硤合憲三(そあい けんそう、1950年5月3日– )は、日本の有機化学者。東京理科大学名誉教授。自分自身を生み出す触媒反応(不斉自己触媒反応、硤合反応)を発見し、鏡像関係にある分子のわずかな偏りを、反応を繰り返すだけで一方だけの状態まで増やせることを示した。2026年10月、フランスのアンリ・カガン(Henri B. Kagan)とともにノーベル化学賞を受賞。
経歴
1974 東京大学理学部化学科 卒業
1976 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 修士課程修了
1979 同 博士課程修了、理学博士(指導教員: 向山光昭)
1979 日本学術振興会奨励研究員(東京大学理学部・向山研究室)
1979–1981 ノースカロライナ大学チャペルヒル校 博士研究員(受入教員: Ernest L. Eliel)
1981 東京理科大学理学部 専任講師
1986 同 助教授
1991 同 教授
2016 東京理科大学 嘱託教授
2017 東京理科大学 名誉教授(嘱託教授を兼ねる)
広島県出身[1]。博士課程では向山光昭のもとで、ピロリジン誘導体を配位子とする不斉合成反応の研究で学位を得た[2]。米国ノースカロライナ大学のE. L. Eliel研究室で博士研究員を務めたのち、1981年から東京理科大学に研究室を構えた[3]。以後40年以上にわたり、同大学で不斉合成と「キラリティーの起源」の研究を続けてきた。この間、パリ市立工業物理化学高等専門大学(ESPCI、2001年)、ストラスブール大学(2008年)、吉林大学(2010〜2015年)などで客員教授も務めている[3]。
受賞歴
1987 有機合成化学奨励賞(有機合成化学協会)
1999 日本化学会学術賞
2000 井上学術賞(井上科学振興財団)
2002 有機合成化学協会賞
2005 Chirality Medal
2007 文部科学大臣表彰 科学技術賞(研究部門)
2010 日本化学会賞
2012 紫綬褒章
2015 名誉博士(パンノニア大学、ハンガリー)
2016 東レ科学技術賞
2023 野依賞(有機合成化学協会 高砂香料国際賞)
2023 瑞宝中綬章
2025 日本学士院賞
2025 有機合成化学特別賞
2026 ノーベル化学賞
2026年のノーベル化学賞の受賞理由は「不斉有機合成における非線形効果および自己触媒作用の発見」で、アンリ・カガンとの共同受賞である[1,4]。カガンは1986年、触媒の鏡像体の偏りと生成物の偏りが比例しない「非線形効果」を報告した[5]。硤合はこの効果を、生成物自身が触媒となる系と組み合わせ、偏りが反応のたびに増幅されることを実証した[6]。日本人の化学賞受賞は前年の北川進に続き10人目となる[1]。国内では、2016年度の東レ科学技術賞、2025年の日本学士院賞、2025年度の有機合成化学特別賞が、いずれも不斉自己触媒反応の発見とホモキラリティー(生体分子が一方の鏡像体にそろっていること)の起源の研究に贈られている[7,8,9]。2026年には有機合成化学協会と日本化学会の名誉会員にも推されている[3]。
研究概要
不斉自己触媒反応の発見
右手と左手のように、重ねられない鏡像の関係にある分子がある。生物のアミノ酸や糖はほぼ片方の形だけでできているが、ふつうの化学反応では両方が半分ずつできる。

硤合は、できた分子がそのまま「自分と同じ形」をつくる触媒として働く反応を見つけた。最初の偏りがごくわずかでも、この反応を繰り返すと、ほぼ片方だけの状態にまで増えていく。生命がなぜ片方の形を選んだのかという古い問いに、化学反応で答えの筋道を示した。鏡像体どうしは性質が異なることがある。たとえば香料成分のカルボンは、一方がスペアミント、もう一方がキャラウェイの香りをもつ。医薬品でも、目的の鏡像体だけをつくり分ける技術が欠かせない[10]。硤合の研究は、有機亜鉛試薬を使う不斉合成から始まり、自己触媒による不斉増幅の発見を経て、「最初のわずかな偏りはどこから来たのか」という起源の問題へと広がっていった。

有機亜鉛の不斉付加から「自分をつくる触媒」へ
東京理科大学に着任した1980年代、硤合はケトンの不斉還元や、アルデヒドへの有機亜鉛試薬の不斉付加を研究していた[11]。キラルなアミノアルコールを触媒にすると、ジアルキル亜鉛がアルデヒドに鏡像体を選んで付加する。この反応の生成物もまたキラルなアルコールである。ここで硤合は、「不斉触媒が自分と同じ構造の生成物をつくれば、生成物がそのまま次の触媒になるのでは?」と考えた[11]。ふつうの不斉合成では、触媒と生成物は別の分子で、触媒は回収して分ける必要がある。生成物が触媒になれば、反応は自分自身を複製するように進む。
硤合反応の発見(1990・1995年)
1990年、ピリジン環をもつアルコール(ピリジルアルカノール)で、生成物が自分と同じ鏡像体の生成を促す不斉自己触媒作用を初めて見いだした[12]。このときの選択性は小さかったが、構造を変えながら探索を続け、1995年にピリミジン-5-カルバルデヒドとジイソプロピル亜鉛の反応で、決定的な系にたどり着いた[13]。生成するピリミジルアルカノールの亜鉛アルコキシドが、自分と同じ鏡像体を優先して生み出す。しかも、触媒のエナンチオマー過剰率(ee、片方の鏡像体がどれだけ多いかの指標)より、生成物のeeのほうが高くなる。翌年には、ピリミジン環の2位にアルキニル基をもつ基質で、さらに高い選択性が得られた[14]。なお、1995年の Nature 論文は、のちに同誌の編集者から、1950〜2000年に同誌に載った化学論文のうち特に刺激的な35本の一つに選ばれている[3]。
偏りが増える理由は、カガンの非線形効果と結びつけて理解できる。不斉触媒の分子どうしが集まるとき、同じ鏡像体どうしの集合体と、逆の鏡像体が混ざった集合体ができる。混ざった集合体の働きが弱いと、少ないほうの鏡像体は多いほうと組になって働きの弱い集合体に取り込まれ、余った多数派が反応を担う。その結果、触媒のeeから比例計算で予想されるより高いeeの生成物ができる[5,15]。硤合反応では、この生成物が次の反応の触媒になるため、増えた偏りがそのまま次に引き継がれ、回を重ねるごとに積み上がる。

キラリティーの起源とつなぐ
増幅の仕組みがあれば、問題は「最初のわずかな偏りがどこから来たか」に移る。硤合らはこの問いに、引き金となるキラルな因子を次々に試すことで迫った。円偏光で一部を分解したロイシン(偏りは2% ee未満)を加えると、高い偏りの生成物が得られた[17]。円偏光をラセミ体のアルコールに直接当てても、光の回転方向に応じた鏡像体が得られる[18]。右水晶と左水晶の粉末を加えると、それぞれ逆の鏡像体が高い選択性で生じた[19]。
さらに、それ自体はキラルでない分子がつくるキラルな結晶(シトシンなど)も引き金になった[20]。炭素の同位体(¹²Cと¹³C)の違いだけでキラルになった分子でさえ、生成物の鏡像体を決めることを示した[21]。水素の同位体(重水素)[22]や酸素の同位体[23]の置換によるキラリティーでも、同じように引き金として働く。通常の分析ではほとんど区別できない小さな非対称が、この反応を通すと目に見える偏りになる。
キラルな物質なしで偏りが生まれる
2003年には、キラルな添加物をまったく加えずに反応を行い、生成物がR体かS体のどちらかに偏ることを報告した[24]。どちらに偏るかは実験ごとにほぼ半々で決まる。分子数の統計的なゆらぎで生じたごくわずかな差を、反応自身が増幅したと解釈できる。1953年にフランク(F. C. Frank)が理論として描いた「自己触媒による自発的な不斉の発生」[25]を、実際の化学反応で示したことになる。生物以外で一方の鏡像体だけを生み出した例として、ノーベル賞の評価でも中心に置かれた成果である[4]。
エピソード
- 研究の出発点は、「不斉触媒が自分と同じキラルな構造の生成物をつくれないか」という素朴な問いだったと、本人が日本学術振興会のエッセイで振り返っている。若手向けの研究費から始まり、のちに大型の研究費で起源の研究を大規模に進められたことが支えになったという[11]。
- 本人はキラリティーの起源を、160年以上解かれていない謎だと表現している。この謎への関心が、自己触媒の研究を起源の問題へ広げる原動力になったという[11]。
- 研究者になってから、研究費(科研費)にはほぼ毎年応募してきた。期間が翌年度まで続く課題を抱えている年を除き、応募を欠かさなかったと振り返っている[11]。
- ノーベル賞の受賞連絡の電話は、夕方、自宅近くのスーパーマーケットで買い物をしているときに受けた[28]。
- 2026年10月7日の会見では、受賞を人生で最も興奮する日だと喜んだ[1]。これまでの研究を、ヘッドランプだけを頼りに暗い大地を歩くようなものだったと表現し、まだ説明できないことが多いとも語った[28]。
- 同じ会見で、尊敬するカガンと受賞を分かち合えることを特に喜んだ。化学賞は実用面で評価されがちだが、応用だけが研究の価値ではないとの考えも示した[28]。
- ノーベル委員会の委員ペーター・ソムファイ(Peter Somfai)は、この研究をおそらく有機化学で最もクールな実験だと評した[10]。
関連文献&注釈
- 注: JSTサイエンスポータル「ノーベル化学賞に硤合憲三氏とカガン氏」2026年10月7日. 記事
- 注: 国立国会図書館サーチ「ピロリジン誘導体を配位子とする不斉合成反応の研究」(硤合憲三、東京大学 博士論文、1979年). 書誌
- 注: 硤合研究室「プロフィール」「Professor’s Profile」「Soai Research Work」(東京理科大学). プロフィール(日本語) / Profile(英語) / 研究紹介PDF
- 注: 受賞理由の英文は “for the discovery of nonlinear effects and autocatalysis in asymmetric organic synthesis”(報道による。ノーベル財団のページは未確認)。委員長リンケの発言も含む. Al Jazeera, 2026年10月7日 / Interesting Engineering, 2026年10月7日
- Puchot, C.; Samuel, O.; Duñach, E.; Zhao, S.; Agami, C.; Kagan, H. B. J. Am. Chem. Soc. 1986, 108, 2353–2357. DOI: 10.1021/ja00269a036
- 注: ケムステ「【速報】2026年のノーベル化学賞は『不斉有機合成における非線形効果および自己触媒作用の発見』へ」. 記事
- 注: 東レ科学振興会「東レ科学技術賞 受賞者一覧」(60周年記念誌、第57回・2016年度). PDF
- 注: 日本学士院「日本学士院賞授賞の決定について」2025年3月12日(授賞題目「不斉自己触媒反応の発見とホモキラリティーの成立起源に関する研究」). 記事
- 注: 有機合成化学協会「有機合成化学特別賞」受賞者一覧(2025年度・第42回). ページ
- 注: AP通信配信(NPR系列局 KPCW 掲載), 2026年10月7日. 記事
- 注: 硤合憲三による寄稿、日本学術振興会 科研費エッセイ No. 83(英語版). PDF
- Soai, K.; Niwa, S.; Hori, H. J. Chem. Soc., Chem. Commun. 1990, 982–983.
- Soai, K.; Shibata, T.; Morioka, H.; Choji, K. Nature 1995, 378, 767–768. DOI: 10.1038/378767a0
- Shibata, T.; Morioka, H.; Hayase, T.; Choji, K.; Soai, K. J. Am. Chem. Soc. 1996, 118, 471–472.
- Athavale, S. V.; Simon, A.; Houk, K. N.; Denmark, S. E. Nat. Chem. 2020, 12, 412–423. DOI: 10.1038/s41557-020-0421-8
- Sato, I.; Urabe, H.; Ishiguro, S.; Shibata, T.; Soai, K. Angew. Chem. Int. Ed. 2003, 42, 315–317.
- Shibata, T.; Yamamoto, J.; Matsumoto, N.; Yonekubo, S.; Osanai, S.; Soai, K. J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 12157–12158.
- Kawasaki, T.; Sato, M.; Ishiguro, S.; Saito, T.; Morishita, Y.; Sato, I.; Nishino, H.; Inoue, Y.; Soai, K. J. Am. Chem. Soc. 2005, 127, 3274–3275.
- Soai, K.; Osanai, S.; Kadowaki, K.; Yonekubo, S.; Shibata, T.; Sato, I. J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 11235–11236.
- Kawasaki, T.; Hakoda, Y.; Mineki, H.; Suzuki, K.; Soai, K. J. Am. Chem. Soc. 2010, 132, 2874–2875.
- Kawasaki, T.; Matsumura, Y.; Tsutsumi, T.; Suzuki, K.; Ito, M.; Soai, K. Science 2009, 324, 492–495.
- Sato, I.; Omiya, D.; Saito, T.; Soai, K. J. Am. Chem. Soc. 2000, 122, 11739–11740.
- Kawasaki, T.; Okano, Y.; Suzuki, E.; Takano, S.; Oji, S.; Soai, K. Angew. Chem. Int. Ed. 2011, 50, 8131–8133.
- Soai, K.; Sato, I.; Shibata, T. et al. Tetrahedron: Asymmetry 2003, 14, 185–188.
- Frank, F. C. Biochim. Biophys. Acta 1953, 11, 459–463.
- Trapp, O. Front. Chem. 2020, 8, 615800. DOI: 10.3389/fchem.2020.615800
- Möhler, P.; Betzenbichler, G.; Huber, L.; Siegle, A. F.; Trapp, O. Nat. Commun. 2025, 16. DOI: 10.1038/s41467-025-62591-3
- 注: ニューズウィーク日本版(2026年10月、会見の報道). 記事
- Soai, K.; Kawasaki, T.; Matsumoto, A., Eds. Asymmetric Autocatalysis: The Soai Reaction; Royal Society of Chemistry, 2022. ISBN 978-1-83916-261-9.
- Matsumoto, A.; Tateishi, D.; Nakajima, T.; Kurosaki, S.; Ogawa, T.; Kawasaki, T.; Soai, K. Chirality 2024, 36, e23617. DOI: 10.1002/chir.23617
- 注: 川﨑研究室(東京理科大学)業績リスト。Tetrahedron 2024, 152, 133835(o-テルフェニル類のキラル結晶を引き金とする不斉自己触媒)、『現代化学』2025, No. 654, 55–60(総説「不斉自己触媒反応で迫る生命のホモキラリティの起源」). Publications
関連書籍
Asymmetric Autocatalysis: The Soai Reaction (Issn)
関連リンク
- The Soai Research Group(東京理科大学)
- Professor’s Profile(硤合研究室)
- 日本学士院賞 受賞のお知らせ(東京理科大学、2025年3月)
- 日本学士院賞 授賞の決定(日本学士院、2025年3月)
- 川﨑研究室(東京理科大学)
- 硤合不斉自己触媒反応 Soai Asymmetric Autocatalysis(ケムステ ODOS)
- 有機亜鉛試薬のアルデヒドへの不斉1,2-付加(ケムステ ODOS)
- アンリ・カガン Henri B. Kagan(ケムステ 化学者DB)
- 不斉触媒(ケムステ 化学用語DB)
- 【速報】2026年のノーベル化学賞(ケムステ)
- Donna Blackmond 教授インタビュー(ケムステ)
- ロータリーエバポレーターとホモキラリティー(ケムステ)
- キラル情報を保存した不斉結晶(ケムステ)
- 2021年ノーベル化学賞 不斉有機触媒(ケムステ)
この化学者についてもっと知りたい?
現役の研究者・学生が集まる ケムステSlack(無料) で聞いてみませんか?



































