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化学者のつぶやき

「不斉有機触媒の未踏課題に挑戦する」—マックス・プランク石炭化学研究所・List研より

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「ケムステ海外研究記」の第18回目は、マックス・プランク石炭化学研究所(Benjamin List研)大学院生・辻 信弥さんにお願いしました。辻さんは筆者(副代表)のドイツ訪問時にお会いする機会を得て以来の知人ですが、先日Science誌に見事な論文を発表されたことを機に、本稿を1年越しで執筆頂けることになりました。ちなみに本ウェブサイトでも4年前に別記事でとりあげさせていただいています(記事:SciFinder Future Leaders in Chemistry参加のススメ)。今後ますますの活躍が期待できる超若手研究者の一人といえます。ドイツの最先端研究環境に浸る辻さんは、どのような海外生活を送られているのでしょうか?是非ご覧いただければと思います。

Q1. 留学先では、どんな研究をしていますか?

滞在先のList研究室では主にキラルブレンステッド酸を用いた反応、およびそれらをキラルカウンターアニオンとして用いたルイス酸触媒の研究をしています。秋山・寺田触媒を始めとしたキラルリン酸はこれまでにも様々な不斉反応に幅広く用いられてきましたが、より高い酸性度を持つDisulfonimide (DSI)[1]、二量体構造を持つImidodiphosphate (IDP)[2]、またこの二つのデザインを組み合わせたImidodiphosphrimidate (IDPi)[3]等の新たな触媒およびそれらを用いた反応を開発してきました (Fig. 1A)。
私は主にキラルブレンステッド酸を用いたオレフィンのエナンチオ選択的ヒドロ官能基化反応について研究しています。これまでのキラルブレンステッド酸を用いた不斉反応は主にイミンやカルボニルといったルイス塩基性の強い求電子種に限られており、より反応性の低いオレフィンを活性化するには更に酸性度が高く、かつ適当な嵩高さを持つ触媒の開発が必要でした。中でも特にオレフィンの不斉ヒドロアルコキシ化は遷移金属類や酵素などを用いても選択性や基質適用範囲の面で未達成の課題であり、この問題をいかに解決するかに着目して研究を進めました。幸いにも最適な触媒を発見することが出来、高選択的かつ高収率で目的の反応を達成することが出来ました (fig. 1B)[4]。現在は分子間反応を含めた他の不斉反応へと応用・展開しています。

Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行なう選択をしたのですか?

日本で博士号を取得しポスドクとして海外へ行くのが一般的だとは思うのですが、チャンスがあるなら博士課程から行った方がきっと面白いだろうなぁ、と思ったのが一番の理由です。どうやら給料も貰えるみたいだし、海外で生活してみたかったし、何より人生一回きりだからやりたい事をやっておかねば、と考えていました。
行き先、という点で当初はアメリカに行こうと考えていたのですが、1. TOEFLやGRE, GRE subjectといった試験を受けなければいけないこと 2. そしてそれらで高得点をとらなければいけないこと 3. 修士卒でも学部卒と同等に扱われ、入学してから授業を受けなければいけないこと、など様々な問題に直面しました。試験勉強より実験がしたかった当時の私は、その時点で欧州での博士課程の可能性を考え始めました。
そんな折にList教授が講演のため来日し、偶然その学会のスタッフだった私はこれ幸いとばかりに話しかけ、受け入れ可能性を探ってみました。返事はなかなかポジティブで、今こうやって話しているからTOEFLなどの試験は別にいらない、それではMotivation Letter, CV, 研究概要を送ってくれ、との事でした。その後のスカイプ面接を経て、無事合格となりました。ちなみに応募から返事もなく数ヶ月待ち、諦め半分で催促のメールを送ったらすぐに面談の知らせが届いたのですが、後々話してみればどうやらメールの送/受信エラーが原因だったようです。私ではないのですが、他の学生で3年連続応募した(そして最初の2年は届いていなかった)という人もいます。もし返事がなくても諦める前にもう一度トライしてみたら良いのかもしれません。

Benjamin List教授

Q3. 研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。

Q4でも書きますが、その分野をリードする研究室がどのような雰囲気で、一体何を考えて研究をすすめているのか、という事をその当事者として学べたことは自分にとってかけがえの無い経験だと思います。
またマックスプランク石炭化学研究所はMülheim an der Ruhrという小さな町にあるのですが、そのお陰で家賃などの費用は安いです。それでいてデュッセルドルフやケルン、ドルトムントといった都市へのアクセスも良いので、個人的には結構気に入っています。とりわけデュッセルドルフには欧州屈指の日本人コミュニティがあり、そういったところで研究者以外の人々と仲良くなれるのも良いところだと思います。

 

ドイツという国について言えば、欧州の大都市が列車や格安飛行機で数時間圏内という立地上の利点に加え、ビールやワインといった酒類、チーズやバターなどの乳製品が美味しくて安いのが個人的にはかなり嬉しいです。また人々も良い意味で個人主義的であまり他人に興味がない印象なので(笑)、なかなか過ごしやすいです。

ジグナル・イドゥナ・パルク(ドルトムント)にて。近くに幾つもサッカースタジアムがあるのも良かったです。

 

悪い点というかは別として、海外での博士課程という選択肢が一般的では無いが故にロールモデルも少なく、その後の進路のイメージは立てづらいかもしれません。実際には欧州の製薬会社や化学会社での就活をすることも出来ますし、ポスドクで欧州または米国など他の国に行くことも出来ます。勿論日本に戻って就職活動やポスドクを含むアカデミックポジションを探すことも出来ますし、その経験を生かして別の仕事を探すことも可能でしょう。結局どこにいても同じですが、自分の強みは何か、そして自分のキャリアにとってどういった選択肢が良いのかを見極め、主体的に動くことが必要なのかもしれません。
そしてもう一つ言うならば、日本語での研究概要や申請書を書く機会が無いことでしょうか。日本で大学院生をするならば(おそらく)避けて通れない学振申請書や学会の要旨作成は重要なトレーニングなのですが、海外で大学院生をして且つまた日本に戻りたいならば、日本語での文章作成能力は自分自身でカバーしてやる必要があると思います。

Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?

マックスプランク石炭化学研究所は半分程度、もしくはそれ以上が非ドイツ人であるため、研究所内は基本的に全て英語でOKです。
グループにはそれぞれテクニシャンが数人おり、NMRやHPLCといった機器のメンテナンスから既知触媒の大量合成まで、様々な仕事をしてくれるのも助かります。また研究所内にはNMR、MS、GC、HPLC専用の部局があり、時間はかかりますが複雑な構造解析やラセミ体の光学分割などを彼らに頼むことも可能です。
また同研究所内にはFürstner教授Ritter教授、Schüth教授、Neese教授といった教授陣に加えてMorandi博士などの若手PIも在籍しており、研究レベルも非常に高いです。
研究所という特性上、研究室のメンバーも博士課程の学生とポスドクがそれぞれ10人程度という構成です。国籍やバックグラウンドも様々で、議論や相談がとてもしやすい雰囲気ですし、非常に国際的で楽しいです。日常的に自分と同レベル以上の研究者が周りに沢山いる、という環境は刺激的で学ぶことも多く、非常にありがたいです。
List教授はとても気さくですが、その一方で議論すると化学への熱意が伝わってきます。面白い研究をしたいという思いが非常に強く、所謂銅鉄研究のようなものには殆ど興味を示しません。”What we engineer is not the substrate, but the catalyst!”とは彼が口を酸っぱくして言うフレーズです。選択性が向上しないときに基質にトリックを仕込んで90% eeを達成するのは得てして簡単なのですが、結局それでは本質的に問題を解決していない、というのが彼の意見です(たまに例外もありますが)。また論文投稿先のおよその線引きとしては、Angew. Chem.もしくはJACSに通らなければSynlett (Benがエディターなので)、という感じでしょうか。
しかしながら研究室にコアタイムやマグネットボードのようなものは無く、基本的にどれだけ実験するかはその学生次第、という感じです。実働時間としては、9–19時くらいが一番多いでしょうか。夜や土日もチラホラ学生やポスドクはいますが、安全上の理由から一人での実験を厳しく禁じられているため、ただ長く働くよりもメリハリをつけて実験している人の方が多い印象を受けます。またドイツは日本と比べて祝日が少ないのですが、その代わりに年間20日間程度の有給休暇と年末のクリスマス休暇が貰えます。また博士課程の期間はPIによって異なりますが、List研では4年前後、と日本より少し長いです。

Benの50歳記念パーティーにて。AlumniやBenの家族も含めた沢山の人で祝いました。

Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。

月並みですが、やはり語学でしょうか。英語が話せないとどうしようもないので、出来るだけの準備はしました。それでもこちらに来たばかりの時は色々と大変でしたが・・・
ドイツ語も少しは勉強したのですが結局流暢に話せるレベルには程遠く、未だに微妙なレベルです。研究所内では英語のみで良いのですが、私生活も考えると少しはドイツ語を話せた方が便利だと思います。

クリスマスマーケットにて。筆者は帽子のみ写っています。

Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?

List研での生活で学んだ知識、研究姿勢、問題の解決方法、論文の書き方やレビュアーとのやりとり等は、今後の研究生活に直接的に生かされると思います。またこちらで出会った様々な人々とのつながりも大事にしていきたいと思っています。マックスプランク研究所の人々、欧州の研究者や訪問してきた日本人研究者の方々、更には現地在住の全く関係のない仕事の人まで、こちらで仲良くなった人々は私にとって何ものにも代えがたい財産です。

Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。

「海外で博士課程をする必要があるか」と聞かれれば、「別に必要ではない」と私は答えると思います。それは海外だから・日本だからという話ではなく、そもそも自分が何をしたいのかが重要であり、海外で研究をすること自体が目的では無い為です。しかしながら自分にとってその経験が重要となる、と自分の中で結論が出た際には行ってみたら良いと思いますし、その時にはおそらく周りが何を言おうとも既に行く準備を進めているでしょう。そして私個人としては、学位取得を目前にした今でも自分の決断は正しかったと思うし、この3年半の生活にもとても満足しています。
読者の方にはこういった選択肢が現実的にあること、それが普通の一学生であった私にも可能であったこと、そしてその選択もなかなか悪くないということが伝われば幸いです。

関連論文

  1. P. García-García, F. Lay, P. García-García, C. Rabalakos, B. List, Angew. Chem. Int. Ed. 2009, 48, 4363. DOI: 10.1002/anie.200901768
  2. I. Čoric, B. List, Nature 2012, 483, 315. DOI: 10.1038/nature10932
  3. P. S. J. Kaib, L. Schreyer, S. Lee, R. Properzi, B. List, Angew. Chem. Int. Ed. 2016, 55, 13200. DOI: 10.1002/anie.201607828
  4. N. Tsuji, J. L. Kennemur, T. Buyck, S. Lee, S. Prévost, P. S. J. Kaib, D. Bykov, C. Farès, B. List, Science 2018, 359, 1501. DOI: 10.1126/science.aaq0445

研究者の略歴

名前:辻 信弥
所属: Max-Planck-Institut für Kohlenforschung, Homogeneous catalysis (List group)
研究テーマ:嵩高いキラルブレンステッド酸を用いた立体選択的オレフィン活性化法の開発
海外留学歴: 3年半

cosine

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博士(薬学)。Chem-Station副代表。国立大学教員→国研研究員にクラスチェンジ。専門は有機合成化学、触媒化学、医薬化学、ペプチド/タンパク質化学。
関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。
素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

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