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化学者のつぶやき

「ヨーロッパで修士号と博士号を取得する」 ―ETH Zürichより―

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第37回目のケムステ海外研究記は2017年に修士の学位をETH Zurichで取得し、現在はPh.D.の学生として同じチューリッヒ州内のEmpaという研究機関で働いておられる朝倉 亮さんにお願いしました。今回はスイスのマスタープログラムの仕組みとアプライ方法や修士課程の様子、さらにヨーロッパに留学した経緯やスイスでの生活について存分に語っていただきますので、どうぞ最後までお付き合いよろしくお願いします。

Q1. なぜ日本ではなく、海外でMaster of ScienceMScを取得する決断をしたのですか

端的に言うと、海外で英語で蓄電池の研究をしてPh.D.を取ろうと考えていたからです。まず学部時代に、アメリカ大学院のPh.D.プログラムに進学・卒業された方にお会いする機会があり、学部卒で海外大学院へ進学する選択肢があるということに気付かされました。自分は高校卒業後に地方から東京に来た際に視野が広がった経験があったので、同じようにもっと視野を広げて日本を外から見てみたい、またどのみち英語で論文を書いて学会で発表するならば日々の研究から英語で取り組むのもいいかも、などと思い大学院正規留学を意識するようになりました。ただ当時は選択肢の1つとして漠然と考えていただけでしたが、次第に今やらないと後悔すると思うようになり、海外大学院出願を決意しました(自分が地元で東大受験を決断したときと似た心境だったと思います)。

大学入学の春に東日本大震災や計画停電などのエネルギー危機を経験したこともあり、エネルギー変換・貯蔵技術に興味があったので、学部では応用化学を専攻し、卒業論文ではマグネシウム二次電池正極材料についての研究をしていました。また出願先も蓄電池の研究ができるところという基準で決めました。学部4年生のときにアメリカ大学院の複数のPh.D.プログラムと、スイスのチューリヒにあるETH Zurich の(日本の修士課程に相当する)MScプログラムに出願し、結果カリフォルニア大学サンディエゴ校とETH Zurichからオファーを頂くことができました。前者は修士博士一貫のPh.D.プログラムで、かつTAをあてがってもらったこともあり金銭的な負担はなかったのですが、自分のやりたい研究をできるのはどちらかと悩んだ末に、最終的にETH Zurichへの進学を決断しました。もともとPh.D.を取得するつもりで海外大学院に出願していたので、ETH Zurichに進学した際にもPh.D.まで進学することを最初から視野に入れていました。

Q2. MScプログラムへのアプライはどのようなスケジュールでどのように行いましたか?

ETH Zurichの化学系の修士のプログラムはこちらで確認できます。ざっくりいうと化学、化学工学、薬学専攻があり、プログラムは全て英語です(学部との共通科目の場合、まれに一部ドイツ語の授業もあります)。他専攻は50人以上いるようですが、自分のいたChemical and Bioengineering専攻は20人前後で和気あいあいとしていました。

出願プロセスは基本的にアメリカのPh.D.プログラムと同様だと考えてもらっていいので、こちらなどが参考になると思います。出願に必要な書類は、英語能力試験(TOEFL iBT or IELTS)、出願フォーム、履歴書、成績証明書、志望理由書、推薦状などです。応募の詳細(例えばこちら)は専攻によって千差万別なので、必ず自分で確認しましょう。他の出願書類に専念するため、英語能力試験は要求スコアをできるだけ早く(できればB4の4月までに)取るに越したことはないです。また出願フォームに大学で今まで履修した科目とその内容を英語で逐一記述する項目があるので、B4の12月の出願〆切前に余裕をもって準備することをおすすめします(シラバスが日本語しか存在しない場合、自分で英語でまとめる必要があります。)。

私の場合、履歴書や志望理由書はとある出願対策講座に通いつつ、数ヶ月かけて留学経験者に添削していただきました。推薦状はアメリカ大学院と異なり1通のみで大丈夫だったので、卒業論文の指導教授にお願いしました。夏に東大の大学院入試も受け合格していましたが、最終的に留学の意思にご理解をいただき、B4の秋から冬にかけて推薦状を準備していただきました。GREはRecommendedとなっており必須ではありませんでしたが、GRE Generalを受けてあったので一応提出しました。また出願後に面接などはありませんでした。合格通知を受け取ったのがB4の2月で(時期は人によりバラバラだそうです)、8月に渡欧し、入学しました。

Q3. スイスへ渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。

入学許可の連絡をもらってから、留学生向けの入学手続きに関する丁寧な説明書を受け取っていたこともあり、大きなトラブルはありませんでした。ありがたいことに日本人はスイスでの長期滞在にあたりビザが必要ないので、現地に着いてから滞在許可証を取得するだけで済みます。またチューリヒは住む場所を見つけることが(コネなしでは)非常に難しいのですが幸い大学の留学生向けの学生寮を事前にオンラインで確保することができました。入学直前の時期になると、学生寮が埋まりキャンセル待ちになってしまうそうなので、早め早めに動きましょう。ただ入学手続きにおいて、高校と大学の卒業証書の原本と翻訳を国際郵便で送らければならず、進学先の事務局がその翻訳に納得するまで数ヶ月間もかかったときはさすがにフラストレーションが溜まりました。進学前には研究やTAの傍らドイツ語を少しだけ勉強していましたが、今思えばあの時期にもっと英会話と化学工学の勉強をやっていたら、留学最初の1学期がもっとラクになっていたと思います。

Q4.スイスでの修士プログラムを通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。

<良かったこと>

修士課程のうちに、授業に加えて複数の研究プロジェクトの他、ケーススタディや長期有給インターンシップなど、いろいろな経験ができることです。所属学科の必修科目や限定選択科目ももちろんありますが、他学科の科目が気軽に履修しやすく、また学生の自主性が尊重されているので、自発的に考え行動すればとても有意義な修士課程になると思います。自分も機械系学科などのエネルギー工学関連の授業を履修したり、スイス人の知り合いづてで自発的にスイスのとある表面処理の会社で7ヶ月ほど長期インターンシップをしたりしていました。

また非常にインターナショナルな環境なので、身近な出来事からからふと考えさせられることがあったり日本の常識が通用しなかったりと毎日が刺激的です。留学生はスイスの隣国(ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス)を中心にヨーロッパ諸国からが多いですが、ヨーロッパ圏外からもインド系・中華系を中心に多種多様な学生が集まっています。またスイス人といっても母国語が違う地方から勉強しに来ている人や、外国にルーツがある人は非常に多いです。ちなみに自分の専攻のコンピュータルームでは(スイス)ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語が飛び交っていました。

授業の集合写真

<悪かったこと>

良かったこととの引き換えにもなりますが、修士課程のうちは日本と比べると研究に費やす時間があまり多くないです。自分の知る限りでは、日本の化学系の研究室は学部生と修士課程の学生がメインなので、修士課程に進学するとラボの運営にも携わるようになると思います。一方スイスでは(おそらく他のヨーロッパ諸国でも)、修士課程まで座学が多くラボでの研究トレーニング期間が短いこともあり、修士課程までの学生は一時的なメンバーで、博士課程からが正式なラボメンバーという印象を受けます。ですので修士課程のうちから研究に打ち込みたいという人にとっては、日本の大学院の修士課程はいいと思います。

Q5. ETHでの修士課程はどのようなシステムで、どのような授業を受講されていましたか?

基本的にETH Zurichの修士課程は90単位で、必修科目を含めて単位を取り切ればいつでも卒業できます。ひと学期の取得単位数の目安は30単位とされているので、最短で1年半で卒業できますが、多くの学生は興味のある科目や研究プロジェクトに余分に打ち込んだり、長期インターンシップをしたりするため、2年前後で卒業する学生が多い印象を受けます。面白いのが、修士論文(期間は約半年)は必修科目ですが必ずしも最後にやる必要がないので、2学期までに終わらせてしまっている人もいました。自分の所属していたChemical and Bioengineering専攻では、修士論文以外の必修科目は実験演習、学期プロジェクト1つ、ケーススタディ、4つのコア科目(プロセスデザイン、触媒、ポリマー、バイオエンジニアリング)で、残りは選択科目でした。ただカリキュラムは、学科や時代によって千差万別なので、興味がある人は自分で調べてみることをおすすめします(例えばこの専攻に限っても、現在は長期インターンシップが必修科目に追加されているようです)。

実験演習はトータルで二日間実験+レポートというセットを、学期中を通して週1回、計6つのラボでこなすというものでした(日本の学部の学生実験に似ています)。学期プロジェクトは1つのラボに数週間~数ヶ月滞在して研究を行うというものです(化学専攻では2つやることが必修だそうです。研究室ローテーションの一環です)。科目として終わったあとも長居して研究を続ける人もいます。ケーススタディは化学系企業から出されたシミュレーションに関する課題を3人1組で1週間かけて解いていき、最後に発表するというものでした。自分の専攻では、授業に関しては講義トータル90分+問題演習45分という形式が一般的で、期末試験は筆記試験よりも30分の口頭試験が多かったです。日本の大学と比べて1科目のカバー範囲が広く深く、期末試験が翌学期の開始前にあることが多いため、学生は1年中課題や試験勉強に明け暮れることになります。また日本の大学よりも試験の評価が厳しく、ちゃんと勉強をしていないと普通に不可になります。自分の場合は修士課程で専攻が変わったため(応用化学→化学工学)、化学工学の学部レベルの授業もいくつか追加で履修する必要があったのですが、こちらの方が内容が濃く大変だったのを覚えています。また1つの科目が複数の専攻向けに開講されていることが当たり前で、他学科の科目が気軽に履修しやすく、他専攻の学生と知り合う機会にもなります。

ちなみにETH Zurichの修士課程の学費は学科や国籍によらず一律で、体育館の使用料込みで日本の国立大学・大学院の3分の1未満です。(詳細はこちら

卒業式にて専攻の同期(一部)と

Q6. ETHでの修士課程はどのような研究をされていましたか?

進学前から希望していた、スイスの連邦立研究所の1つであるポール・シェーラー研究所(PSI)のElectrochemistry Laboratoryで研究をしていました。ボスのPetr NovákはETH Zurichの教授も兼任しています。念願の蓄電池材料の研究ができ、居心地もよかったので、学期プロジェクトと修士論文の両方をここで行いました。

Prof. Petr Novák

学期(セメスター)プロジェクトでは、リチウムイオン電池の新規負極材料の1つであるLi3VO4の性能評価と反応機構に関する研究を行いました。(詳細はこちら)リチウムイオン電池の負極材料というとグラファイト(黒鉛)が代表的ですが、このLi3VO4はグラファイトよりも電気を貯められる容量が大きいことから近年注目されています。その反面、電子伝導性が低いことから、固相合成後にカーボンと共にボールミル処理を行うことで、理論容量に近い性能を引き出すことに成功しました。またoperando X線回折法を用いて、初回充電時に反応中間体を伴う不可逆的な構造変化が起きていることを突き止めました。

Li3VO4の負極材料性能と初回充放電時の構造変化

修士論文では、リチウムイオン電池の代表的な正極材料の1つである LiNi0.80Co0.15Al0.05O2 (NCA)のナノ粒子化と表面コーティング、そしてその性能評価に関する研究を行いました[2]。この正極材料はパナソニック製のテスラ向けの電気自動車用リチウムイオン電池にも使われていますが、放電時の熱的・化学的安定性が課題となっています。それを克服するために、コロイド合成法を用いたNCAのナノ粒子化に成功し、またAl2O3で表面コーティングすることにより充放電サイクルの安定性向上を試み、ナノ粒子が通常のマイクロ粒子とは異なる充放電反応機構を示すことを明らかにしました。

コロイド合成法によるNCAのナノ粒子化と表面コーティング

学期プロジェクトも修士論文研究も、日ごろの指導はシニアサイエンティストの方にお世話になり、教授にはまとめのレポート・論文や口頭発表の際にご指導いただきました。決められたものをただ予定通りこなす学生実習とは異なり、日本でラボにいたときのように自分のペースで研究を進められたのがよかったです。また研究所では定期的に国内外の研究機関からゲストの研究者を呼びセミナーが開催されるのですが、そちらにも積極的に参加させていただきました。持ち前の諦めの悪さに加え、指導教官に恵まれたこともあり、幸い学期プロジェクトと修士論文の両方を投稿論文にまとめることができましたが、通常博士課程学生やポスドクの研究のお手伝いをすることが多いようです。

ラボの同じユニットメンバーと

Q7.スイスでの学生生活の雰囲気はどうですか?

日本の大学ほどサークル活動や部活動が盛んではなく、学部生も勉強でとても忙しいので、大学って勉強するところだったんだと1学期目に再認識させられましたが、ご近所のチューリヒ大学との共通の体育館が充実しており、指定された時間に行くと様々なスポーツを楽しむことができます。また学生自治会主催のイベントが頻繁にあり、季節に応じてチーズフォンデュディナーやグリューワイン(ホットワイン)スタンド、キャンパスを貸し切ったパーティーや駅伝大会(希望者制)もあります。また語学コースや学生寮も近隣の大学と共通で、交換留学(特にヨーロッパ内)も非常に盛んなので、様々なバックグラウンドや学年の人と交流する機会があります。博士課程からですと、どうしても人間関係が同じラボ内に偏りがちになるので、そういう意味ではスイスの修士課程と博士課程は、日本の学部と大学院以降のような違いがあると思います。自分が研究でお世話になったポール・シェーラー研究所(PSI)は、博士課程の学生や研究者がメインになりますので、もう少し落ち着いた雰囲気になります。

スイスは全般的に物価(特に肉と外食)が高いですが、野菜と果物は日本より安いと感じます。また前述の通り学費は日本より安く、家賃も大学の学生寮だと東京都心での一人暮らしよりも安いので、トータルの学費+生活費で比べると、自炊すれば都内にある国立大学の大学院修士課程とそこまで変わらないと思います

学生寮のメンバーと

【研究者のご略歴】

朝倉 亮

  • 2018-     Empa, Laboratory Materials for Energy Conversion & University of Geneva, Department of Physical Chemistry, PhD candidate in Chemistry
  • 2015-2017 ETH Zurich, Department of Chemistry and Applied Biosciences, MSc Chemical and Bioengineering
  • 2015          東京大学 工学系研究科応用化学専攻 中退
  • 2011-2015 東京大学 教養学部理科一類・工学部応用化学科
  • Empaでの研究テーマ:ホウ素系錯体水素化物を固体電解質に用いた全固体電池の開発(@Laboratory Materials for Energy Conversion)
  • ETH Zurich / PSIでの研究テーマ:リチウムイオン電池の正極・負極材料の開発と反応機構解明 (@Electrochemistry Laboratory, Electrochemical Energy Storage Group)
  • 海外留学歴:5年

参考文献

[1] Asakura, R.; Bolli, C.; Novák, P.; Robert, R. ChemElectroChem 2020, 7, 2033–2041. DOI: 10.1002/celc.202000161

[2] Asakura, R.; Novák, P.; Robert, R. J. Electrochem. Soc. 2017, 164, A2617−A2624. DOI: 10.1149/2.1431712jes

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東京の大学で修士を修了後、インターンを挟み、スイスで博士課程の学生として働いていました。現在オーストリアでポスドクをしています。博士号は取れたものの、ハンドルネームは変えられないようなので、今後もGakushiで通します。

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