[スポンサーリンク]

一般的な話題

死刑囚によるVXガスに関する論文が掲載される

[スポンサーリンク]

我が国は原子爆弾が投下された唯一の国であると同時に、毒ガスという化学兵器による無差別テロが起きた唯一の国でもあります。地下鉄サリン事件と言っても今の若い人たちには通じないかもしれませんが、筆者の大学卒業式の日に起こった事件であるため、鮮明に記憶しております。

一連のサリンを用いたテロ事件の前に、首謀団体であるオウム真理教はVXを用いた暗殺という恐ろしい犯罪に手を染めていました。1994年12月12日、オウム真理教の信者と交遊を持ったために不幸にもVXによって殺害されてしまった当時28歳の会社員は、世界で初のVXによる殺人被害者となってしまったのです。この際に用いたVXは塩酸塩であったため皮膚からの浸透性は悪かったと言われています。

一方、2017年2月13日、北朝鮮の金正男氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で暗殺された事件は記憶に新しいところでしょう。この事件はベトナム人およびインドネシア人の女性二人の犯行との見方をされていますが、その方法については明らかにされていない部分が多くあります。

先日、オウム真理教による会社員VX殺害事件の実行犯グループの一人である、中川智正死刑囚がこの金正男氏暗殺事件に関する考察に関する論文が掲載されました(2018.5.21 published online)。

“Murders with VX: Aum Shinrikyo in Japan and the assassination of Kim Jong-Nam in Malaysia”

Nakagawa, T.; Tu, T. A.

Forensic Toxicol. 2018 AOP DOI: 10.1007/s11419-018-0426-9

ご覧の通り、著者は広島拘置所所属の中川死刑囚と、コロラド州立大学名誉教授であり、毒性学の大家である我が国でもお馴染みのAnthony Tu教授です。論文の概略としては、暗殺事件の容疑者から検出された化合物から、VXの調製方法を推測するというものです。

VXの一般的な製造法

まずはVXの一般的な製法についておさらいしてみます。詳細は明かされていませんが、原料としては亜リン酸の誘導体とジイソプルアミノエタノールを反応させ、QLと呼ばれる化合物とし、硫黄の単体(NE)と反応させた後、加熱して転位反応を引き起こすことでVXが調製可能です。ここで言うQLとかNEはNATOが定めたコードネームのようなものとお考え下さい。実際、VXを作っておいてそれをストックするのは危険ですから、軍事利用する際は毒性の低いQLとNEの状態でストックしておき、使用前にVXを調製する手法がとられています。これをバイナリー兵器(binary chemical weapon)と呼びます。

 

では金正男氏暗殺事件でもこの手法が採られたのでしょうか?中川死刑囚らは異なる見解を示しています。

図で黒枠に囲った化合物群は金正男氏から検出された化合物です。VXを含め、その分解物と思われる化合物が多く検出されていることから、死因はVXによるものと断定できます。一方、容疑者であるベトナム人からは赤枠で囲った複数の化合物が、もう一人のインドネシア人からは青枠で囲った化合物が検出されています。この事実から、バイナリーの手法が採られたかもしれないが、VXの前駆体はQLとNEではなく、赤で示したジイソプロピルアミノエタンチオールと、青で示したエチルメチルホスホン酸の混合によるものと推察しています。

以下筆者の感想です。チオール化合物とホスホン酸そのものを顔の表面で混ぜるだけでVXが果たしてできるでしょうか?触媒の存在を示唆していますが、そのような都合のいい触媒があるのかは疑問です。ホスホン酸の方を塩化物にするとか、何らかの活性化を施してあり、その分解物であるホスホン酸が検出されたとする方がいいような気がします。ちなみに中川死刑囚は化学の専門家ではなく、医者でした。

さて、なぜこのいずれもプロの暗殺者ではなく素人と言われている2名の女性がこのような大それた暗殺を成功させたのでしょうか?詳細というか憶測は様々なサイトにありますのでそちらに譲るとして、どうやらこの2名は金正男氏殺害よりも前から、空港内で悪戯を収録するテレビ番組と称して他人の顔に液体をかけたりしていたようです。犯行の方法としては、一人目がハンカチをかぶせて、もう一人がスプレーで液体をかけたそうです。ハンカチにはホスホン酸誘導体が、液体の方にはチオール誘導体が入っていたとしたら、バイナリー兵器の手法を行えたのかもしれません。

いずれにしても、化学物質を用いて殺害するという手法は、一化学者として決して許したくありません。論文を読みましたが、どこか他人事のような文脈があり、中川死刑囚についても良い印象は持ちませんでした。

 

関連書籍

[amazonjs asin=”B07842227T” locale=”JP” title=”暗殺クロニクル VXガス編”] [amazonjs asin=”480790843X” locale=”JP” title=”サリン事件: 科学者の目でテロの真相に迫る”] [amazonjs asin=”4000228838″ locale=”JP” title=”ここにいること―地下鉄サリン事件の遺族として”]

 

Avatar photo

ペリプラノン

投稿者の記事一覧

有機合成化学が専門。主に天然物化学、ケミカルバイオロジーについて書いていきたいと思います。

関連記事

  1. リチウムを用いたメカノケミカル脱水素環化法によるナノグラフェン合…
  2. ヘテロ環ビルディングブロックキャンペーン
  3. 2021年ノーベル化学賞ケムステ予想当選者発表!
  4. サーモサイエンティフィック「Exactive Plus」: 誰で…
  5. 生体医用イメージングを志向した第二近赤外光(NIR-II)色素:…
  6. 「フラストレイティド・ルイスペアが拓く革新的変換」ミュンスター大…
  7. 進化する高分子材料 表面・界面制御 Advanced:高分子鎖デ…
  8. 化学者のためのエレクトロニクス講座~電解ニッケルめっき編~

注目情報

ピックアップ記事

  1. 今度こそ目指せ!フェロモンでリア充生活
  2. ゴキブリをバイオ燃料電池、そしてセンサーに
  3. 生物活性分子のケミカルバイオロジー
  4. 流れる電子ッ!壊れるピリジンッ!含窒素多環式骨格構築!
  5. 2018年1月20日:ケムステ主催「化学業界 企業研究セミナー」
  6. ブロッコリー由来成分「スルフォラファン」による抗肥満効果の分子機構の解明
  7. 自転車泥棒を臭いで撃退!?「スカンクロック」を考案
  8. 第75回―「分子素子を網状につなげる化学」Omar Yaghi教授
  9. 危険ドラッグ:創薬化学の視点から
  10. シュタウディンガー ケテン環化付加 Staudinger Ketene Cycloaddition

関連商品

ケムステYoutube

ケムステSlack

月別アーカイブ

2018年5月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

注目情報

最新記事

第53回ケムステVシンポ「化学×イノベーション -女性研究者が拓く未来-」を開催します!

第53回ケムステVシンポの会告です!今回のVシンポは、若手女性研究者のコミュニティと起業支援…

Nature誌が発表!!2025年注目の7つの技術!!

こんにちは,熊葛です.毎年この時期にはNature誌で,その年注目の7つの技術について取り上げられま…

塩野義製薬:COVID-19治療薬”Ensitrelvir”の超特急製造開発秘話

新型コロナウイルス感染症は2023年5月に5類移行となり、昨年はこれまでの生活が…

コバルト触媒による多様な低分子骨格の構築を実現 –医薬品合成などへの応用に期待–

第 642回のスポットライトリサーチは、武蔵野大学薬学部薬化学研究室・講師の 重…

ヘム鉄を配位するシステイン残基を持たないシトクロムP450!?中には21番目のアミノ酸として知られるセレノシステインへと変異されているP450も発見!

こんにちは,熊葛です.今回は,一般的なP450で保存されているヘム鉄を配位するシステイン残基に,異な…

有機化学とタンパク質工学の知恵を駆使して、カリウムイオンが細胞内で赤く煌めくようにする

第 641 回のスポットライトリサーチは、東京大学大学院理学系研究科化学専攻 生…

CO2 の排出はどのように削減できるか?【その1: CO2 の排出源について】

大気中の二酸化炭素を減らす取り組みとして、二酸化炭素回収·貯留 (CCS; Carbon dioxi…

モータータンパク質に匹敵する性能の人工分子モーターをつくる

第640回のスポットライトリサーチは、分子科学研究所・総合研究大学院大学(飯野グループ)原島崇徳さん…

マーフィー試薬 Marfey reagent

概要Marfey試薬(1-フルオロ-2,4-ジニトロフェニル-5-L-アラニンアミド、略称:FD…

UC Berkeley と Baker Hughes が提携して脱炭素材料研究所を設立

ポイント 今回新たに設立される研究所 Baker Hughes Institute for…

実験器具・用品を試してみたシリーズ

スポットライトリサーチムービー

PAGE TOP