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化学者のつぶやき

ハーバート・ブラウン―クロスカップリングを導いた師とその偉業

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鈴木章教授、根岸英一教授がノーベル賞を受賞して、既に2ヶ月が経ちました。
ケムステでも特集記事を組んで紹介してきましたが、両名の授賞背景や学術的インパクトは、既にほうぼうのメディアで語られるところとなっています。
(※過去の特集記事:【速報】【お祭り編】【開拓者編】【メカニズム編】【発見物語編】【原因編】【研究年表】【書籍紹介】【試薬会社編】)

その中の一つに、「鈴木・根岸の両名はアメリカ留学時代、同じ教授に師事して研鑽を積んだ」というエピソードがあります。留学時代の研究をもとにして、画期的反応たる鈴木カップリングが生み出された―この事実も今や広く知れわたっています。

一度に二人ものノーベル賞学者を生み出した師、それは果たしてどんな人物だったのでしょう?

今回は、両教授が師事したハーバート・C・ブラウン教授にスポットライトを当てて、紹介したいと思います。

有機化学の世界に「ホウ素」を持ち込んだブラウン教授

ブラウン教授はホウ素化学の歴史的大家です。ホウ素は今でこそポピュラーな元素として知られていますが、彼が研究キャリアを歩み始めた当時は全く未開の物質であり、扱っているラボが世界に2箇所しかなかったほどです。彼はそのうちの一つ、Schlesinger研究室に属し、博士号取得に向けて、また後に助手として、水素化ホウ素化合物の研究に取り組みました。

当時は世界大戦の真っ只中であり、軍からは「安定で携帯できる水素発生源の開発」が要請されていました。この過程で開発された水素化ホウ素ナトリウム(NaBH4)水素化ホウ素リチウム(LiBH4)という化合物は、優れた還元剤としての性質を備えることが彼によって示されました。カルボニル化合物の還元目的には、ほぼ第一選択で用いられる試薬となっています。有機合成系の研究室ならばどこでも必ず持っている、大変ポピュラーな試薬です。
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水素化ホウ素ナトリウムによる還元反応
近年ではエネルギー研究の活発化に伴い、本来の目的たる水素貯蔵材料として再び注目を集めるようにもなっています。これはいずれ、別記事でまとめてみたいと思っています(参考:メタノールを使わない、90ドルの燃料電池)。

さてその後、ブラウン教授はパデュー大学へと招聘されます。そしてホウ素を用いた有機合成法の開発に尽力し、いくつものブレイクスルーを成し遂げます。

その代表的な成果が、ヒドロホウ素化反応の開発です。これはホウ素化合物と炭化水素の多重結合を反応させ、炭素-ホウ素結合をもつ化合物(有機ホウ素化合物)を合成できる反応です。有機ホウ素化合物は鈴木クロスカップリングの原料そのものですが、多くは今でもヒドロホウ素化法を用いて合成されています。ブラウン教授の合成法がなければ、今回のノーベル賞自体そもそもありえないことだった、と言っても過言ではありません。

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Brownヒドロホウ素化反応
さらにブラウン教授は、自身の化学をさらに発展させ、不斉ヒドロホウ素化法、さらには不斉アリルホウ素化法(不斉炭素-炭素結合形成反応)の開発を成し遂げます。これらの反応は大変信頼性が高く、複雑構造を持った生物活性化合物・医薬品を光学活性な形で供給できる、定石的手法として広く普及しました。不斉触媒法が発達している現代でも、多くの場所で使われ続ける画期的化学変換の一つです。

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不斉アリルホウ素化反応(Brown法はR*=Ipc)
これら一連の研究成果によって、複雑化合物の合成法は飛躍的な発展を遂げました。この功績により、ブラウン教授は1979年のノーベル化学賞を受賞することとなります。ノーベル賞学者である鈴木・根岸の師も、また歴史に残る偉大なノーベル賞化学者だったのです。

彼の偉業を記念して、パデュー大学にはHerbert C. Brown特別教授というポジションが設けられています。歴史的偉人の名を冠した「Full Professor以上の地位」は、アメリカには多数あります。現在は、根岸教授がその地位に就いています。
またアメリカ化学会(ACS)はHerbert C. Brown Awardという賞を設けており、傑出した有機合成化学者を毎年一人ずつ表彰してもいます。

ホウ素化学との運命的出会い

当時としてはマイナーそのものでしかなかったホウ素化学を、ブラウン教授が研究テーマとして選び取ったのはなぜか―これについては、面白い逸話が知られています。

ブラウン教授は学生時代、後の妻Sarahからプレゼントされた一冊の本、『Hydrides of Boron and Silicon』(by A. Stock)を読んでホウ素化学に興味を持ちました。そして博士号研究でホウ素化学をスタートし、ノーベル賞に至る偉業までをも成し遂げました。一冊の本との出会いが、その後の道を決定付けたわけです。

では、なぜSarahは数ある中からこの本を選んだのでしょうか?
当時は大恐慌の時代、彼女は僅かな小遣いの中から、最も安い化学書($2)をプレゼントとして選んだのだそうです。こういったエピソードからは、やはり化学史における運命的なものを感じざるを得ません。

ところで、Brown教授が主に扱った元素である水素(H)・炭素(C)・ホウ素(B)の3つは、驚くべきことに、彼のイニシャルH.C.B.とまったく同一です。Brown教授自身その事実をもってして、「私が有機ホウ素化学に携わることは運命だったのだ」とまで述べているほどです。

HCBrown_episode_2.png (画像:パデュー大の紹介ページより)

異なる道を歩みつつ、ノーベル賞へと至った根岸・鈴木

ブラウン教授は自らの研究成果をもとに、ホウ素化学の書籍「Hydroboration」を執筆します。これを読みふけったのが若き日の鈴木章教授でした。ホウ素化学に興味を持った鈴木教授は、ブラウン教授のもとへ留学を決意します。一方の根岸教授は、ブラウン教授の講演を直に聴き、「彼は絶対に将来ノーベル賞をとる」との確信を抱き、師事を選ぶこととなります。

1960年代という同時期に、同じ師についた両名ですが、その後の方向性は異なっています。すなわち鈴木教授は、日本に帰国した後もホウ素研究を継続しましたが、根岸教授はアメリカでポストを得て以降、ホウ素化学を続けることを選びませんでした。

これはもちろん興味の違いも一因だったのでしょうが、「日米アカデミアの風土の違い」が無視できないファクターたりえたのでは、と推測します。

米国のアカデミアでは、早くから独立の機会が得られる一方で、自らの明確なオリジナリティを示す必要に迫られます。「あの人がやってるのなら、君がやらなくても別にいいんじゃないの?」―この思想こそが、アメリカのアカデミアの根底に流れるものです。師と同じ研究をすることは、良しとされない風潮が強くあります。

ホウ素化学はあくまでブラウン教授が開拓し、発展させた研究テーマとして当時認知されていました。つまりアメリカでポストを得た根岸教授は、そこでオリジナリティを示し生き残るために、師と同系列の研究を行えない事情があったのではないでしょうか。果たしてホウ素ではなく、ジルコニウム・亜鉛・アルミニウムといった元素に主眼を置くこととなっていきます。しかし師とは異なる領域でも着実に業績を挙げ、ノーベル賞にまで至った実力はご存知のとおりです。

一方の鈴木教授が属した日本のアカデミアは、「他人との明確な違い」を厳しく求める雰囲気がそこまで強くなかったのでは、と想像されます。もちろんブラウン教授の真似事にトライしたわけでもありませんし、オリジナリティを軽んじる雰囲気が蔓延していたわけでもないでしょう。しかし繊細な違いを理解しうる日本人の民族性がおそらく後押しし、ホウ素の研究をライフワークにすること自体は、結果的に許容されえたのです。

ホウ素を用いたクロスカップリング反応は、あくまで「日本産の鈴木カップリング」としてしか発展しなかった。「アメリカ産の根岸カップリング」になることは、おそらくなかったのだろう、と想像されます。

さて今回のクロスカップリング分野にはあまりに多数の候補者がおり、選定に苦労があっただろうことが方々で言及されています。そのような多数の対象分野・候補者が存在している中でもっとも重視されるのは何か?―それはやはり、分野の第一人者が書く推薦状とされています。

ブラウン教授は2002年、自身の90歳の誕生会講演会の席で、ノーベル賞に鈴木・根岸両名を推薦する、と表明していたそうです。Brown教授は2004年に他界したため、この姿勢が2010年ノーベル賞の選定にどこまで寄与したか―それはまったくもって不明です。しかし少なくとも、アメリカ合成化学界の巨人をはじめとする、強いバックアップが両名には存在したというのは間違いなさそうです。

時代を超越する、若き化学者へ向けたメッセージ

鈴木教授の訳によるブラウン教授の自伝[1]が、先日、日本化学会より無料公開されました。大変刺激的な内容に満ち溢れており、是非一読を勧めたい文ですが、特に以下の文は考えさせる一つと思えます。

1936年、筆者(Brown教授)が大学を卒業したとき、有機化学の領域では重要な化学反応や化合物の合成に関する研究はほとんど完了してしまい、残っているのは反応の機構に関する研究や、反応の改良法について調べることぐらいしかないようにさえ思えたものである。しかし、筆者は今この考え方が間違っていたことをつくづく感じるのである。すなわち、その後多くの興味ある新反応が発見され、実際に利用されたし、また過去の知識では理解できない新しい化学構造がわかってきた。筆者は今日多くの学生諸君が、1936年に筆者が感じたと同じことを感じていることを知っている。しかしこれから先の40年あるいは50年が過去とは違い、実り豊かでない時代であるとはいえないのである。(文献[1]より引用)

これは20年前の文章ですが、現代にあっても同じ、すなわち各方面の研究者から度々言及されている内容そのものだと思えます。しかしご存知のとおり、現代にいたるまで有機化学が滅びる様子は一向にありません。それどころか、生命科学・材料分野など方々へと手を伸ばし、脈々と根を張り成長を続けています。

「特定の分野が終わった」という見方は、実のところ実効性や重みを持つ言及ではないのかもしれません。そもそも個人の発想や努力が色濃く出るような創造的研究は、時にはただ一人の頭脳から生み出されるもの、つまりマイナーそのものなところに端を発しているのです。研究者の熱意の灯が消えない限り、どんな分野でも根強く継続していくことができる、と知るべきなのでしょう (まあ、それにグラントがおりるかどうかは、また別問題ですが・・・)。

炭素、水素、窒素、酸素という限られた元素を主に扱う有機化学ではありますが、その研究テーマは無尽蔵にも思えます。新しいテーマやブレイクスルーは、実のところ定期的に出てきているのだと思えます。

しかしそのような斬新さを求めて常にチャレンジし、発掘を続けることは並大抵ではありません。それに疲れてしまう人もきっと多くいることでしょう。ネガティブな見解が流布してしまうのは、そんな大多数の共感を得てしまう背景があってのこと。後ろ向きの見解というのは時代を問わず、そもそも根強く残るものなのだ、という前提で捉えておくべきとも思えます。

「自分に強い信念があるならば、周りに惑わされること無く、自らの道を突き進んで行け」―ブラウン教授の文面からは、そのような強いメッセージ性が感じられます。

今回のノーベル賞を導いた、師の強烈なオリジナリティと思想―これは、現代に生きる我々にも多大な影響を与え、脈々と生き続けているのです。

関連文献

[1] Brown, H. C.; 鈴木章 化学と工業 1989, 42, 90.

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cosine

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博士(薬学)。Chem-Station副代表。国立大学教員→国研研究員にクラスチェンジ。専門は有機合成化学、触媒化学、医薬化学、ペプチド/タンパク質化学。
関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。
素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

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