[スポンサーリンク]

一般的な話題

誤った科学論文は悪か?

[スポンサーリンク]

世間を狂乱の世界に陥れた、Nature誌への論文掲載から始まったSTAP細胞問題から早二年が過ぎました。未だに手記を出して一儲けしようというゲスの極みを苦々しく横目で見ている方も多いのではないかと思います。

件の問題点については数多くの論評が出揃ったと思いますので再度の言及は控えるとして、STAP細胞問題の本質は「データの捏造」による「誤った主張」を掲げる論文でした。ここで問題となったのは、主張、理論が誤っていたことではなく、不正なデータを用いていたということです。

一方、科学の歴史において「誤った主張」や「誤りのある論文」は数多く知られています。しかしそれら全てが誤りが原因で撤回されたわけではなく、むしろ科学の進歩に大きな貢献を果たしたものまであるのです。今回のポストでは、「誤りはであるが、非常に価値が高い」化学のストーリーとして、フェロセンの発見にまつわる話題についてご紹介します。

 

ferrocene_1

 

フェロセン

この化合物について初めて報告したのは、当時Duquesne大学のThomas KealyとPeter Pausonで、1951年8月7日Nature誌に’A New Type of Organo-Iron Compound’と題する論文[2]を投稿、1951年12月15日号に掲載されました。この論文ではシクロペンタジエニルマグネシウムブロミドと塩化鉄(II)を反応させることにより、融点が173–174 °Cのオレンジ色の針状結晶が得られ、その分子式がC10H10Feであったことから下図左上に示した構造(I)の化合物が得られたとしています。

ferrocene_2

 

図は文献[1]より引用

この構造は分子式以外全く何の実験データも無しに提案されたもので、分光学的データや、当時利用可能であったはずのX-線結晶構造解析もされていません。

 

この論文は多くの化学者の興味を引き、1952年4月20日Journal of the American Chemical Society (JACS)誌には、ハーバード大学のGeoffrey Wilkinson, Myron Rosenblum, Mark C. Whiting, Robert Burns Woodwardの論文[3]が掲載され、彼らは正しい構造(上図右上のb)を提案しています。

そしてこの論文の直ぐ後に、Journal of the Chemical Society (JCS)誌にBritish Oxygen CompanyのSamuel Miller, John Tebboth, John Tremaineらによるシンプルに‘Dicyclopentadienyliron’ と題された論文[4]が掲載されました。彼らはKealy-Pausonとは全く異なる手法で同じ化合物を得ています。

Millerらのこの論文は三つの不幸に見舞われています。まず、MillerらもKealy-Pausonとほぼ同じ構造、すなわち誤った構造(上図の右下C)を提案しています。次に、実はこの論文はKealy-Pauson論文がNatureに届く27日前の1951年7月7日に投稿されていましたが、出版されたのは1952年の2月となってしまいました。Millerらの論文の方が先に投稿されているので、先取権はこちらにありそうですが、Kealy-Pauson論文の方が有名になってしまいます。事実、Kealy-Pauson論文の引用数が2015年の段階で950を超えているのに対し、Millerらの論文は430に過ぎないのです。これは少し不条理な気がします。さらにこの論文は、最初に出版されたKealy-Pauson論文と、正しい構造を提唱したWilkinson-Woodward論文の間に、「サンドイッチ」されてしまい、位置付けが微妙になってしまいました。実に惜しいことにMillerらの研究は1948年、まだKealy, Pausonらが研究を始めるより前にはすでに完成していたのです。

ferrocene_3

写真は文献[1]より引用

左からWoodward, Wilkinson婦人, Ephraim Katzir (第四代イスラエル大統領としても有名), Wilkinson

さて、このサンドイッチですが、現在ではフェロセンと呼ばれています。この名称は1952年のWoodwardらの第二報[5]で初めて提唱されています。実はこの時にはすでにWoodwardとWilkinsonは別の道を歩んでおり、Woodwardの第二報にWilkinsonの名前はありません。しかしその後もWilkinsonはこの化合物関する研究を展開しており、1973年に「サンドイッチ構造を持つ有機金属化合物の研究」にノーベル化学賞Ernst Otto Fischerと共に受賞しました。この賞にはWoodwardも貢献があると本人は考えていたようです。確かにフェロセンの正しい構造を提唱した論文、フェロセンの名前を出した論文は共にWoodwardの論文です。

このFischerはWilkinson-Woodward論文のほぼ3ヶ月後にW. Pfabと共にX線結晶構造解析によるフェロセンの構造決定について報告しています[6]。この論文ではKealy-Pauson、Millerの両論文が引用されていますが、彼らがどちらの手法でフェロセンを合成したのかは定かではありません。

いずれにしてもMillerらの論文が言葉は悪いですが蔑ろにされ、Wilkinson, Woodwardが有機金属化学に重要な貢献ありとされ、その後Wilkinsonがノーベル賞に輝くというのはいわゆるマタイ効果と呼ばれるものだと考えられます。科学においても、「富めるものは益々栄え、貧するものは益々貧する」のです。

このサンドイッチ化合物に関するキープレーヤーはまだまだ他にもいますが、紙面の都合上割愛させていただきまして、図をご参照下さい。

ferrocene_4図は文献[1]より引用

多くの科学者がフェロセンに関わっている

 

ここでもう一度Kealy-Pauson論文またはMiller論文の価値について考えてみたいと思います。彼らは正しい分子式を導き出し、シャープな融点を示す結晶を得たことから純粋な化合物を得ていた考えられます。しかし、もし現代であったら、未知の化合物の構造決定に関しては何らかの構造を裏付けるデータが要求されるに違いありません。提唱構造は結果的に誤りだった訳ですし、未熟な論文を出したということには間違いないでしょう。現代であれば、これらの論文はrejectされるのではないかと思います。

しかし歴史は繰り返します。1985年Nature誌にHarold Kroto, James Heath, Sean O’Brien, Robert Curl, Richard SmalleyのC60の論文が掲載されました[7]。この論文もまた、質量スペクトルにC60を表すピーク一本の観測をもって、そこから導ける構造としてサッカーボール型の分子構造、バックミンスターフラーレンを提案しています。論文に掲載されている図はChemDrawで描かれたC60ではなく、実物のサッカーボールの写真です。C60の構造が証明されるのはそれから5年後のことで、Walter Krätschmer, Donald HuffmanらのNature論文[8]になります。

ferrocene_5

図は文献[1]より引用

左の図以外は実際の論文にある画像

 

両方の化合物に共通するのは、その後ノーベル賞にまで発展するほどのインパクトのある化合物の発見であったことです。一方は結果的に誤り、もう一方は正しい構造を提唱していました。科学において「誤り」というものが全て悪なのかと問えば、必ずしもそうではないのではないかと考えざるをえません。不十分なデータや、誤ったデータの解釈によって、常識的には考えられないというものであっても、最初から決めつけてしまうのは危険です。学術論文は査読、ピアレビュー制度に支えられていることから、その査読を行う科学者には深い洞察力が求められるということを、これら2つの化合物に関するストーリーが教えてくれているように思えるのです。

ferrocene_6

写真は文献[1]から引用

Pausonの背後の窓に映るのはFischerか

 

もう一つの視点からフェロセンのストーリーを眺めてみると、科学は必然なのかという疑問が湧いてきます。ほぼ同時期に全く別のところで同じような研究が行われ、同じような結論を導き出すといったことはよく起こります(こちらのサイトに最近のケースが詳しいです)。これは時代の流れによる必然として説明できるケースもあるでしょうが、フェロセンのケースは違うような気がします。また、歴史に「もし」は禁物ですが、科学ではこの「もし」がよく出てきます。フェロセンにおいても、上述のような論文を出すタイミングや、Kealy-Pausonが彼らのC10H10FeをX線結晶構造解析するチャンスがあったのにしなかったこと、実はWilkinson-Woodward論文より先にC10H10Feの正しい構造についてアイディアを持っていたのに、論文にしなかったためにチャンスを逃した人物がいることなど、「もし」に関しては枚挙に暇がありません。フェロセンという名称ではなかった可能性だってあることでしょう。科学の女神の微笑を見逃してはならないのです。

ノーベル化学賞受賞者のDerek Bartonは、科学においてはなるべく広範囲に渡って熟慮することは価値が高いことであると述べています。人々は正しいことしか覚えてくれないからです。もし何かブレークスルーにつながるアイディアにたどり着いたならば、その発見に対して完璧な貢献者となれるデータが揃うまでは論文を書くのを見合わせるのも良い戦略かもしれないとも述べています。

 

フェロセンは科学とはどういうものかを学ばせてくれる偉大なストーリーを後世に伝えてくれる良い題材だと思います。Nature誌は科学の歴史に度々登場しますので、人目を惹く重要な研究とは何なのかという主眼においては群を抜いているのかもしれません。それがSTAP細胞問題に繋がったとも言えなくもないのでしょう。

今回のポストはNature Chemistry誌からリッチモンド大学のJeffrey I. Seeman博士とNature Chemistry誌のCheif EditorであるStuart Cantrill氏による論説からの抜粋を元に書かせていただきました。フェロセンをめぐるサイドストーリーなどが語られていますので、ご興味がありましたらぜひお読み下さい。フェロセンをめぐる詳細な物語についてはAngew.誌のエッセイでも語られています。

 

Wrong but seminal

Seeman, J. I.; Cantrill, S. Nature Chem. 8, 193–200 (2015). doi: 10.1038/nchem.2455

 

引用文献

  1.  Seeman, J. I.; Cantrill, S. Nature Chem. 8, 193–200 (2015). doi: 10.1038/nchem.2455
  2. Kealy, T. J. & Pauson, P. L. Nature 168, 10391040 (1951). doi: 10.1038/1681039b0
  3. Wilkinson, G., Rosenblum, M., Whiting, M. C. & Woodward, R. B. J. Am. Chem. Soc. 74, 21252126 (1952). doi: 10.1021/ja01128a527
  4. Miller, S. A., Tebboth, J. A. & Tremaine, J. F. J. Chem. Soc. 632635 (1952). doi: 10.1039/JR9520000632
  5. Woodward, R. B., Rosenblum, M. & Whiting, M. C. J. Am. Chem. Soc. 74, 34583459 (1952). doi: 10.1021/ja01133a543
  6. Fischer, E. O. & Pfab, W. Z. Naturforsch. B 7, 377379 (1952). doi: 10.1515/znb-1952-0701
  7. Kroto, H., Heath, J. R., O’Brien, S. C., Curl, R. F. & Smalley, R. E. Nature 318, 162163 (1985). doi: 10.1038/318162a0
  8. Krätschmer, W., Lamb, L. D., Fostiropoulos, K. & Huffman, D. R. Nature 347, 354358 (1990). doi: 10.1038/347354a0

 

関連書籍

ペリプラノン

投稿者の記事一覧

有機合成化学が専門。主に天然物化学、ケミカルバイオロジーについて書いていきたいと思います。

関連記事

  1. タミフルの効果
  2. 分子間相互作用によりお椀反転の遷移状態を安定化する
  3. PL法 ? ものづくりの担い手として知っておきたい法律
  4. 低分子の3次元構造が簡単にわかる!MicroEDによる結晶構造解…
  5. 『鬼滅の刃』の感想文~「無題」への回答~
  6. 電子を閉じ込める箱: 全フッ素化キュバンの合成
  7. UV-Visスペクトルの楽しみ方
  8. アルメニア初の化学系国際学会に行ってきた!③

コメント、感想はこちらへ

注目情報

ピックアップ記事

  1. 硫黄―炭素二重結合の直接ラジカル重合~さまざまなビニルポリマーに分解性などを付与~
  2. アンドリュー・ハミルトン Andrew D. Hamilton
  3. 化学物質研究機構、プロテオーム解析用超高感度カラム開発
  4. ブロック共重合体で無機ナノ構造を組み立てる
  5. 細胞の分子生物学/Molecular Biology of the Cell
  6. アメリカ大学院留学:卒業後の進路とインダストリー就活(3)
  7. 有機合成化学協会誌2018年10月号:生物発光・メタル化アミノ酸・メカノフルオロクロミズム・ジベンゾバレレン・シクロファン・クロミック分子・高複屈折性液晶・有機トランジスタ
  8. 2007年文化勲章・文化功労者決定
  9. Pixiv発!秀作化学イラスト集【Part 1】
  10. 合成化学者十訓

関連商品

ケムステYoutube

ケムステSlack

月別アーカイブ

2016年3月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

注目情報

最新記事

第11回 慶應有機化学若手シンポジウム

シンポジウム概要主催:慶應有機化学若手シンポジウム実行委員会共催:慶應義塾大…

薬学部ってどんなところ?

自己紹介Chemstationの新入りスタッフのねこたまと申します。現在は学部の4年生(薬学部)…

光と水で還元的環化反応をリノベーション

第609回のスポットライトリサーチは、北海道大学 大学院薬学研究院(精密合成化学研究室)の中村顕斗 …

ブーゲ-ランベルト-ベールの法則(Bouguer-Lambert-Beer’s law)

概要分子が溶けた溶液に光を通したとき,そこから出てくる光の強さは,入る前の強さと比べて小さくなる…

活性酸素種はどれでしょう? 〜三重項酸素と一重項酸素、そのほか〜

第109回薬剤師国家試験 (2024年実施) にて、以下のような問題が出題されま…

産総研がすごい!〜修士卒研究職の新育成制度を開始〜

2023年より全研究領域で修士卒研究職の採用を開始した産業技術総合研究所(以下 産総研)ですが、20…

有機合成化学協会誌2024年4月号:ミロガバリン・クロロププケアナニン・メロテルペノイド・サリチル酸誘導体・光励起ホウ素アート錯体

有機合成化学協会が発行する有機合成化学協会誌、2024年4月号がオンライン公開されています。…

日本薬学会第144年会 (横浜) に参加してきました

3月28日から31日にかけて開催された,日本薬学会第144年会 (横浜) に参加してきました.筆者自…

キシリトールのはなし

Tshozoです。 35年くらい前、ある食品メーカが「虫歯になりにくい糖分」を使ったお菓子を…

2つの結合回転を熱と光によって操る、ベンズアミド構造の新たな性質を発見

 第 608回のスポットライトリサーチは、北海道大学大学院 生命科学院 生命科学専攻 生命医…

実験器具・用品を試してみたシリーズ

スポットライトリサーチムービー

PAGE TOP