[スポンサーリンク]

化学者のつぶやき

精密質量計算の盲点:不正確なデータ提出を防ぐために

[スポンサーリンク]

ご存じの通り、近年では化学の世界でもデータ駆動アプローチが重要視されています。高精度質量分析(HRMS)データは、構造確認や化合物同定に欠かせないものです。しかし、ベルリン自由大学・Mathias Christmann教授の報告によれば、3000以上のSupporting Information(SI)ファイルを分析した結果、多くの意図しないミスが発見されたとのことです。重要な指摘が多く含まれている、非常に教育的な話題だと感じられましたので、本記事では精密質量計算におけるよくある間違いと、それを防ぐ方法について下記論文をもとに紹介します。

”What I Learned from Analyzing Accurate Mass Data of 3000 Supporting Information Files”
Mathias Christmann* Org. Lett. 2025, 27, 4–7. doi:10.1021/acs.orglett.4c03458

高精度質量データの課題

Christmann教授は、化学研究における高精度質量データ(Accurate Mass Data, AMM)の大規模な解析を行うPythonスクリプトを開発し、3000以上のSIファイルを分析をしました。そのうち、約40%のみがデータの一貫性を保ち、学術ガイドラインに準拠しているという結果が示されました。その多くは、計算ミスやデータ表記の不備に起因しています。ミスの主たる原因を以下に列挙します。

  1. 中性分子の質量を計算し、荷電種の質量と比較している:電子の質量分が含まれている。イオン種([M+H]⁺)を正確に反映していない。
  2. 分子式に加えられるべき原子が欠如している:例えば、NaやHの付加が記載されていない。
  3. 手作業のデータ入力によるタイポや数字の入れ替え:例えば、258.1101 → 258.1010 など。
  4. ノミナル質量・精密質量・分子量の混同:たとえば、Naの精密質量(22.9898)を用いるべきところ、ノミナル質量(23.0000)を使用するなど。

計算ミスを防ぐためのポイント

計算ツールの積極的利用

Pythonスクリプトなどの自動化ツールを活用して、データの一貫性を確認するなどは一つの対策例になります。データの人為的処理を減らすことが、品質向上にもつながります。論文中にも示されていますが、ChemDrawでの「正確な」HRMS理論値を出すには、下記設定での出力が必要です。下記のニトロベンゼンでの例が示すとおり、中性分子のExact Mass(146.0218)として出してしまいがちですが、イオン状態が反映されておらず、正確な値(146.0212)では無いことが見て取れます。

冒頭論文より引用

ジャーナルのガイドラインを熟読

各誌のデータ表記規定を確認し、標準的なフォーマットでデータを記載することを徹底することが望まれます。特に質量誤差の許容範囲は、ジャーナル毎に異なっているケースが多々あります。

教育体制の強化

学生や研究者が精密質量、ノミナル質量、分子量の違いを正しく理解し、質量計算の基礎を徹底する教育の重要性が述べられています。たとえば下記記事は、用語の定義を学び直すことも含めて、よい教材になると思えます。

 

終わりに

本研究で用いられているPythonスクリプトは、GitHubで公開されており、誰でも利用可能です。

GitHubリンク: HRMS-Checker-2.0

精密質量計算は、非常に強力な分析手段ですが、ミスを放置すればその価値が損なわれます。化学コミュニティ全体でデータの正確性に対する意識を高めていくことが大切です。

 

余談

著者のMathias Christmann氏は、論文末尾でこう述べています(DeepL翻訳)。

「筆者はPythonでのコーディング経験がなかったが、4時間のPythonチュートリアルに従い、ChatGPT、Gemini、Claudeなどの大規模言語モデル(LLM)を活用してコードを生成し、Molmassのような既存のPythonライブラリを利用することで、このスクリプトを比較的短期間で開発しました。このスクリプトをオープンソースソフトウェアとして公開することで、科学データの質と信頼性の向上に貢献し、他のデータ駆動型アプローチを刺激することを願っています。」

問題設定が的確であれば、AIの力を借りることで、これまでスキル不足で調べられなかったことが広く調査可能になりつつあることがうかがえます。

ちなみに本記事も、ChatGPT-4oに論文PDF(Open access)を読ませて下書きをしてもらい(僅か数秒!)、多少の追加調査と、文体装飾、校正を加えて仕上げています(執筆時間20分ほど)。冒頭アイキャッチ画像もChatGPTに出力してもらいました。

文章やプログラムを書くことは、現代では随分楽になったものだと実感しています。読者の皆さんも、スマートなAI活用ライフをお過ごしください!

 

追記(2025/1/21)

読者の方から指摘をいただきましたが、

「質量分析装置の機種とソフトによっては、中性分子(M+でなくM)を基準に調整されており、キャリブレーション用の標準サンプルの値も中性分子(M)としての値でビルトインされてしまっている」

ケースがあるようで、必ずしもChemDrawのイオンの精密質量の値と比べることが妥当ではないケースも存在しているようです。これを機会に混乱を回避するべく、大本の質量分析装置・解析ソフトのキャリブレーションのビルトイン設定も見直されてみることが良いかと思います。

追記(2025/8/22)

Supporting InfomationのPDFファイルをアップロードすれば、MSがあっているかを確認できるツールが公開されています

Avatar photo

cosine

投稿者の記事一覧

博士(薬学)。Chem-Station副代表。国立大学教員→国研研究員にクラスチェンジ。専門は有機合成化学、触媒化学、医薬化学、ペプチド/タンパク質化学。
関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。
素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

関連記事

  1. 細胞をすりつぶすと失われるもの
  2. イグノーベル賞2024振り返り
  3. 生物に打ち勝つ人工合成?アルカロイド骨格多様化合成法の開発
  4. 機械的力で Cu(I) 錯体の発光強度を制御する
  5. 稀少な金属種を使わない高効率金属錯体CO2還元光触媒
  6. 巻いている触媒を用いて環を巻く
  7. Late-Stage C(sp3)-H活性化法でステープルペプチ…
  8. Whitesides’ Group: Writing…

注目情報

ピックアップ記事

  1. タンパクの「進化分子工学」とは
  2. ヤモリの足のはなし ~吸盤ではない~
  3. 樹脂コンパウンド材料におけるマテリアルズ・インフォマティクスの活用とは?
  4. 明るい未来へ~有機薄膜太陽電池でエネルギー変換効率7.4%~
  5. 進む分析機器の開発
  6. 化学エンターテイメント小説第3弾!『ラブ・リプレイ』
  7. 相次ぐ海外化学企業の合併
  8. 有機フッ素化合物の新しいビルドアップ構築法 ~硫黄官能基が導く逐次的分子変換~
  9. Grubbs第二世代触媒
  10. ガーナーアルデヒド Garner’s Aldehyde

関連商品

ケムステYoutube

ケムステSlack

月別アーカイブ

2025年1月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

注目情報

最新記事

開発者に聞く!試薬の使い方セミナー2026 主催: 同仁化学研究所

この度、同仁化学研究所主催のオンラインセミナー(参加無料)を開催いたします。注目されるライフ…

町田 慎悟 Shingo MACHIDA

町田 慎悟(まちだ しんご, 1990年 06月 )は、日本の化学者。2026年1月現在、ファインセ…

ガリウムGa(I)/Ga(III)レドックス反応を経る化学変換 ―13族典型元素を基盤とする新規触媒設計への道を拓く―

第690回のスポットライトリサーチは、大阪大学大学院工学研究科(鳶巣研究室)博士後期課程2年の向井虹…

持てるキャリアを生かせるUターン転職を その難題をクリアしたLHHのマッチング力

両親が暮らす故郷に戻り、家族一緒に暮らしたい――そんなUターンの希望を持つ方にとって大きな懸念となる…

ケムステイブニングミキサー2026に参加しよう!

化学の研究者が1年に一度、一斉に集まる日本化学会春季年会。第106回となる今年は、3月17日(火…

理化学研究所・横浜市立大学の一般公開に参加してみた

bergです。去る2025年11月15日(土)、横浜市鶴見区にある、理化学研究所横浜キャンパスの一般…

【ジーシー】新卒採用情報(2027卒)

弊社の社是「施無畏」は、「相手の身になって行動する」といった意味があります。これを具現化することで存…

求人わずかな専門職へのキャリアチェンジ 30代の女性研究員のキャリアビジョンを実現

専門性が高いため、人材の流動性が低く、転職が難しい職種があります。特に多様な素材を扱うケミカル業界で…

FLPとなる2種類の触媒を用いたアミド・エステルの触媒的α-重水素化反応

第 689回のスポットライトリサーチは、九州大学大学院薬学府 環境調和創薬化学分野 …

第59回ケムステVシンポ「無機ポーラス材料が織りなす未来型機能デザイン」を開催します!

あけましておめでとうございます。2026年ですね。本記事は2026年のはじめのVシンポ、第59回ケム…

実験器具・用品を試してみたシリーズ

スポットライトリサーチムービー

PAGE TOP