10) アザスピラシド-1
(a) K. C. Nicolaou, S. Vyskocil, T. V. Koftis, Y. M. A. Yamada, T. Ling, D. Y.-K. Chen, W. Tang, G. Petrovic, M. O. Frederick, Y. Li Dr., M. Satake, Angew. Chem. Int. Ed, 2004, 43, 4312-4318, DOI: 10.1002/anie.200460695.
(b) K. C. Nicolaou, T. V. Koftis, S. Vyskocil, G. Petrovic, T. Ling, Y. M. A. Yamada, W. Tang, M. O. Frederick, Angew. Chem. Int. Ed, 2004, 43, 4318-4324, DOI: 10.1002/anie.200460696.
(11) チオストレプトン
(a) K. C. Nicolaou, B. S. Safina, M. Zak, S. H. Lee, M. Nevalainen, M. Bella, A. A. Estrada, C. Funke, F. J. Zécri, S. Bulat, J. Am. Chem. Soc, 2005, 127, 11159–11175, DOI: 10.1021/ja0529337.
(b) K. C. Nicolaou, M. Zak, B. S. Safina, A. A. Estrada, S. H. Lee, M. Nevalainen, J. Am. Chem. Soc, 2005, 127, 11176–11183, DOI: 10.1021/ja052934z.
(12) マイトトキシンの部分合成
(a) K. C. Nicolaou, M. O. Frederick, A. C. B. Burtoloso, R. M. Denton, F. Rivas, K. P. Cole, R. J. Aversa, R. Gibe, T. Umezawa, T. Suzuki, J. Am. Chem. Soc, 2008, 130, 7466–7476. DOI: 10.1021/ja801139f.
(b) K. C. Nicolaou, R. J. Aversa, J. Jin, F, Rivas, J. Am. Chem. Soc, 2010, 132, 6855–6861, DOI: 10.1021/ja102260q.
(c) K. C. Nicolaou, J. H. Seo, T. Nakamura, R. J. Aversa, J. Am. Chem. Soc, 2010, 133, 214–219, DOI: 10.1021/ja109531d.
(d) K. C. Nicolaou, T. M. Baker, T. Nakamura, J. Am. Chem. Soc, 2011, 133, 220–226, DOI: 10.1021/ja109533y.
(e) K. C. Nicolaou. P. Heretsch, T. Nakamura, A. Rudo, M. Murata, K. Konoki, J. Am. Chem. Soc, 2014. 136, 16444–16451, DOI: 10.1021/ja509829e.

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DAICHAN

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創薬化学者と薬局薬剤師の二足の草鞋を履きこなしていた、四年制薬学科の生き残り。現在は私大薬学部教員として実験に邁進中。
薬を「創る」と「使う」の双方からサイエンスに向き合っています。
しかし趣味は魏志倭人伝の解釈と北方民族の古代史という、あからさまな文系人間。
どこへ向かうかはfurther research is needed.

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