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d8 Cu(III) の謎 –配位子場逆転–

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L2,3-端 X 線吸収分析により、形式的に CuIII と考えられる銅錯体は、配位子場逆転 (ligand-field inversion) を起こしており、実際の電子状態は CuI に近いことが示唆されました。

“The Myth of d8 Copper(III)”

DiMucci, I. M.; Lukens, J. T.; Chatterjee, S.; Carsch, K. M.; Titus, C. J.; Lee, S. J.; Nordlund, D.; Betley, T. A.; MacMillan, S. N.; Lancaster, K. M. J. Am. Chem. Soc. 2019, 141, 18508–18520.

DOI:10.1021/jacs.9b09016.

【研究背景】 金属錯体の中心金属の酸化数はどのように決める?

突然ですが、問題です。次の錯体の中心金属の酸化数を正しく帰属してください。

「おいおい、バカにするなよ」と言う声も聞こえて来るかもしれませんが、少々お付き合いください。金属錯体の中心金属の酸化数を決定するときには、金属–配位子結合の電子対が配位子に由来しているものと想定します。なぜなら、一般的に金属原子は配位子の原子 (C, N, O, ハロゲンなど) よりも電気陰性度が低く、電気的に陽性だからです。こうして金属–配位子結合を不均一に開裂して中心金属と配位子に分裂させると、配位子の電荷がわかります。そして、配位子の電荷と錯体全体の電荷を見比べることで、中心金属の電荷を決定できます。このルールに則ることで、上の錯体の中心金属の酸化数は以下のように帰属できます。

このように、「金属–配位子結合の電子対が配位子に由来しているものと想定」することは、分子軌道論的には、次のように解釈できます。

  • 金属–配位子間の結合性軌道は、より電気陰性な配位子原子の寄与が大きい
  • 金属–配位子間の反結合性軌道は、金属原子の寄与が大きい

反結合性の軌道が空であることは、金属に由来する軌道に電子が収容されていないことを意味しています。したがって、上で説明した金属に正の形式電荷を当てるルールは、分子軌道論的にも辻褄が合っています。

分子軌道論を持ち出して話をややこしくしてしまったかもしれません。重要なことは、金属は配位子よりも電気陽性なので、一般的に金属錯体の金属–配位子結合において、その電子対は配位子に由来しているものと想定することです。

 【問題設定1】 [Cu(CF3)4] は物理的に CuI 種 ?

上のルールに則ることで、金属錯体の中心金属の “形式酸化数 formal oxidation state” は決めることができますが、形式酸化数が、金属の実際の電子状態を表しているとは限りません。1995 年に、Snyder は [Cu(CF3)4] は形式的には CuIII ですが、実際の電子状態は CuI 種と表す方が適切ではないか、と提唱しました2。Snyder は、 [Cu(CF3)4]– の 最低非占有分子軌道 (LUMO) において、配位子の寄与が大きいことを計算で確かめたのです。なぜこの計算結果が奇妙なのかについて、丁寧に追っていきましょう。

平面四配位の錯体の d 軌道の配位子場分裂を考えると、dx2-y2 軌道は配位子の軌道と直接重なるため、もっとも反結合性が高く、エネルギー準位が高いはずです。d8 電子配置の金属では、平面四角構造を取ると、その高エネルギーのdx2-y2 軌道に電子を収容しなくてもよいため、エネルギー的に有利です。言い換えると、d8 電子配置の金属では dx2-y2 軌道を LUMO として持つはずです。しかし、Snyder の計算結果によると、 形式的に dである CuIII 種の[Cu(CF3)4]– は、dx2-y2 軌道に電子を収容しており、LUMO は金属の d 軌道よりもむしろ配位子の軌道からの寄与が大きいと言うのです。dx2-y2 軌道以外の 4 つの d 軌道にも電子が収容されているため、[Cu(CF3)4]– の中心の銅の酸化状態 d10  CuI に近いということになります。このように、d 軌道の分裂が古典的な金属錯体の配位子場分裂とは逆になり、金属–配位子の反結合性軌道が配位子軌道の性格を強く帯びることは、配位子場逆転 (ligand-field inversion) と呼ばれており、近年の基礎錯体化学で注目されている現象です3

配位子場逆転はどういったときに起こるのでしょうか。分子軌道論において、一般的に「反結合性軌道は、電気陽性な原子の寄与が大きくなる」ことを思い出します。すなわち配位子場逆転は、金属の d 軌道のエネルギー準位が配位子の軌道のエネルギーよりも低いときにおこります。

したがって [Cu(CF3)4] において LUMO が配位子の寄与が大きいことは、配位子の方が金属の d 軌道よりも電気的陽性であり、配位子の軌道の方がエネルギー的に不安定であることを意味します。この状況は形式的に CF3+ カチオンが Cu から σ逆供与を受けて配位しているとみなすことができます。その様子は Lewis 構造式で右下に表すことができ2、このとき Cu の酸化数は CuI になっています。また、CF3+ カチオンが存在しうる理由は、F原子の孤立電子対がカルボカチオンの空のp軌道に非局在化できるかです。

【問題設定2】K-端 XAS は酸化状態を決定できるか?

Snyder の計算化学による提案は興味深いものでしたが、これを実験的に証明することは簡単ではありませんでした。金属の酸化数を同定する分析手法として X 線吸収分析 (X-ray absorption spectroscopy: XAS)4、特に K 端における X 線端近傍構造 (X-ray near-edge structure: XANES, [ゼインズと読みます]) があります。XAS は、X 線によって分析したい原子種の内殻電子を弾き出し、そのときの X 線の吸光度を、入射 X 線のさまざまなエネルギーに対して測定する手法です。

弾き出す内殻軌道によって、その吸収は異なる名称で呼ばれており、1s 電子を弾き出す場合は K 端、2p 電子を弾き出す場合は L2,3 端と呼ばれます。XAS が酸化数の決定に有用であると考えられている理由は、内殻電子は核に近いので有効核電荷の変化に敏感だからです。酸化数の増加に伴って内殻電子をはじき出すのにより高いエネルギーが必要になると考えられます。さらに、内殻電子は内殻なので配位子の環境の影響を比較的受けにくいと考えられます。

K 端 XAS スペクトルの典型的な例を下に示します。吸収が大きくなっているところは、K 吸収端 (K rising-edge) とよばれ、通常 1s → 4p 遷移に帰属されます。一方 K 吸収端の少し手前に小さなピークが観測されることがあります。それらは、端先行ピーク (pre-edge feature) と呼ばれており、通常は 1s → 3d 遷移に帰属されます。これらのピークの強度は、他の電子遷移スペクトル (UV-vis) と同じ選択律によって決められています。∆= 1 は双極子許容遷移であり、1s → 4p遷移の K 吸収端は∆= 1の許容遷移ですが、 1s → 3d 遷移の端先行ピークは ∆l = 2 のため双極子禁制となります。ただし端先行ピークは、3d-4p 混成によってやや禁制が解けたり、金属-配位子電荷移動 (MLCT) が混じったりすることで、弱く吸収が現れます。

さて、XANES の吸収エネルギーが金属の酸化数に依存することに着目して、2000 年にDuBois らは種々の CuII および CuIII 錯体の K-端 XAS を調査しました5。その結果、1s → 3d 遷移に相当する吸収、いわゆる端先行ピーク (pre-edge feature) のエネルギーが、CuII 錯体であれば 8979 eV 程度でしたが、CuIII 錯体ではおよそ 8981 eV 程度であり、CuIII は CuII より高いエネルギーで端先行ピークを示すことが示唆されました。DuBois らのこの研究は、その後研究者たちに広く認められ、CuIII 種の存在の確認のために K 端 XAS の端先行ピークが一般的に利用されるようになります。

(左) CuII 種と CuIII 種の XAS の比較の例. 右下に拡大し, 矢印で示された部分が K 端先行ピーク. (右) DuBois らにより提案された. K 端先行ピークの吸収位置による Cu の酸化数の分類.

しかし、K-端先行ピークはCu 錯体の酸化数の決定には不向きであることが徐々に明らかになります。具体的には、形式的に CuII 種であるいくつかの Cu 錯体が、CuIII に帰属される位置にK-端先行ピークを示したのです6。では、中心金属の酸化数を決定するにはどうすればよいのでしょうか?

Tomson らによる Cu 種の K 端先行ピークの研究.6 DuBois らによって “CuIII の領域” に形式酸化数が CuII である錯体 1 や 2 がK 端先行ピークを示しました. また, 形式的に CuI と考えられるアルケン錯体 3 は, “CuIIIの領域” よりも高エネルギーなK 端先行ピークを示しました.

【分析 · 手法のキモ】L-端 XAS で LUMO の d 率を求め, 酸化数を見積る

K-端先行ピークの吸収位置が、Cu 錯体の酸化数の決定には不向きである理由は、K-端先行ピークに由来する 1s → 3d 遷移が ∆l = 2 であり、双極子許容遷移ではないということです。許容遷移ではないのに K-端先行ピークが観測される理由は、それが双極子許容ではないものの電気四極子許容であることと、金属-配位子電荷移動遷移 (MLCT) などもK-端先行ピークに寄与しているからです。

Lancaster らは、双極子許容である 2p → 3d 遷移を利用すれば、Cu 錯体の物理的な酸化数が見積れるのではないかと考えました1,7。Lancaster らのアイデアは次の通りです。

もし、Snyder の主張が正しく、[Cu(CF3)4] が配位子場逆転を起こしており、LUMO は配位子の性質を強く帯びているとします。言い換えると、3d 軌道が LUMO にほとんど寄与していないとします。このときもし 2p 軌道を X 線で弾き出したとしても、 2p → 3d 遷移は弱くしか観測されないはずです。なぜなら、LUMO は 3d 軌道の性格が小さいからです (下図左)。

一方、もし形式的に CuIII 種である [Cu(CF3)4] が物理的にも d8 CuIII であるとします。このときは、典型的な配位子場分裂の分子軌道図から予想されるように LUMO は d 軌道に性格を強く帯びています。なぜなら、d8 電子配置では、空の d 軌道を有するはずだからです。したがって、ここでもし 2p 軌道を X 線で弾けば、 2p → 3d 遷移が強く観測されるはずです (下図右)。

この方法のキモは、2p → 3d 遷移が双極子許容遷移であるため、2p → 3d 遷移の強度が LUMO の 3d 軌道の寄与に比例するはずだというところです。そこで Lancaster らは、2p 電子を弾き出す XAS 分析である L2,3-端分析を様々な形式酸化数の Cu 錯体で分析し、そのピーク面積をもとにそれらの Cu 錯体の物理的酸化数の算出を試みました。

【主張の有効性検討1】L2,3端ピーク面積 vs. 物理的酸化数の検量線の作成

L2,3端ピークの面積と Cu 錯体の物理的酸化数の関係を調べるために、Lancaster らは別の分析手法 (EPR や配位原子の K 端 XAS) により 半占有分子軌道 (SOMO) の 3d 軌道の寄与が調べられている 3 種の CuII 錯体8に対して、L2,3 端 XAS を分析しました (CuII は不対電子をもつので、遷移先の軌道が LUMO ではなくて SOMO になります) 。その結果、SOMO の 3d 軌道の寄与が高いほど、L2,3端のメインピークの面積が大きくなり、それらがほぼ比例関係にあることを確認しました (下図)。

参照に使用した CuII 種の L2,3 端吸収スペクトルと, それらの錯体の正孔数と L2,3 端吸収面積の関係.

この比例関係を利用すれば、SOMO/LUMO の 3d 軌道の寄与をL2,3端のメインピークの面積から実験的に定量化することができます。ただし、厳密には L2,3端のメインピークの面積を遷移先の正孔の数で割って、規格化した値を使います。どういうことかというと、SOMO に遷移する場合は正孔が一つですが、LUMO に遷移する場合は正孔が 2 つあり、必然的に LUMO への遷移の方がピーク面積が大きくなってしまうため、単純にピーク面積を比較することは公平ではありません。そこで、ピーク面積を正孔の数で割ることにより、正孔ごとの 3d 軌道の寄与に換算するということです。

【主張の有効性検討2】様々な Cu 錯体の物理的酸化数の決定

得られた検量線を利用して、Cuから CuIII を含む 14 種の Cu 錯体について、L2,3-端 XAS 分析を行いました。そのときの L2,3 端 XAS 吸収スペクトルの一部を以下の図に示します。まず形式的に CuI である錯体9をみてみます。この錯体は、ほとんど L2,3 端吸収を示しませんでした。これは、CuI 種は d10 電子配置を持つため 3d 軌道が完全に占有されており、2p → 3d 遷移に対応する L2,3-端吸収が観測されないことを意味します。

次に同様の配位環境を持つ CuII 錯体9を見てみます。この CuII 錯体では、強い L2,3 端吸収が観測されました。この強い L2,3 端吸収は、d9 電子配置を持つ CuII 錯体においては SOMO が 3d 軌道の性格を帯びており 2p → 3d 遷移が可能であることを示しています。

次に同様の配位環境を持ちますが、形式的に CuIII の酸化状態を持つ錯体9です。CuIII は形式的に d8 なので LUMO の 3d 成分が大きいはずだと考えられますが、実際には L2,3 端吸収は CuII 錯体のそれよりも小さいことが明らかになりました。この結果は、形式的な CuIII 錯体において 3d 軌道はむしろ占有されており、LUMO は配位子の性格を帯びていることを示唆します。

最後に、もう一つの形式的な CuIII 錯体である、[Cu(CF3)4]– の L2,3端 XAS スペクトルを見てみましょう。この錯体では、まずまずの強さの L2,3端吸収が観測されましたが、正孔数で規格化したのピーク面積を見ると、CuII 錯体のそれよりも小さいです。したがって、やはり形式的な CuIII 錯体において 3d 軌道はむしろ占有されていることが示唆されました。

その他の錯体の L2,3 端 XAS 吸収スペクトルについても、ピーク面積のみを数直線上に表しました。その結果、今回調査した全ての CuIII 錯体のホールあたりの L2,3 端吸収は、CuII 錯体のそれよりも小さいことが確かめられました。すなわち、形式的な CuIII 錯体の物理的な酸化状態は、CuII 種のそれよりも小さいというのです!

【主張の有効性検討3】計算化学による網羅的な調査

L2,3 端 XAS 吸収の実験結果を裏付けるため、筆者らは DFT 計算を用いて Cu 錯体の LUMO や SOMO の 3d 軌道の寄与を調査しました。その結果、DFT 計算から得られた LUMO や SOMO の 3d 軌道の寄与は、実験的に L2,3 端吸収から求めた値と極めてよく一致しました。注目すべきことは、今回調査した CuIII 錯体の LUMO の 3d 軌道の寄与が 50% に満たないことです。これは、【問題設定 1】で述べた配位子場逆転が起こっていることを意味します。

計算結果が実験結果と一致したことを受けて、筆者らはさらに多くの CuIII 錯体について計算化学的に分析し、CuIII 錯体の配位子場の一般性について調査しました 。その結果、ただ一つの例を除き、形式的に CuIII である錯体は、 LUMO の 3d 軌道の寄与が 50% に満たず、配位子場逆転を起こしていることが示唆されました。配位子場逆転を示さない唯一の例外は、 [CuF6]3– で、非常に電気陰性度が高い F 原子を多く持つ構造でした。配位子場逆転を示さないとはいえ、この錯体の LUMO の 3d 軌道の寄与は 61% 程度であり、この錯体の Cu—F 結合はかなり共有結合性が高く、イオン結合性が低いことが示されました。したがって、現実的にほぼ全ての “CuIII” 錯体において、物理的に Cu3+ の酸化数を取ることは実質的に難しいと考えられます。

【展開1】Cu 以外の 3d 金属錯体での配位子場逆転

Lancaster らの成果により Cu(III) 種において配位子場逆転が起こることが実験的に示されました。では配位子場逆転を起こすのは Cu だけでしょうか。記事冒頭でお話しした分子軌道論の基本に立ち返ると、金属の d 軌道のエネルギー準位が配位子軌道のエネルギーより低く、d 軌道が内殻のように振る舞うときに配位子場は逆転可能です。ここで、周期表の右に行くほど元素の電気陰性度は上がるため、d 金属の中でも後周期遷移金属は d 軌道のエネルギーが比較的低いと考えられます。そう考えると、11 族で、典型元素とのほぼ境目に位置する Cu において配位子場逆転が起こるのは、それほど不思議ではないのかもしれません。となると次の疑問は、Cu よりも一つ左に位置する Ni において配位子場逆転が起こるかということです。

実は、Lancaster らの報告より少し前に、2019 年に形式的に NiIV である錯体は実際には、NiII ではないかということが、 Klein らの計算化学により提案されています10。この成果については実験的な検証が必要ですが、2021 年に NiIII 種が配位子場逆転を起こしていることが EPR によって示唆され15、Ni でも配位子場逆転は可能である見方が強まってます。

Klein らによる NiIV 種の部分電荷の分析. 表の下に示した Ni—C 結合において, 負電荷が Ni に存在しており, 結合が共有結合的であることが示唆されています. さらに注目するべきことに, Ni—CPh 結合では, 負電荷は C よりも Ni の方が大きく, その結合は Niδ-—Cδ+ のように分極していると提案されています.

【展開2】重金属錯体での配位子場逆転

Cu 以外の 3d 金属でも配位子場逆転が起こるとするならば、次の疑問は、周期表を下に降りたとき、つまり重金属で配位子場逆転が起こるかどうかです。再び周期律と分子軌道論の基礎に立ち返ります。周期表を下に降りると元素の電気陰性度は下がるので、d 軌道の動径分布はより広がり、価電子的に振る舞います。そのような d 軌道が配位子の軌道よりもエネルギー的に低くあるためには、電気陰性度が低い配位原子が必要だと考えられます。実際、2 電子供与体である AlMe 基を配位子にもつ  [RhI(AlMe)4]において、形式的な d8 RhI が物理的に d10 Rh(–I) とみなせると、Manca らが計算科学により提案しています3(下図) 。この AlMe 配位子中の Al は、空の p 軌道を有しており、電子豊富な Rh(–I) は逆供与によって電子を非局在化させて安定化しています。

Manca による[RhI(AlMe)4]+の分子軌道分析.

Manca らが提案した Rh 錯体は残念ながら合成が難しく、今のところは机上の空論になっています。しかし、例えば京都大学の中尾らは、下のようなRh–Al 錯体を報告しています。この錯体の配位子において Al は孤立電子対を持っており、Al は電子供与体です。さらに配位子全体では負電荷を持つため、これに配位された金属は形式酸化数が 1 増加します。つまりこの配位子は形式的に X 型です。そのように考えると、この Rh–Al 錯体の形式酸化数は RhI–AlI と帰属できます。

注目すべきことは、Rh–Al 結合は Rhδ––Alδ+ のように分極していると計算されていることです。そしてこの Rh–Al 錯体の興味深い特徴は、ピリジンの位置選択的な C–H 活性化やフルオロアレーンの C–F 結合活性化といった反応性です。これらの反応は、基質が Al 部位に事前配位する関わっていると提案されており、Al 部位が Lewis 酸性を示すことを示唆しています。このような性質は、”配位子がカチオン的に振る舞う” という配位子場逆転の特徴に似ています。したがって、この Rh–Al 錯体は配位子場逆転を起こしており、物理的には Rh(–I) の電子状態に近い可能性があるのではないか、と私は考えます。

【まとめ】

Lancaster らの報告は、単に Cu 錯体の酸化状態を帰属しただけではありません。なぜなら、CuIII 錯体は、有機反応の触媒や中間体として現れたり、酵素にも現れるからです。例えば、CuI 種が “酸化的” 付加をおこしたり、CuIII 種が “還元的” 脱離を起こす際には、金属中心の物理的酸化数はほとんど変化しないと考えられます。例えば、CuI 種の酸化的付加の速度において、本来の酸化的付加から予想される電子的効果とは逆の振る舞いが Hartwig らにより報告されています。そのような CuI/CuIII 対の異常な振る舞いは、CuIII 種の物理的状態が CuI に近いことから説明できる可能性があり、今回の知見は今後の反応機構研究に役立つと考えられます。また、金属錯体の物理的な酸化数を同定することは、その錯体の電子状態の理解にも繋がるため、今回の知見は材料開発や触媒開発を行う化学者の指針になるでしょう。

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参考文献

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  2. Snyder, J. P. Elusiveness of CuIII Complexation; Preference for Trifluoromethyl Oxidation in the Formation of[CuI(CF3)4]− Salts. Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1995, 34, 80–81. https://doi.org/10.1002/anie.199500801.
  3. Hoffmann, R.; Alvarez, S.; Mealli, C.; Falceto, A.; Cahill, T. J.; Zeng, T.; Manca, G. From Widely Accepted Concepts in Coordination Chemistry to Inverted Ligand Fields. Chem. Rev. 2016, 116 , 8173–8192. https://doi.org/10.1021/acs.chemrev.6b00251.
  4. MacMillan, S. N.; Lancaster, K. M. X-Ray Spectroscopic Interrogation of Transition-Metal-Mediated Homogeneous Catalysis: Primer and Case Studies. ACS Catal. 2017, 7, 1776–1791. https://doi.org/10.1021/acscatal.6b02875.
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開催日:2024/07/24 申込みはこちら■開催概要新たな技術が生まれ続けるVUCAな…

酵素を照らす新たな光!アミノ酸の酸化的クロスカップリング

酵素と可視光レドックス触媒を協働させる、アミノ酸の酸化的クロスカップリング反応が開発された。多様な非…

二元貴金属酸化物触媒によるC–H活性化: 分子状酸素を酸化剤とするアレーンとカルボン酸の酸化的カップリング

第620回のスポットライトリサーチは、横浜国立大学大学院工学研究院(本倉研究室)の長谷川 慎吾 助教…

実験器具・用品を試してみたシリーズ

スポットライトリサーチムービー

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