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トランス効果 Trans Effect

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平面四角形錯体の配位子置換反応において、脱離基 X のトランス位に存在する配位子 Ltrans が X の置換を促進する現象をトランス効果という。

基本文献

トランス効果

Quagliano, J. V.; Schubert, L. Chem. Rev. 1952, 50, 201–260. DOI: 10.1021/cr60156a001

トランス影響

Appleton, T. G.; Clark, K. C.; Manzer, L. E. Coord. Chem. Rev. 1973, 10, 335–422. DOI: 10.1016/S0010-8545(00)80238-6

トランス効果の順序

ある配位子が持つトランス効果の強さは、その配位子の σ 供与性と π 受容性に関係する。配位子ごとのトランス効果の強さの順序は、おおまかには次のように表される。(この順序の電子論的な起源については、後述する。)

トランス効果の大まかな順序[4]

上の図において、左に位置する配位子ほどトランス効果が強いことが実験により確かめられている。すなわち、そのトランス位での配位子置換反応を促進する。上に示された順序について分析してみる。

シリル配位子、ヒドリド配位子、あるいはアルキル配位子のように配位原子の電気陰性度が小さい場合、トランス効果が強いことがわかる。逆に、ハロゲン化物や水酸化物イオンのように配位原子の電気陰性度が大きい場合、トランス位での配位子置換反応は抑制される。電気陰性度の大小は配位子の σ 求引性や σ 供与性と関係づけられるため、σ 供与性が高いほどトランス効果が大きくなると言える。

配位子の π 受容性もトランス効果に寄与する。例えば典型的な π 受容性配位子として知られている CO やオレフィンは強いトランス効果を示すことが知られている。オレフィンや CO は中性分子であり、アニオン性配位子のアルキル基よりも σ 供与性が低いと考えられるが、それと同程度に強いトランス効果を示すことに注意せよ。これを踏まえると、トランス効果の順序は σ 供与性だけで説明できず、π 受容性の重要性に気づかされる。

 トランス効果の起源 –その1: 反応機構–

トランス効果の大きさの順序は、平面四角形錯体における配位子置換反応の反応機構に基づいて説明できる。そこで、先にその反応機構について詳細に述べる。

(1) 会合的に進行する

平面四角形錯体における配位子置換反応は、会合機構で進行する。つまり、進入基 Y の会合が先行し、それに続いて脱離基 X が解離する。なぜ会合機構か。平面四角形構造は d8 配置の金属で多く見られ、その中心金属の価電子が 16 であるからだ。ここに新たな進入基を受け入れると、比較的安定な 18 電子中間体を生じることができる。一方、脱離基の解離が先行する解離的機構で進行すると、電子不足な 14 電子中間体を生じてしまう。これは不利である。

(2) 進入基はエクアトリアル平面に加わり、脱離基はエクアトリアル平面上から解離する

この会合機構の最中に、錯体の配位環境がなるべく変化しないように配位子が着脱する。具体的には、進行する進入基 Y が、平面四角形の対角線上にある 2 つの配位子を押し出すようにして会合し、五配位の三方両錐形の中間体を生じる。この際  Y はエクアトリアル平面に来る。もし Y がアキシャル位へ結合した場合、何らかの配位子が反対側のアキシャルへ来るように 90º 移動しなければならないことに注目せよ。Y がエクアトリアル平面に来る方が、結合角の変化が少なくて済む。

同様に考えると、脱離段階でも、エクアトリアル平面上に存在する配位子が脱離すると考えられる。これは微視的可逆性の原理に基づく[5]。つまり、ある反応はエネルギーが最低であるような経路で進むため、その逆反応 (脱離基の解離) の経路を考えたときにも、順反応 (進入基の会合) と同じ経路をたどるのである。もしアキシャル位の配位子が脱離すると、もう一方のアキシャル配位子がエクアトリアル平面上に来るように90度動かなければならない。

トランス効果の起源: その2 –遷移状態効果とトランス影響–

上述の反応機構において 、脱離基のトランス位に存在する配位子は 2 つの場面に関与する。(1) 中間体の安定化と (2)基底状態における結合の弱化である。

(1) π 受容性配位子は中間体を安定化する –遷移状態効果–

1 つ目は、平面四角錯体に対して三方両錐中間体を安定化する効果である。この効果は遷移状態効果とも呼ばれる[3,6]

遷移状態効果は配位子の π 受容性に起因する。なぜなら進入基から新たな電子を受け入れた三方両錐中間体は、電子密度が豊富になっているからである。さらにその三方両錐のエクアトリアル平面上には、下の図のような HOMO が存在する[7]。もしエクアトリアル平面内に π 受容性軌道が存在すれば、この HOMO と相互作用し三方両錐中間体を安定化できると考えられる[7]

(2) σ 供与性配位子はトランス位の結合を弱化する –トランス影響–

配位子が持つトランス効果への 2つ目の寄与は、基底状態においてトランス位の結合を弱める効果である。この効果は、トランス影響とも呼ばれる。

トランス影響は、配位子の σ 供与性に起因する。というのも、平面四角錯体においてトランス位にある配位子同士は、金属の同じ軌道に直接重なり合っている。したがって、強い σ 供与性配位子は、そのトランス位の配位子の結合電子対を押し出すことでその結合を弱める効果を持つ。一方、三方両錐中間体においては、エクアトリアル平面上の配位子は金属の同じ軌道に重ならないため、この効果は小さくなると考えられる。このように中間体と比べて基底状態の不安定性が高くなることで、相対的に活性化エネルギーが低くなると期待される (下図)。

会合的置換反応のエネルギーダイヤグラムの模式図. 原系が不安定化されると, 活性化エネルギーが相対的に小さくなることに注目.

(3) トランス影響の証拠

強いトランス影響は、トランス位の結合長を長くする。したがって、配位子 L のトランス位の結合 M—A が、(1) 典型的な M—A 結合あるいは (2) M と A の原子半径の和よりも長い場合、L の強いトランス影響が示唆される。例えば 次の Zeise の陰イオンにおいて、塩化物イオンよりもエチレンの方がトランス効果が強いため[8]、塩化物イオンのトランス位の Pt—Cl 結合と比べて、エチレンのトランス位のPt—Cl 結合は長い[2]

 

応用例

トランス効果の系列を考慮することで、抗がん剤であるシスプラチンの合成法を提案できる。シスプラチンを合成する際には、クロリド錯体[PtCl4]2– に2当量のアンモニアを反応させる。逆にいえば、アンミン錯体[Pt(NH3)4]2+ に塩化物イオンを作用させる方法では、シスプラチンは得られない。

一度目の置換反応が起こった後で、次にどの配位子が置換されやすいかを考えてみよ。トランス効果は、Cl > NH3 である。もしアンミン錯体に塩化物イオンを作用させてしまうと、2回目の置換は新しく導入された塩化物イオンのトランス位で起こりやすく、トランス体の生成物を与えてしまう。一方、クロリド錯体にアンモニアを作用させた場合、1つ目のアンモニアのトランス位よりも、互いにトランス位にある 2 つの塩化物イオンの一方で起こりやすい。その結果、シスプラチンが得られる。

参考文献

  1. トランス効果についてのレビュー: Quagliano, J. V.; Schubert, L. Chem. Rev. 1952, 50, 201–260. DOI: 10.1021/cr60156a001
  2. トランス影響についてのレビュー. 本記事では述べられなかった様々な分光学的証拠についても収録されている: Appleton, T. G.; Clark, K. C.; Manzer, L. E. Coord. Chem. Rev. 1973, 10, 335–422. DOI: 10.1016/S0010-8545(00)80238-6
  3. Weller, M.; Overton, T.; Rourke, J.; Armstrong, F. 第 21 章 配位化学: 錯体の反応「シュライバー·アトキンス 無機化学 (下) 第 6 版」, 田中勝久, 高橋雅英, 安部武志, 平尾一之, 北川進訳, 東京化学同人, 2017, pp 646–680.
  4. Hartwig, J. F. 第 5 章 配位子置換反応 「ハートウィグ有機遷移金属化学 (上)」, 小宮三四郎, 穐田宗隆, 岩澤伸治訳, 東京化学同人, 2014, pp 204–243.
  5. 微視的可逆性の原理については, 例えば次の参考書の pp 1144 の欄外を見よ:  Clayden, J.; Greeves, N.; Warren, S.; Wothers, P. 第41章 反応機構の決定「ウォーレン有機化学 (下)」,  野依良治, 奥山格, 柴﨑正勝, 檜山爲次郎訳, 東京化学同人, 2003, pp 1115–1160.
  6. 中間体を安定化する効果であるにもかかわらず, 「遷移状態効果」と呼ぶことに戸惑うかもしれない. ハモンドの仮説によると, 基質よりも高エネルギーの生成物 (ここでは三方両錐中間体) を生じる反応では, 生成物の構造は遷移状態の構造に近いと考えられる. そのため、中間体の安定化は遷移状態の安定化をも示唆する. したがって, この効果は遷移状態効果と呼ばれるのだろう. ハモンドの仮説については, 例えば次の参考書の pp 1071 の欄外を見よ: (a) Clayden, J.; Greeves, N.; Warren, S.; Wothers, P. 第39章 ラジカル反応「ウォーレン有機化学 (下)」,  野依良治, 奥山格, 柴﨑正勝, 檜山爲次郎訳, 東京化学同人, 2003, pp 1053–1085. より詳しくは次の文献を参照: (b) Hammond, G. S. J. Am. Chem. Soc. 195577, 334–338. DOI: 10.1021/ja01607a027
  7. 三方両錐形錯体における金属と配位子の軌道相互作用の図については, 次の参考書の pp 51 を見よ: Hartwig, J. F. 第 2 章 供与性 L 型配位子 「ハートウィグ有機遷移金属化学 (上)」, 小宮三四郎, 穐田宗隆, 岩澤伸治訳, 東京化学同人, 2014, pp 28–81.
  8. トランス影響は σ 供与に起因するものであるから, エチレンのトランス影響が強いことに関して疑問に思うかもしれない. というのも「トランス効果の順序」で記述したように、エチレンのトランス効果の高さは π 受容性にも起因しているからだ. 「エチレンのトランス影響が強い」という, 一見すると一貫性のない事実は, π 結合性が間接的にトランス影響に寄与することを暗示しているのだろう. すなわち金属からのエチレンへの π 逆供与はエチレンの電子密度を上昇させ, 同時に金属ー配位子結合を短くすると考えられる. その結果, エチレンの π 電子と金属の軌道との重なりが大きくなり, σ結合が強められる. このように, 配位子のπ受容性は, 金属—配位子間の σ 結合をも高めることで, トランス影響に寄与できると予想される. このような σ 結合と π 結合の相乗効果については, 例えば [3] の参考書の pp 689 を見よ.

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M.Weller, T. Overton, J.Rourke, F.Armstrong, 田中 勝久, 髙橋 雅英, 安部 武志, 平尾 一之
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