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化学者のつぶやき

100年前のノーベル化学賞ーリヒャルト・ヴィルシュテッター

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100年前といえば遠い遠い昔のことで、読者の方で当時のことをご記憶の方はいらっしゃらないと思います。しかしサイエンスの世界には燦然と輝く記録と共に、当時の科学者たちの活躍が記録されています。

100年前のノーベル化学賞は、「植物色素物質、特にクロロフィルに関する研究」によりドイツのリヒャルト・ヴィルシュテッター(Richard Martin Willstätter)に贈られました。

という訳で、いよいよ3週間ほどに迫ってきた今年のノーベル化学賞にワクワクする前に、偉大な化学への貢献を思い出しながら、約100年前の彼の足跡を辿ってみたいと思います。

 

 

ヴィルシュテッターは1872年8月13日にユダヤ人商人の息子としてドイツのカールスルーエに生まれます。その後ニュルンベルクに移住し、工科学校で学んだ後、18歳の時Ludwig-Maximilians-Universität München(以下ミュンヘン大学)に入学します。ミュンヘン大学では理学を専攻し、特に化学分野で著名なバイヤー(Adorf von Baeyer)に師事しました。

1894年に「コカインの構造研究」で学位を取得し、その後1896年に講師、1902年の初頭にExtraordinary Professor(ドイツの制度で正式な籍を持たない教授職)となりました。それからは独立した研究をしていくことになります。

Willstatter_6Willstätter(Nobelprize.orgより)

ミュンヘン大学時代から一貫して植物の成分、特にアルカロイドと呼ばれる窒素を含んだ有機化合物や、植物の色素の構造を決定する研究を精力的に行っていきます。1905年にはチューリッヒ工科大学(ETH Zurich)の教授となり、ノーベル化学賞の受賞にも繋がるクロロフィルの研究を開始しました。1912年にはベルリン大学(現フンボルト大学ベルリン)教授およびカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(現Max Planck Institute for Chemistry)所長、1916年には出身校のミュンヘン大学にバイヤーの後任教授として着任し、引退まではそのポストでした。

 

それではヴィルシュテッターの業績について振り返ってみましょう。

 

コカインの構造に関する研究に引き続き、ミュンヘン大学での講師職の際も引き続きアルカロイドの研究を続けています。当時オーストリアのVienna大学のKarl Kollerはコカインが眼の外科手術における優れた極所麻酔剤となりうることを示していました。残念ながらKollerは反ユダヤのあおりを受け研究を続けられなくなってしまいました。また、コカインに中毒性があることが徐々に明らかとなり、問題にも発展していた時代です。しかしコカインの構造が決定されるのは大分後になってからということになります。

Willstatter_2

 

コカインの全合成(保護基無し)

 

さて、そのヴィルシュテッターによるコカインの構造に関する研究ですが、コカインからホフマン分解を繰り返すことにより、シクロヘプタトリエンカルボン酸まで誘導することで、コカインに炭素7員環が存在すること、さらにコカインの正確な分子式を決定することに成功しました。当時はNMRなんてものは存在しませんので、構造決定するためには合成も不可欠です。スベロン(シクロヘプタノン)から出発して、19段階でのトロピノン合成を経て、23段階でコカインの合成に成功しています。これによりコカインの構造が決定されるに至ったのです。

Willstatter_3

 

左からオルトキノン、シクロオクタテトラエン

シクロブタジエンの合成はついにできなかった・・・

 

その後も植物色素であるアントシアニン類の構造を決定したり、オルトキノンという化合物群の存在を提唱したり、非天然有機化合物ではシクロオクタテトラエンの合成やベンゼンとの物性の比較などの研究を行いました。

Willstatter_4

 

アントシアニン類とクロロフィル

 

ミュンヘンではクロロフィルに関する研究も開始されていましたが、クロロフィルの構造決定は難航します。クロロフィルは蒸留や結晶化による精製が困難だったのです。ヴィルシュテッターと弟子のクーン(Richard Kuhn)らは、既に1906年にツヴェット(Tswett)によって報告されていたクロマトグラフィーの手法を独自に改良し研究を進展させます。ヴィルシュテッターらはクロロフィルにマグネシウムイオンが含まれること、酵素の作用でクロロフィルから長鎖のアルコール部分、すなわちフィトールを取ることが可能で、クロロフィルにポルフィリン骨格がある事を明らかにするとともに、クロロフィルの正確な分子式を導く事に成功しました。しかし、当時の分析機器ではそれ以上の情報は得ることが叶わず、クロロフィルの構造は1940年のフィッシャー(Hans Fischer)の研究まで待たなければなりませんでした。

 

とは言え、これらの業績は当時としては革新的であり、1915年にノーベル化学賞の栄誉に輝くことになりました。

 

上述の通りヴィルシュテッターはクロロフィルの研究の過程で酵素(クロロフィラーゼ)という存在に出会いました。当時酵素の正体は明らかにされていませんでしたが、ヴィルシュテッターは酵素とは一体何なのか追求する研究も行っています。対象としたのはクロロフィルを加水分解してフィトールを切り出すクロロフィラーゼでしたが、酵素はそう簡単に結晶化しないことから、この研究は難航しました。しかしこの研究の過程で、酵素を精製する手法、特に酵素を吸着させる吸着材(ヒドロゲルやシリカゲル)の開拓について大きな成果をあげています。ヴィルシュテッターが酵素を生体の組織ではなく、化学物質であるいうことを示したことは特筆すべき点です。ただし、結局酵素の正体にはたどり着くことができず、フラストレーションを溜めていたのかもしれません。その後1926年にはサムナー(James Batcheller Sumner)によって初の酵素の結晶化(ウレアーゼ)が報告[1]されるなど、残念な結果となりました。

 

さて、順調に科学者としてのキャリアを築いてきたヴィルシュテッターですが、1924年、52才の時、研究者としては決して老いていないにも関わらず突然引退を宣言します。

 

当時の世界、特にドイツの情勢は不穏なものがあり、ユダヤ人の迫害が始まりかけていました。しかしヴィルシュテッターがその対象になり、職を追われたという訳ではないようです。事実、ミュンヘンからの引退宣言後、国内外から数多くのオファーがあったようですが、その全てを断っています。この早すぎる引退には様々な憶測を呼んでいますが、実は1915年のノーベル賞の受賞の年の4月に一人息子のLudebigを亡くしていることが影を落としているという説や、第一次世界大戦の際、毒ガスを防ぐガスマスクの開発に従事したこと、1917年の友人でもあるRobert Robinsonによるトロピノンの一段階合成[2]にショックを受けたなど、ヴィルシュテッターをめぐるエピソードにからめて語られることがあるようですが真実は闇の中です。

 

引退後は電話でディスカッションするくらいで、別荘にて悠々過ごしていましたが、ナチの影が迫っており、1938年ついにゲシュタポの捜査がやってきます。しかし幸いにもゲシュタポが踏み込んできたその刹那、ヴィルシュテッターは美しい庭におり、捜査の目から逃れることに成功しました。スイスへの脱出は簡単ではありませんでしたが、英国人の教え子の助けもありマッジョーレ湖畔のムラルトにたどり着きました。

Willstatter_5

 

マッジョーレ湖

 

この地で晩年の3年間を過ごし、自伝(Aus meinem Leben, 英訳From My Life)の執筆をしています。そして1942年8月3日心臓病により生涯を閉じました。享年70歳。

 

ヴィルシュテッターが眠るスイスのムラルト墓地
その他の化学地球儀はこちらからどうぞ

マップ上部の白い四角の部分をクリックしても大きな化学地球儀が表示されます。

 

ヴィルシュテッターの天然物化学に対する功績は偉大です。生化学の基礎となる技術の開発にも大きな貢献をしています。ノーベル化学賞から100年が経った今もその功績は色あせることがありません。公園に赴き、春にはクロロフィルの青さを感じ、秋にはアントシアニンの赤を楽しむ。そんな時、ヴィルシュテッターの偉大な仕事に想いを馳せるのもいいかもしれません。

English garden

 

なお本稿ははAngew. Chem. Int. Ed.誌からLudwig-Maximilians-Universitt MunchenのDirk Trauner教授のエッセイを主に参考にさせていただきました。

Richard Willstätter and the 1915 Nobel Prize in Chemistry

Trauner, D. Angew. Chem. Int. Ed. Early View (2015). doi: 10.1002/anie.201505507

 

関連文献

  1.  Sumner, J. B. J. Biol. Chem. 69, 435 (1926).
  2. Robinson, R. J. Chem. Soc. 111, 762 (1917).

 

関連書籍

ペリプラノン

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有機合成化学が専門。主に天然物化学、ケミカルバイオロジーについて書いていきたいと思います。

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