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化学者のつぶやき

「一置換カルベン種の単離」—カリフォルニア大学サンディエゴ校・Guy Bertrand研より

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ケムステ海外研究記の第31回目は、カリフォルニア大学サンディエゴ校に留学されていた中野遼さんにお願いしました。

中野さんの博士課程時代のお仕事は、以前ケムステでも紹介させていただきました(過去記事:CO2の資源利用を目指した新たなプラスチック合成法)。その後、カルベン化学の世界的大家であるGuy Bertrand研のもとでJSPS海外特別研究員として研鑽を積み、後ほど紹介するとおり、見事に大きな仕事[1]を成し遂げます。現在は名古屋大学大学院工学研究科(山下誠 研究室)の特任助教として勤務され、新たなアカデミックキャリアをスタートされています。着任直後のお忙しい中の依頼にもかかわらず、丁寧にインタビューにご回答頂き、スタッフ一同感謝申し上げます。それでは今回もお楽しみ下さい!

Q1. 留学先ではどんな研究をしていましたか?

広い括りでは典型元素電子不飽和種をできるだけ低置換で単離したいというテーマです。唯一形になったのは一置換カルベンを単離する仕事です[1]

従来不安定化学種とされてきたカルベンが、それらの単離(図中I, II)[2][3]が報告されて以降、広範囲に応用がなされていることはChem-Stationの読者の皆さんはご存知かと思います。ここ30年で様々な安定カルベンが開発されてきましたが、これまでに単離されたカルベンは最も単純なメチレン(CH2, 図中V)に対して置換基二つによる速度論的・熱力学的安定化を加えたものと括れます。もちろんメチレンに関してはmatrix isolationなどの特殊な技法を使わなくては単離不可能ですが、二置換と無置換の中間、つまり一置換カルベンであれば普通の実験環境で単離できるのではないかという単純な発想です。

過去にBertrand研ではアルキル基とアミノ基が置換した一連のカルベン(CAACおよびAAC, 図中III)[4][5]を単離しており、電子的には一つのアミノ基によって一重項状態を十分に安定化できるのは明らかでした。一方、立体的には4級炭素を取り払って水素にするのは大きな違いであり、失われる立体保護を埋め合わせるような非常に嵩高く・化学的に安定で・優れたπドナーとして働くアミノ置換基を新たに設計する必要がありました。最終的にはフタルイミドにグリニャール反応剤が一気に4回付加する反応を生かして望みの機能を持ったアミンを構築でき、一置換カルベンの単離につなげることができました。その性質については論文[1]を参照して頂ければと思います。

偶然だとは思いますが、最も単純なアミノカルベン(H2N-CH)のmatrix isolationに関する論文は同じく2018年にSchreinerらにより発表されています[6]。二つの論文を比較して頂くとまた興味深いかと思います。

Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行う選択をしたのですか?

研究内容から選びました。ポスドクに何を求めるかは人それぞれと思いますが、自分の場合は何か将来的に役に立つ知識・経験としてカルベンについてしっかり学びたかったというのが最大の理由です。
ただ、学生時代にアムステルダム大学のReek研に行かせていただいたので「今度はアメリカ」という気持ちがあった事は否定できません。

Q3. 研究留学経験を通じて良かったこと・悪かったこと、滞在先の研究環境・制度で、日本と最も大きく異なるところを教えてください。

アメリカの著名なPIであれば、世界中からqualifyされたポスドクが手弁当でやって来ます。同世代の彼らと日々研究を共にするのは刺激的でしたし、将来こういうアイデア・野心・生産性を持つ人たちとやりあっていくのだと肌で感じられたのは良かったと思います。同時期にBertrand研でポスドクをしたDominikMaxも既に星がついた良い論文を出しているので、自分も負けないように頑張らないといけませんね。

機器が共通で専門のスタッフがいる利点は皆さんが言及されていますが、特にUCSDは全米にcrystallographerを輩出することで有名で、X線構造解析の設備は非常に充実していました。X線構造がないとどうにもならないテーマの都合上、CurtisとMilanには大変お世話になりました。

UCは過去に大きな事故を経験したこともあり、安全に関して非常に意識が高いです。全ての学生を含む実験者に大学から防燃の実験衣とメガネが支給されます。手袋に関しても例えば発火性のものを取り扱う時はケブラーの手袋とネオプレンの手袋を併用するように指導されます。また、雇用時には5つくらいのWebinarを履修しないと実験を始める事が出来ません。こういった安全に対するシステムは日本の大学も見習うべきだと思います。

Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?

Bertrand研はフランスCNRS(英訳ではNational Centre for Scientific Research)とのjoint labになっており、フランスをはじめとしてヨーロッパから多くの研究者がやってきます。アメリカ+ヨーロッパ+アジアの混じり合った環境からか、疎外感は全くありません。定番ですが、日本文化を英語で説明できると捗ります。

研究進捗報告会は極めて簡素で、週に一回、話したい人もしくはGuyに指名された人がchalk talkをして終わりです。2時間以上になることはありません。下級生は「NMRどうなってるんだ?」と聞かれてNMR chartを黒板に書く妙な問答が発生しますが、ポスドクは流石にそんなことは聞かれないのでとても楽です。その代わりGuyやstaff、学生・ポスドクを交えた日々のディスカッションが盛んでした。この日常的に上下関係なく議論する文化は今の研究室でも取り入れたいです。Bertrand研は規模が大きいラボではないのもあり、Guyとは化学について2年間みっちり語り合ってもらえました。そうした中でGuyの化学に対する眼を垣間見せてもらったのが、一番の財産だと思います。

サンディエゴは気候が素晴らしいせいか、人々がおおらかなとても良い街です(記事下部ギャラリー参照)。サンディエゴの素晴らしさについては様々な媒体で紹介されていますのでこの辺にしておきます。その反動で七月に名古屋に移った際にはひどい夏バテに悩まされました。

Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。

初めに受け入れ先の先生にお金の話をしておく事でしょうか。アメリカ労働省が「ポスドクは裁量労働者である」という基準を示してから、ポスドクの最低賃金は5万ドル程度に設定されています。しかし、ほとんどの奨学金はこの基準に届きません。受け入れのお願いをした際に「自分はAとBとCの奨学金に応募するつもりでそれぞれの支給額はいくらいくらです。足りない分を払ってもらえますか?」と伝えれば本気度も伝わるかと思います。ドイツでは受け入れ先の負担を前提にして賃金の7, 8割までしかカバーしない形の奨学金もあるようですし、一部費用負担をお願いするのに過度に遠慮する必要は無いと思います。保険に関してもできれば大学標準のものに入った方が病院もスムーズですしカバーも手厚いです。自分の場合は最初にお願いした結果、Guyが家族の保険料まで負担してくれました。とても感謝しています。

一方、家などは行ってから現地を見て考えようというスタンスで、全く準備せずに渡航しました。初めは親切な同僚に泊めてもらいながら家を探しました。同時期にサンディエゴへ行った同期の八木さん(現・伊丹研助教)はきっちり決めてから渡米しているので、その辺は性格の差です。

現地で困った事に相当するかは分かりませんが、もし海外に2年以上滞在する可能性がある場合は、奨学金を取る順番まで考えると良いかもしれません。海外ポスドク向け奨学金は「これから日本を出る人」という制限が掛かる事が多いです。例えばJSPSの海外PDにはその縛りが無かったと思うので、他の奨学金で海を渡ってから海外学振というのが長期滞在には理想的かもしれません。勿論そんなに思うがままにお金を取れたら苦労しませんが。

Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?

英語は多少良くなったと思うので役に立つとは思いますが、2年くらいのポスドクで海外経験があると言って良いのかはわかりません。ただ、Bertrand研の大先輩である金城玲先生や、学生時代にお世話になった伊藤慎庫先生など、私から身近に感じている方々が日本で博士号をとってから国外で独立されています。自分も将来のキャリアを広く考えるという意味では、アメリカでポスドクをした経験が助けてくれるかもしれませんね。

Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。

単純に国内外関係なくポスドクをしようと思った際に、海外の研究室の数>日本の研究室の数なのに対して、JSPSの国内PDよりも海外PDの採択率が高いのは少しだけ不思議です。ポスドクとして日本を離れるのは不安かもしれませんが不安定さはこの仕事の宿命だと思いますし、異なる文化を楽しみながら研究に没頭するのはなかなか面白い経験だと思います。不安な点があれば、自分を含めてここに寄稿している方々はなんでも質問に答えて下さると思います。
宣伝ですが、Guyが最近日本からの応募が少ないと嘆いていたので、この記事を読まれた方は是非応募を検討してみてください。きっと歓迎されます。

最後になりますが、貴重な機会をくださったChem-Stationの方々に心より御礼申し上げます。

関連文献

  1. Nakano, R.; Jazzar, R.; Bertrand, G. A Crystalline Monosubstituted Carbene. Nat. Chem. 2018, 10, 1196–1200. doi:10.1038/s41557-018-0153-1
  2. Igau, A.; Grutzmacher, H.; Baceiredo, A.; Bertrand, G. Analogous ɑ, ɑ’-Bis-Carbenoid, Triply Bonded Species: Synthesis of a Stable λ3-Phosphino Carbene-λ5-Phosphaacetylene. J. Am. Chem. Soc. 1988, 110, 6463–6466. DOI: 10.1021/ja00227a028
  3. Arduengo, A. J.; Harlow, R. L.; Kline, M. A Stable Crystalline Carbene. J. Am. Chem. Soc. 1991, 113, 361–363. DOI: 10.1021/ja00001a054
  4. Lavallo, V.; Mafhouz, J.; Canac, Y.; Donnadieu, B.; Schoeller, W. W.; Bertrand, G. Synthesis, Reactivity, and Ligand Properties of a Stable Alkyl Carbene. J. Am. Chem. Soc. 2004, 126, 8670–8671. DOI: 10.1021/ja047503f
  5. Melaimi, M.; Jazzar, R.; Soleilhavoup, M.; Bertrand, G. Cyclic (Alkyl)(Amino)Carbenes (CAACs): Recent Developments. Angew. Chem. Int. Ed. 2017, 56, 10046–10068. doi:10.1002/anie.201702148
  6. Eckhardt, A. K.; Schreiner, P. R. Spectroscopic Evidence for Aminomethylene (H−C:−NH2)—The Simplest Amino Carbene. Angew. Chem. Int. Ed. 2018, 57, 5248–5252. doi:10.1002/anie.201800679

研究者の略歴

名前:中野 遼
所属:名古屋大学 工学研究科 有機・高分子化学専攻 山下研究室
研究テーマ:超臨界メタンの触媒的酸化
海外留学歴:2年3ヶ月

ギャラリー

左) San Diegoの代表的観光地La Jolla Shore. いつもアザラシが寝ています
中) San Diegoの代表的観光地Balboa Park. 万博に合わせて作られました.
右) UCSDの象徴Geizel Library.

左) 毎日labからSunsetが見えました.
右) 友人の家でホームパーティー

左) San Diegoから近いAnza Borrego Dessert. 前年の雨量が多く砂漠一面を花が埋め尽くしていまいした(20年ぶりらしい)
右) 娘を連れてハイキング

左) 一足先に帰国した妻の送別会にて
右) MovajeのSand Duneの頂上にて(macOS最新版の壁紙のあそこです)

San Diegoはメキシコ国境に近く簡単に旅行ができます.
左) Calakmulのピラミッドの上に立つ妻. 近日中に登れなくなるらしいのでMaya文明のピラミッドに登りたい人はお早めに.
右) 最も美しいと言われるChichen Itza

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cosine

博士(薬学)。Chem-Station副代表。現在国立大学教員として勤務中。専門は有機合成化学、主に触媒開発研究。 関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。 素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

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