アンリ・ボリス・カガン(Henri Boris Kagan、1930年12月15日– )は、フランスの有機化学者(写真はこちらより引用)。パリ=サクレー大学(旧パリ南大学)名誉教授。左右の鏡像関係にある分子のうち一方だけをつくり分ける「不斉合成」の方法を次々に生み出し、わずかな左右の偏りが反応の中で大きく増幅される現象を見いだした。 2026年10月、硤合憲三とともに「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒の発見」によりノーベル化学賞を受賞した。
経歴
1930 フランス・ブローニュ=ビヤンクールに生まれる
1954 パリ国立高等化学学校(ENSCP)卒業、ソルボンヌ大学で理学士
1960 コレージュ・ド・フランスで博士号取得(指導教員: J. Jacques)
1962 コレージュ・ド・フランス A. Horeau 研究室 副所長
1965 米テキサス大学オースティン校に滞在(T. Mabry 研究室)
1968 パリ南大学(オルセー)着任、研究室を開設
1973 パリ南大学教授
1978 フランス科学アカデミー通信会員
1991 フランス科学アカデミー会員
1999 パリ南大学名誉教授(2026年時点でパリ=サクレー大学 名誉教授、ICMMO 所属)
ENSCP を出たのち、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究研修員としてコレージュ・ド・フランスの Jean Jacques の研究室に入り、ステロイドや胆汁酸の立体化学で学位を得た。続いて立体化学者 Alain Horeau の研究室を支え、米国では核磁気共鳴(NMR)による天然物の構造決定を学んだ。オルセーに拠点を移してからは、立体化学の知見を「触媒で鏡像体をつくり分ける」研究に振り向け、名誉教授となったのちも執筆と講演を続けた。
受賞歴
1974 CNRS銀メダル(フランス国立科学研究センター)
1990 プレローグメダル(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)
1991 ホフマン記念メダル(ドイツ化学会)
1998 名古屋メダル ゴールドメダル
1998 キラリティーメダル
1999 テトラヘドロン賞(Elsevier)
2001 ウルフ賞化学部門(野依良治、K. B. シャープレスと共同)
2002 野依賞(第1回、有機合成化学協会)
2002 レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ
2005 バウアー賞(Bower Award and Prize for Achievement in Science、フランクリン協会)
2013 ラヴォアジエメダル(フランス化学会)
2026 ノーベル化学賞(硤合憲三と共同)
2026年のノーベル化学賞は、「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒の発見」に対して贈られた[21]。カガンは1986年に、触媒の左右の偏り(エナンチオマー過剰率、ee)と生成物の ee が比例しない「非線形効果」を報告し[10]、硤合は1995年に、生成物が自分自身の生成を促して偏りを増幅する不斉自己触媒反応を報告した[15]。選考委員会は、2人の仕事が生体分子の左右の偏り(ホモキラリティ)が自発的に生じうる仕組みに答えを与えたと説明している[21]。
研究概要
カガンは「右手用と左手用がある分子を、触媒の力で片方だけつくる」ための道具を生み出した化学者である。触媒を使う不斉合成の基本設計を示したうえで、触媒の左右の偏りがほんのわずかでも、条件しだいで生成物の偏りが大きく膨らむことを見いだした。この発見は、生命の分子がなぜ左右どちらか一方にそろっているのかという問いにも手がかりを与えた。カガンの研究は、立体化学の基礎研究から出発し、均一系不斉触媒、不斉酸化、希土類金属試薬、触媒の挙動を解析する方法論へと広がった。どの仕事にも、分子の形がどのように反応の選択性を決めるかを突き詰める姿勢が通っている。
C2対称ジホスフィン DIOP と不斉水素化
1960年代末、ロジウム錯体による均一系水素化に不斉配位子を組み合わせる試みが始まっていたが、得られる選択性は低かった。カガンは酒石酸から合成した二座ホスフィン配位子 DIOP を設計し、ロジウム触媒によるα-アミノ酸前駆体などの不斉水素化で高いエナンチオ選択性を示した[1,2]。
DIOP は分子内に2回回転軸をもつ C2対称の配位子で、金属まわりに生じうる配位の向きを減らし、遷移状態の数を絞り込む。それまでの不斉ホスフィンは、W. S. Knowles らのようにリン原子そのものを不斉中心とする設計が中心であった。DIOP は、リンから離れた炭素骨格にキラリティを置いても高い選択性が得られることを示し、天然物由来の安価な原料から配位子をつくる道を開いた[2]。この設計の考え方は、その後のキラル配位子の設計に広く取り入れられた。
チタン錯体による不斉スルホキシド化
1984年、カガンらは Sharpless 不斉エポキシ化のチタン–酒石酸ジエチル錯体に水を加えて改変し、スルフィドをキラルなスルホキシドへ高い選択性で酸化する方法を報告した[3,4]。チタンアルコキシド、酒石酸ジエチル(DET)、水を 1:2:1 で混ぜた錯体と tert-ブチルヒドロペルオキシドを組み合わせる系で、アリールメチルスルフィドの酸化に特に有効であった[4]。同じ時期にイタリアの G. Modena らも類似の方法を報告しており、この反応は Kagan–Modena 酸化とも呼ばれる。
キラルスルホキシドは不斉補助基として使われるほか、医薬品の骨格にもなる。胃酸分泌抑制薬エソメプラゾールの工業合成では、この改変チタン錯体による不斉酸化が採用された[5]。
ヨウ化サマリウム(II) の有機合成への導入
1977年、カガンらはサマリウム金属と1,2-ジヨードエタンから、テトラヒドロフラン(THF)溶液のヨウ化サマリウム(II)(SmI2)を温和に調製する方法を報告した[6,7]。SmI2 は扱いやすい1電子還元剤として働き、ハロゲン化アルキルとケトンのバルビエ型カップリング(Kagan–Molander カップリング)、ピナコールカップリング、ケチル–オレフィン環化などに使われるようになった[8]。
SmI2 は添加剤や溶媒によって還元力を調節でき、複雑な天然物の全合成でも鍵段階に用いられている。カガンの研究室が希土類の2価化合物を有機合成の試薬として位置づけたことが、この分野の出発点となった[8]。
非線形効果の発見とホモキラリティへの視点
カガンは早くから分子の左右の起源に関心をもち、1971年には円偏光を照射して[6]ヘリセンを光学活性体として得る「絶対不斉合成」を報告した[9]。
1986年、カガンらは Sharpless 不斉エポキシ化、不斉スルホキシド化、プロリンを触媒とする不斉アルドール反応で、配位子の ee を変えたときに生成物の ee が直線的に変化しない現象を見いだし、「非線形効果(non-linear effect, NLE)」と名づけた[10]。配位子の ee が低くても生成物の ee が予想より高くなる場合を正の非線形効果、低くなる場合を負の非線形効果と呼ぶ。カガンは、触媒が配位子を2つ以上含む集合体として働くとき、同じ向きの配位子からなる集合体と、左右の配位子が混じった集合体とで反応性が異なることから、この現象を説明する速度論モデルを示した[11,12]。代表的な ML2モデルでは、同じ向きの配位子2つをもつ錯体(ホモキラル錯体)と、左右1つずつをもつ錯体(ヘテロキラル錯体)が平衡で生じる。ヘテロキラル錯体が安定で反応性が低ければ、少数派の配位子はこの錯体に取り込まれて反応から外れ、多数派の配位子からなる錯体だけが反応を担うため、生成物の ee は配位子の ee から予想される値より高くなる。この現象は「不斉増幅」とも呼ばれる[11]。
非線形効果は、純度の低い配位子からでも高い ee の生成物を得る可能性を示すと同時に、触媒の活性種が単量体か集合体かを見分ける手段にもなった[13,14]。わずかな偏りが増幅されうるという考え方は、硤合憲三による不斉自己触媒反応などの発見[15]と結びつき、生命のホモキラリティの起源を化学反応で説明する研究の流れをつくった。

(論文より引用)
研究の現在地(2026年10月時点)
非線形効果は、不斉触媒の機構を調べる標準的な手法の一つとして使われ続けている。2022年には、ラセミ体でない触媒が光学的に純粋な触媒より高い ee を与える「超正」の非線形効果が有機亜鉛試薬の付加反応で報告された[16]。
カガンの不斉スルホキシド化は医薬品製造の工業法としての位置を保っており、2024年の研究でもエソメプラゾール製造の基盤として言及されている[19]。SmI2 化学では、D. J. Procter らが SmI2 を化学量論試薬ではなく触媒として使う反応系を展開しており、カガンが導入した試薬が新たな形で発展している[20]。
フランス化学会の有機化学部会は、優れた博士論文に「Henri Kagan 博士論文賞」を授与しており、2025年も授与が行われた[25]。
2026年10月7日のノーベル化学賞発表時、カガンは95歳であった。所属するパリ=サクレー大学のオルセー分子・材料化学研究所(ICMMO)は、カガンのモデルが新しい不斉触媒反応の開発に使われ続けており、研究所のチームがその流れを引き継いでいるとの所長のコメントを発表した[22]。
エピソード
- 若いころは成績のよい生徒ではなかったと自ら語り、文系から理系に転じた。ENSCP には2度目の受験で合格した。1954年に兵役が延期されたことで、企業に就職する計画が変わり、研究の道に進んだ[23]。
- 師の Jean Jacques は、隣の印刷所から出る亜鉛くずを使って Reformatsky 反応を行うような工夫の人だった。カガンが出した擬対称性のアイデアについて、Jacques は本人の発想なのだから単著で発表するよう勧めたという。Jacques からは、予想外の結果を見逃してはならないと教わったと振り返っている[23]。
- DIOP の着想は、フランス石油研究所(IFP)の Lucien Sajus との議論から生まれた[23]。
- 不斉触媒に贈られた2001年のノーベル化学賞では選に漏れ、フランス研究省が抗議する事態となった。カガン本人は、発表の日にロンドンへ向かう途中で、これで記者に追われずに済むと冗談を言ったと回想している[23,24]。
- 2026年の受賞に際し、理論化学者の Odile Eisenstein は、カガンの研究室の扉はいつも開かれていたと回想した。同僚の Bruno Chaudret は、2001年の件でカガン自身が不満を口にすることはなかったと語り、非常に謙虚な人物だと評した[24]。
関連文献&注釈
- Dang, T. P.; Kagan, H. B. J. Chem. Soc. D 1971, 481. DOI: 10.1039/c29710000481
- Kagan, H. B.; Dang, T.-P. J. Am. Chem. Soc. 1972, 94, 6429–6433. DOI: 10.1021/ja00773a028
- Pitchen, P.; Kagan, H. B. Tetrahedron Lett. 1984, 25, 1049–1052. DOI: 10.1016/S0040-4039(01)80097-6
- Pitchen, P.; Duñach, E.; Deshmukh, M. N.; Kagan, H. B. J. Am. Chem. Soc. 1984, 106, 8188–8193. DOI: 10.1021/ja00338a030
- Cotton, H.; Elebring, T.; Larsson, M.; Li, L.; Sörensen, H.; von Unge, S. Tetrahedron: Asymmetry 2000, 11, 3819–3825. DOI: 10.1016/S0957-4166(00)00352-9
- Namy, J. L.; Girard, P.; Kagan, H. B. Nouv. J. Chim. 1977, 1, 5.
- Girard, P.; Namy, J. L.; Kagan, H. B. J. Am. Chem. Soc. 1980, 102, 2693–2698. DOI: 10.1021/ja00528a029
- Kagan, H. B. Tetrahedron 2003, 59, 10351–10372. DOI: 10.1016/j.tet.2003.09.101
- Kagan, H.; Moradpour, A.; Nicoud, J. F.; Balavoine, G.; Tsoucaris, G. J. Am. Chem. Soc. 1971, 93, 2353–2354. DOI: 10.1021/ja00738a061
- Puchot, C.; Samuel, O.; Duñach, E.; Zhao, S.; Agami, C.; Kagan, H. B. J. Am. Chem. Soc. 1986, 108, 2353–2357. DOI: 10.1021/ja00269a036
- Guillaneux, D.; Zhao, S.-H.; Samuel, O.; Rainford, D.; Kagan, H. B. J. Am. Chem. Soc. 1994, 116, 9430–9439. DOI: 10.1021/ja00100a004
- Girard, C.; Kagan, H. B. Angew. Chem. Int. Ed. 1998, 37, 2922–2959. DOI: 10.1002/(SICI)1521-3773(19981116)37:21<2922::AID-ANIE2922>3.0.CO;2-1
- Kagan, H. B. Synlett 2001, 888–899. DOI: 10.1055/s-2001-14660
- Satyanarayana, T.; Abraham, S.; Kagan, H. B. Angew. Chem. Int. Ed. 2009, 48, 456–494. DOI: 10.1002/anie.200705241
- Soai, K.; Shibata, T.; Morioka, H.; Choji, K. Nature 1995, 378, 767–768. DOI: 10.1038/378767a0
- Thierry, T.; Geiger, Y.; Bellemin-Laponnaz, S. Molecules 2022, 27, 3780. DOI: 10.3390/molecules27123780
- Möhler, P.; Betzenbichler, G.; Huber, L.; Siegle, A. F.; et al.; Trapp, O. Nat. Commun. 2025, 16, 7303. DOI: 10.1038/s41467-025-62591-3
- Deng, M.; Yu, J.; Blackmond, D. G. Nature 2024, 626, 1019–1024. DOI: 10.1038/s41586-024-07059-y
- Capozzi, M. A. M.; Alvarez-Larena, A.; Piniella Febrer, J. F.; Cardellicchio, C. RSC Adv. 2024, 14, 35105–35113. DOI: 10.1039/D4RA07088G
- Romano, C.; Mansell, J. I.; Procter, D. J. Nat. Chem. 2024, 16, 478. DOI: 10.1038/s41557-024-01438-8
- 注: 授賞理由・賞金・選考委員会の説明は、2026年10月7日の発表を伝えた報道(Al Jazeera、Reuters配信)による。公式発表は nobelprize.org を参照。
- 注: Université Paris-Saclay の発表(2026年10月)
- 注: 本人へのインタビュー「Sur la route d’Henri Kagan」(聞き手 G. Balavoine)L’Actualité Chimique 2013, 377, 7. PDF
- 注: AFP 配信(Techniques de l’Ingénieur、Primera Hora)
- 注: Henri Kagan PhD prize for Dr. Lucas Popek — Université de Strasbourg(2025年4月)
関連書籍
関連リンク
- Henri Kagan — Académie des sciences
- Université Paris-Saclay: 2026 Nobel Prize in Chemistry awarded to Henri Kagan
- Nobel Prize in Chemistry 2026 — nobelprize.org
- Henri B. Kagan — Wolf Foundation
- Henri B. Kagan — The Franklin Institute
ケムステ内
- 【速報】2026年のノーベル化学賞は「不斉有機合成における非線形効果および自己触媒作用の発見」へ
- 【硤合教授ノーベル賞受賞記念】解説イベント(10/31)
- 硤合 憲三 Kenso Soai
- 野依 良治 Ryoji Noyori
- バリー・シャープレス Karl Barry Sharpless
- ウィリアム・ノールズ William S. Knowles
- ゲイリー・モランダー Gary A. Molander
- 2001年ノーベル化学賞『キラル触媒を用いる不斉水素化および酸化反応の開発』
- 硤合不斉自己触媒反応 Soai Asymmetric Autocatalysis
- ヨウ化サマリウム(II) Samarium(II) Iodide
- カガン・モランダーカップリング Kagan-Molander Coupling
- ピナコールカップリング Pinacol Coupling
- シャープレス・香月不斉エポキシ化反応
- アンデルセン キラルスルホキシド合成
- 有機亜鉛試薬 Organozinc Reagent
- 不斉触媒 Asymmetric Catalysis
- Donna Blackmond教授インタビュー「不斉反応の速度論研究からホモキラリティの起源に挑む」
- 名古屋メダル―受賞者一覧/ウルフ賞化学部門―受賞者一覧/野依賞―受賞者一覧/ベンジャミン・フランクリンメダル―受賞化学者一覧
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