スコット・J・ミラー(Scott J. Miller、1966年12月11日– )は、アメリカの有機化学者。イェール大学 Sterling Professor of Chemistry。数個のアミノ酸をつないだ小さなペプチドを触媒に使い、酵素のように「分子の狙った場所だけ」「鏡像の片方だけ」を反応させる方法を切り開いてきた。2026年3月には、触媒研究に贈られる米国化学会(ACS)の Gabor A. Somorjai Award を受賞した(写真:news.yale.edu)。
経歴
1989 ハーバード大学 卒業(化学、B.A./M.A.)
1994 ハーバード大学大学院 博士課程修了(指導教員: D. A. Evans)
1994 カリフォルニア工科大学 博士研究員(R. H. Grubbs、1996年まで)
1996 ボストンカレッジ 助教授
2001 ボストンカレッジ 准教授
2002 ボストンカレッジ 教授
2006 イェール大学 化学科 教授
2008 イェール大学 Irénée du Pont Professor of Chemistry(2023年まで)
2009 イェール大学 化学科長(2015年まで)
2015 イェール大学 文理学部 科学部門ディレクター(2017年まで)
2017 J. Org. Chem. 編集長
2023 イェール大学 Sterling Professor of Chemistry(現職)[16]
ニューヨーク州バッファロー生まれ。大学院では不斉金属触媒、ポスドクではオレフィンメタセシスによるペプチド合成と、異なる二つの分野を経験したことが、のちの「ペプチドそのものを触媒にする」という発想の土台になった。学内では化学科長を2期務め、学外では NIH の研究審査部会座長や NIGMS 諮問委員会委員、全米アカデミーズの化学科学技術委員会委員も務めた。
受賞歴
1999 NSF CAREER Award(米国国立科学財団)
2000 Camille Dreyfus Teacher-Scholar Award(Dreyfus 財団)
2003 Pfizer Award for Creativity in Organic Chemistry(ファイザー)
2004 Arthur C. Cope Scholar Award(ACS)
2008 平田義正メモリアルレクチャー賞(名古屋大学)[17]
2011 NIH MERIT Award(米国国立衛生研究所)
2012 Fellow(米国科学振興協会、AAAS)
2016 ACS Award for Creative Work in Synthetic Organic Chemistry(ACS)
2016 会員(米国芸術科学アカデミー)
2017 Max Tishler Prize(ハーバード大学)
2018 Fellow(ACS)
2020 会員(米国科学アカデミー、NAS)
2022 Ira Remsen Award(ACS メリーランド支部)[18]
2025 Allan R. Day Award(フィラデルフィア有機化学者クラブ)
2026 Gabor A. Somorjai Award for Creative Research in Catalysis(ACS)
2026年の Somorjai 賞は、複雑な分子を組み立て、作り変える新しい方法の開発、とくに天然物を触媒で直接修飾する研究が評価された(2025年8月発表、2026年3月の ACS 春季大会で授与)。2022年の Remsen 賞では、立体化学的に込み入った分子を素早く合成する新しい化学変換を数多く見いだしたことが授賞理由とされた。2024年と2026年には、学部の有機化学の授業に対してイェール大学の教育賞も2件受けている。
研究概要
酵素がもつ「選び分ける力」を、アミノ酸が3〜4個つながっただけの小さなペプチドで再現しようとしてきた研究者である。酵素は巨大なタンパク質だが、反応に効いているのは活性部位のごく一部にすぎない。そこだけを切り出したような小分子を設計すれば、似た形の官能基が並ぶ複雑な分子のなかでも、狙った一か所だけを反応させられる。いわば「酵素の手先だけを借りる」発想である。
大学院では Evans 研でビス(オキサゾリン)銅錯体を使う不斉 Diels–Alder 反応 [1]、ポスドクでは Grubbs 研で閉環メタセシスによる環状ペプチドの合成 [2] に取り組んだ。1996年の独立後はペプチドを「材料」ではなく「触媒」として扱う研究に転じ、エナンチオ選択性(鏡像の作り分け)から、位置選択性・化学選択性が同時に問われる複雑分子の修飾へと対象を広げてきた [15]。
ペプチド触媒の出発点:アシル化による速度論的分割
1998年、π-メチルヒスチジン(N-アルキルイミダゾール)を含むトリペプチドを求核触媒とし、ラセミ体アルコールの片方の鏡像体だけをアシル化する速度論的分割を報告した [3]。ヒスチジンの側鎖がアシル基を受け渡し、ペプチド鎖が基質を見分けるという、酵素の分業を小さな分子で再現した例である。さらに、アシル化で生じる酸に応答して蛍光を出すセンサーと樹脂上の触媒ライブラリーを組み合わせ、活性のある触媒を光で見つけるスクリーニング法も開発した [4]。同じ時期には D. W. C. MacMillan らのアミン触媒も登場しており、ミラーのペプチド触媒は金属を使わない有機触媒の初期の系統の一つに数えられる [15]。
酵素を手本にした官能基ごとの触媒:リン酸化と酸化
2001年には、キナーゼ(リン酸化酵素)を最小限まで縮めたようなペプチドを選び出し、myo-イノシトール誘導体の特定の水酸基だけをリン酸化して、D-myo-イノシトール-1-リン酸を短い工程で合成した [5]。プロリンとペプチドを組み合わせた二つの触媒による不斉森田–Baylis–Hillman 反応も報告している [6]。2007年には、アスパラギン酸の側鎖カルボン酸を過酸に変えて酸化剤として働かせる不斉エポキシ化を開発した [7]。この Asp 系触媒はビーズ上のライブラリーで改良され、ポリエンの狙った二重結合だけをエポキシ化できるまでになり、2025年には N-酸化やバイヤー–ビリガー酸化まで含む共通の触媒基盤としてまとめられている [7]。

遠隔非対称化とアトロプ選択的反応
2006年、Merck との共同研究で、約1 nm 離れた二つのフェノール性水酸基をペプチド触媒で区別する遠隔非対称化を報告した [8]。基質の対称性を破る反応は、2009年のテトラペプチド触媒による meso-ジオールの不斉スルホニル化にも広がった [8]。2010年には、ペプチド触媒によるブロモ化で、結合の回転が止まって生じる鏡像異性体(アトロプ異性体)をもつビアリールを動的速度論的分割した [9]。2014年には、二本のキラル軸をもつ系で、平衡に向かう過程でラセミ化せずに一方の鏡像体が自然に増える現象も見いだしている [9]。
天然物を「その場で」作り変える部位選択的修飾
同じ2006年、エリスロマイシン A に数多くある水酸基のうち特定の一つだけをペプチド触媒でアシル化し、天然物を保護基なしで直接作り変える研究を始めた [10]。2012〜2015年にはバンコマイシンやテイコプラニンといったグリコペプチド系抗生物質に展開し、D-Ala-D-Ala 配列を組み込んだ触媒を標的に結合させ、離れた位置の水酸基をリン酸化する方法も示した [10]。こうした研究は、医薬候補の構造を合成の最終段階で変える「後期官能基化」の手段として、医薬化学からも注目されている [10]。
研究の現在地(2026年10月時点)
2010年代後半からは、選択性がなぜ生まれるのかを数値で解き明かす研究が増えている。ユタ大学の M. S. Sigman との共同研究では、ペプチド触媒の構造をパラメータ化して選択性の要因を解析し [9]、2023年には特定の一つの基質ではなく多くの基質に通用する「一般性」を指標に触媒を最適化する手法を報告した [13]。
対象とする分子の幅も広がっている。2019年にはプリンストン大学の R. R. Knowles らと、光触媒・塩基・ペプチド系チオールの三つを組み合わせた脱ラセミ化を報告した [11]。2021年には、核酸医薬で問題になるリン原子上の立体を触媒で作り分けるオリゴヌクレオチド合成を発表した [12]。2026年には、キノリンを組み込んだアトロプ異性ペプチドや大環状ペプチドを、化学合成とリボソームによる翻訳の両方で作る研究も報告している [14]。
2025〜2026年の講演では「酵素と小分子の境界での不斉触媒」を演題に掲げており、ペプチド触媒を酵素と低分子触媒の中間に位置づける考え方を前面に出している。2026年の Somorjai 賞受賞もこの流れの上にある。
エピソード
- 2026年に受けたイェール大学の教育賞(Dylan Hixon ’88 Prize)では、約20年にわたる学部有機化学の講義が評価された。授業は親しみやすくユーモアがあり、朝9時の講義でも笑いが起きる一方、試験は最新の研究から出題されるほど手ごわいと紹介されている。オフィスアワーには学生が集まり、一緒に NMR 施設へ行くこともあるという(Yale News, 2026年5月14日)。
- 2017年1月に J. Org. Chem. の編集長に就いた際、有機化学はまだ若い分野で10年後には今の研究も古く見えるだろうと楽観的に語り、雑誌をその進歩を後押しし記録する場と位置づけた。就任時には東京大学の井上将行らを Associate Editor に迎え、国際化を図った(ACS Axial, 2017年2月)。
- 平田義正メモリアルレクチャー賞は2004年創設の若手向けの賞で、ミラーは J. Du Bois、D. R. Liu、P. S. Baran、P. H. Seeberger に続く受賞者となった。
- 2021年の講演では、まず鏡像の作り分けに取り組み、次に同じ考え方を複雑分子の位置選択性・化学選択性に広げたと自らの歩みを振り返り、触媒と基質の配座の揺らぎなど機構上の問いがまだ残っていると述べている(Pharmaron, 2021年5月)。
関連文献&注釈
- Evans, D. A.; Miller, S. J.; Lectka, T. Bis(oxazoline)copper(II) Complexes as Chiral Catalysts for the Enantioselective Diels–Alder Reaction. J. Am. Chem. Soc. 1993, 115, 6460–6461. DOI: 10.1021/ja00067a091
- Miller, S. J.; Grubbs, R. H. Synthesis of Conformationally Restricted Amino Acids and Peptides Employing Olefin Metathesis. J. Am. Chem. Soc. 1995, 117, 5855–5856. DOI: 10.1021/ja00126a027
- Miller, S. J.; Copeland, G. T.; Papaioannou, N.; Horstmann, T. E.; Ruel, E. M. Kinetic Resolution of Alcohols Catalyzed by Tripeptides Containing the N-Alkylimidazole Substructure. J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 1629–1630. DOI: 10.1021/ja973892k
- Copeland, G. T.; Miller, S. J. J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 4306–4307.
- Sculimbrene, B. R.; Miller, S. J. Discovery of a Catalytic Asymmetric Phosphorylation through Selection of a Minimal Kinase Mimic: A Concise Total Synthesis of D-myo-Inositol-1-Phosphate. J. Am. Chem. Soc. 2001, 123, 10125–10126. DOI: 10.1021/ja016779+
- Imbriglio, J. E.; Vasbinder, M. M.; Miller, S. J. Dual Catalyst Control in the Amino Acid–Peptide-Catalyzed Enantioselective Baylis–Hillman Reaction. Org. Lett. 2003, 5, 3741–3743. DOI: 10.1021/ol035466b
- (a) Peris, G.; Jakobsche, C. E.; Miller, S. J. J. Am. Chem. Soc. 2007, 129, 8710–8711. DOI: 10.1021/ja073055a (b) Lichtor, P. A.; Miller, S. J. Nat. Chem. 2012, 4, 990–995. DOI: 10.1038/nchem.1469 (c) Huth, S. E.; Stone, E. A.; Miller, S. J. Acc. Chem. Res. 2025, 58, 2072–2087. DOI: 10.1021/acs.accounts.5c00247
- (a) Lewis, C. A.; Chiu, A.; Kubryk, M.; Balsells, J.; Pollard, D.; Esser, C. K.; Murry, J.; Reamer, R. A.; Hansen, K. B.; Miller, S. J. J. Am. Chem. Soc. 2006, 128, 16454–16455. DOI: 10.1021/ja067840j (b) Fiori, K. W.; Puchlopek, A. L. A.; Miller, S. J. Nat. Chem. 2009, 1, 630–634. DOI: 10.1038/nchem.410
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- Shin, N. Y.; Ryss, J. M.; Zhang, X.; Miller, S. J.; Knowles, R. R. Light-Driven Deracemization Enabled by Excited-State Electron Transfer. Science 2019, 366, 364–369. DOI: 10.1126/science.aay2204
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- Rein, J.; Rozema, S. D.; Langner, O. C.; Zacate, S. B.; Hardy, M. A.; Siu, J. C.; Mercado, B. Q.; Sigman, M. S.; Miller, S. J.; Lin, S. Generality-Oriented Optimization of Enantioselective Aminoxyl Radical Catalysis. Science 2023, 380, 706–712. DOI: 10.1126/science.adf6177
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- Reviews: (a) Davie, E. A. C.; Mennen, S. M.; Xu, Y.; Miller, S. J. Chem. Rev. 2007, 107, 5759–5812. (b) Metrano, A. J.; Chinn, A. J.; Shugrue, C. R.; Stone, E. A.; Kim, B.; Miller, S. J. Chem. Rev. 2020, 120, 11479–11615. DOI: 10.1021/acs.chemrev.0c00523
- 注: 研究室の経歴では2023年就任。イェール大学化学科による発表は2024年2月9日付(Yale Chemistry)。
- 注: 名古屋大学の講演者一覧では第5回(2008年)。研究室の経歴では2009年とされている(名古屋大学 ITbM)。
- 注: 主催の ACS メリーランド支部は「2022年の賞」とし、受賞講演(第76回 Remsen Memorial Lecture)は2023年10月にジョンズ・ホプキンス大学で行われた。研究室の経歴では2023年とされている(Yale Chemistry)。
関連リンク
- The Miller Group(イェール大学)
- Scott J. Miller – Yale Department of Chemistry
- Scott J. Miller – National Academy of Sciences
- ケムステ内:
- デヴィッド・エヴァンス David A. Evans
- ロバート・グラブス Robert H. Grubbs
- デイヴィッド・マクミラン David W. C. MacMillan
- マシュー・シグマン Matthew S. Sigman
- フィル・バラン Phil S. Baran
- 有機触媒 / Organocatalyst
- 光学分割 / optical resolution
- 平田義正メモリアルレクチャー賞(平田賞)
- アメリカ化学会創造的有機合成化学賞・受賞者一覧
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