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イグノーベル化学賞2018「汚れ洗浄剤としてヒトの唾液はどれほど有効か?」

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Tshozoです。今年もIg Nobel賞、発表されましたね。色々と興味深い発表が続く中、NHKで放送された医学賞のアレを見ながら臓物の特定部が刺激さるという経験したことのない奇妙な感覚に襲われたことを告白いたします。具体的には人類史上最高のバンドのひとつと言われるQueenのFreddie Mercury、彼を見て心の底から素晴らしいと思う一方で奇妙な感情が発生するのと同じ感覚、と申し上げればおわかりいただけるでしょうか。

で、一方化学部門。残念ながらあちこちのTVを観ても採り上げが少なかったのもあり、詳報を書いてみます。お付き合いください。

受賞対象 概要

受賞対象は、上記のように英国の古豪出版社であるTaylor & Francis から出ていた

「Human Saliva as a Cleaning Agent for Dirty Surfaces」
Paula M. S. Romão et al., Studies in Conservation 1990, 35, 153-155. 論文リンク

・・・という論文です。直訳すると「汚れ表面に対する洗浄剤としての唾液」。そしてその結論は「美術品、特に絵具類に対する唾液の洗浄能力・バランス力は有機溶媒のそれと比べて何ら劣ることはなく、むしろ優れている」というものでした。美術品や歴史的に重要な文化遺産の保護のため原画や作品を傷めずにどういった洗浄剤を使えばよいのか、という問題意識がその背景にあります。本論文が載った「Studies in Conservation」はこちらのリンクをみると

” “Studies in Conservation” is the premier international peer-reviewed journal for the conservation of historic and artistic works. The intended readership includes the conservation professional in the broadest sense of the term: practising conservators of all types of object, conservation, heritage and museum scientists, collection or conservation managers, teachers and students of conservation, and academic researchers in the subject areas of arts, archaeology, the built heritage, materials history, art technological research and material culture.”

【大意】⇒「本誌は歴史的・美術的作品保全のため査読付き論文で、・・・美術、考古学、文化遺産、歴史的遺産の研究および保全に資するスタッフや美術館の学芸員、教師や学生などが読者の対象である」

とあり、美術品状態を保全に関する専門誌です。欧州ではこうした分野の材料開発はかなり進んでおり、例えばACIEなどを見ていると時々美術品に関する論文が載ることがあり、アートに対し科学が貢献していることを示す場が成立している点は非常に羨ましい限りです(昨今こういうことが起きることを考えると、欧州でも財政的に文化財保護がやりにくくなっているんではという懸念もありますが・・・)。ということで論文を眺めてみましょう。

29:00あたりからPaula女史のコメンタリービデオがみれます
「…でも、キッチンでは使わないでね!」とのコメントが・・・

・・・つまり、↑こういうマネをしないで、というのが今回の主張
漫画表現を根本から再構築した歴史的名著「えの素」より引用(作品リンク・作者は榎本俊二氏)[文献1]

論文詳細

昔から絵画などの美術品の汚れの洗浄に唾液が習慣的に使われてきた」という点が何故なのか、を科学的に明らかにしたのが要旨になります。まず唾液の有効性を示すところから始まる本件ですが、その結果を示す論文の表が少し見にくかったので↓のように書き直してみました。

「やっぱり唾液がナンバーワン!」的な結果になりました
なお絵具に対する評価は18世紀の多色塗り彫刻品に対して実施したもの

なお唾液はテンペラの赤・青に対して顔料をも落としてしまうため、△扱いとしたそうです。もちろんこの①定性的な比較だけでなく、②イオンクロマトグラフィで唾液中の成分分析と分画とを行い、③その分画した酵素成分を塩析済の唾液など混合し各酵素の洗浄力を確かめ、④薄層クロマトグラフィを用いた汚れ成分の分析で汚れの除去機構を推定する、ときちんと科学的手法を持ち込んで検証を行っています。

そしてまとめとしては、「α-アミラーゼを溶かした液が唾液と同様の効果を示したことから、唾液中のアミラーゼ類がその汚れを除去する主要成分であり、汚れの主成分である脂質などに対しても触媒的作用・洗浄作用を示していると思われる」としています。論文としては4ページ弱でサラッと読める内容になっているので、興味がある方は一度見てみてはいかがでしょうか。

ただ、唾液内にはアミラーゼ以外にも酵素っぽいものが結構な量含まれているため、きちんと分画した結果であるとはいえ今回の論文においてアミラーゼだけが主役か、というのは個人的に少し疑問が残ります(下図)。汚れ成分がデンプン質ではなく脂質が主成分であったのにアミラーゼが有効であるとする点も若干ちぐはぐ感が残っており、Supplymental Informationが無かったのでその詳細を確かめることは出来ないのですが・・・どなたか、ご自分の唾液で追試してみませんか?

一般的な唾液の成分構成[文献5]

蛇足:αアミラーゼとは

論文において唾液の洗浄性を向上することに寄与しているとされた主材料であるアミラーゼですが、これは唾液や膵液などに含まれるデンプン消化酵素のことで様々なタイプがあり、その詳細な分子構造も既に解明されています。

アミラーゼの代表格”α-アミラーゼ”の3D構造

こうした生物系触媒(Biological Catalyst)は”Enzyme”と呼ばれ、構造の整合する特定の分子を分解したり変性したりできることがわかっていまして、たとえばα-アミラーゼはデンプンの特定部位(下図)を切断することができ、当然ながらそのほか類似物への親和性も良いことから、汚れの主成分であるリン脂質(phospholipids)や脂肪酸(fatty acids)に対する洗浄剤として適していたことが推察されます。

α-アミラーゼはデンプンの特定部位(1,4-グリコシド結合のみ)を
切断できることが分かっている[文献4]

一般にEnzymeは巨大なタンパク質から成っているにも関わらず何故上図のような作用を示すのか、本当に不思議ですね。明治の初期にかの高峰譲吉による「タカジアスターゼ」が発明されましたがその材料にはアミラーゼ類が含まれますし、林原研究所の丸田研究員が見つけたトレハロースの製造にもこうした生物由来のデンプン質を変性/加水分解できる酵素が使用されていますから、産業とも大きく結びついている分野でもあります。また消化酵素とは異なりますが以前から何回か採り上げているニトロゲナーゼもその一種ですね。生体内でこれらの巨大分子が実際にどう動いているのかを明らかにすることは非常に難しいと思われますが、抽出してその作用を調べて有用化することは有史以来続いており、まったくナマモノの不思議さは尽きることがないと驚かされます。

総評と個人的興味

以上見てみると、誤解を恐れずに言えば比較的地味な内容で、メディア受けし辛い内容であったのは否めない気がします。あちこちでも扱いが比較的軽いのはそのせいであったのでしょう。

あと実はこのアミラーゼ、セルラーゼなどの生物由来かつ生分解性の消化酵素が洗浄剤として使用できる方向性は、この研究がおこなわれる以前から既に示されていたためというのもあると思います。特に工業的洗剤には相当前から使用されていましたが、生活の中に入ってきたその先駆けが1987年に花王㈱から発売された「アタック」。同製品の開発に携わった伊藤進 氏による記述を見てみると[文献2][文献3]、今回の論文で明らかになったアミラーゼと同様の酵素であるアルカリ化セルラーゼ、プロテアーゼ(いずれも菌類由来)が優秀な洗剤として発売当初から配合されていたことが示されています。この製品は一般向けバイオ系洗剤の幕開けでもあったことを強く覚えています。

アミラーゼとは異なるが、消化酵素セルラーゼを応用した洗剤「アタック」
投入洗剤量が少なくなることで大きな話題を呼んだ 花王㈱のCMから引用(リンク)

このため時系列的には本論文の結果は「・・・の作用を初めて明らかにした」というものではないため、他のものに比べてややインパクトに欠けるところはあります。ですがほとんどの人間は見過ごしてしまうような職人のテクニックに対して好奇心をはたらかせてその機構を解明したところに本賞の意義があり、他の分野と同等に賞賛されるべきものであるということは繰り返し強調しておきたいと思う次第です。

なお筆者の一番の興味は当然ながら「この実験に用いられたのが一体誰の唾液だったのか」という点です。そこらのおっさん研究者の唾液か少年の唾液か学生の唾液か、又は実際にこの論文を記述されたPaula女史のものであるかで根本的なところが大幅に変化し得るという点は避けがたい道徳的要請であることは否めないでしょう。残念ながらその詳細について同論文には書かれておらず、動画を見てもコメントが何もなかったのはこの論文における本質的な欠陥であると感じざるを得ない、というのが筆者の主観的な感想であります。

・・・という点に聊かのもどかしさを感じつつ、今回はこんなところで。

参考文献

  1. “えの素” 榎本俊二, 1巻、2巻、5巻 リンク
  2. “バイオ洗剤とスクリーニング”, 伊藤進, 生物工学基礎講座, 2012年 リンク
  3. “洗剤用アルカリセルラーゼの開発” 伊藤進 他, 日本農芸化学誌, 1990年, リンク
  4. “Salivary amylase – The enzyme of unspecialized euryphagous aniemals”, Carolin Boehlke et al., Archives of oral biology, 60, 1162–1176
  5. “Composition and Functions of Saliva”, lecture notes by Dr. Dennis E. Lopatin ,  University of Mischigan, School of Dentistry リンク

関連書籍

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メーカ開発経験者(電気)。56歳。コンピュータを電算機と呼ぶ程度の老人。クラウジウスの論文から化学の世界に入る。ショーペンハウアーが嫌い。

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