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化学者のつぶやき

「糖鎖レセプターに着目したインフルエンザウイルスの進化の解明」ースクリプス研究所Paulson研より

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ケムステ海外研究記の第34回はスクリプス研究所 のPhD課程に留学されている菊池智佳さんにお願いしました(トップ画像出典:スクリプス研究所フォトギャラリー)。

菊池さんが所属するPaulson研究室は、糖鎖ケミカルバイオロジー分野で著名な成果をあげています。糖鎖は免疫反応やヒトの病気などにおいてとても重要な分子ですが、菊池さんは特にインフルエンザウイルスとヒト細胞上の受容体との相互作用に着目し、研究に取り組まれています。

菊池さんには、第三回ケムステVシンポ「若手化学者、海外経験を語る」にてご講演をいただく予定です。ぜひご参加ください。

それでは、菊池さんのインタビューをどうぞ!

留学先ではどのような研究をされていますか?

H3N2型インフルエンザの進化について,ヒトの気管上皮に存在する‘glycan receptors’ (=糖鎖レセプター)と,インフルエンザの表面タンパク質であるヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)との相互作用に着目して研究しています。

H3N2型インフルエンザは1968年のパンデミックによってヒトへともたらされ,その後50年以上が経過した現在でも季節性のエピデミックを引き起こす原因となっています。インフルエンザウイルスの感染においては,表面タンパク質HAとNAが重要な働きを担っています。ヒト型インフルエンザHAは糖鎖を認識し結合するタンパク質であり,このタンパク質がガラクトースにα2-6結合したシアル酸を非還元末端にもつ糖鎖レセプターへと結合することで,ウイルス粒子を宿主細胞へと接着させて宿主へウイルスを感染させます。一方で,NAはreceptor-destroying enzyme(=レセプター破壊酵素)の異名の通り,末端のシアル酸とガラクトースの結合を加水分解します。宿主細胞により新しく合成されHAによって細胞表面に凝集しているウイルス粒子はこれにより糖鎖レセプターが破壊(=細胞表面から解放)されることで感染を広げ,ウイルス複製サイクルを完成させます。

このH3N2型インフルエンザのHAとNAの性質の変化が2010年頃から確認されはじめました。‘近年の’ウイルスは,研究室で使われるアッセイでの測定において一見すると低い感染能を示し,ワクチン開発において宿主として使われる鶏卵への感染能を失い始めたのです。

しかしながら,毎年起こるインフルエンザの流行がはっきりと示すように,H3N2型インフルエンザはヒトの免疫獲得や糖鎖レセプターの供給という制約があるなかで進化を続け,ヒトへの感染能を保ち続けています。すなわち,一見すると感染能が弱くなったように見えるHA/NAの変化は宿主,すなわちヒトの気管上皮に存在する糖鎖レセプターとの適合性を保ち続けているといえます。

Paulson Labでは,2017年に,ヒトの肺に特徴的で,鶏卵には存在しない‘長い糖鎖’をchemo-enzymatic synthesisにより合成し,このような長い糖鎖が近年のインフルエンザHAの糖鎖レセプターとして働くことを示しました(ref. 1)。 わたしのプロジェクトでは,この発見を土台に(1) ヒトの気管上皮細胞のglycomeの解析をし,(2) chemo-enzymatic synthesisによりヒト気管上皮細胞に特徴的な構造を持つ糖鎖を合成してHAとNAとの相互作用解析をすることで,H3N2型インフルエンザがどのように進化しヒトへの感染能を保ってきたのかを研究しています。

なぜ留学しようと思ったのですか?

Paulson Labで博士号取得を目指したかったからです。

もともと博士課程には進学するつもりだったのですが,修士課程の指導教員のご退官が近かったことから,先生の後押しもあって博士課程は修士とは別の研究室に行くことを検討していました。分野としてはBiologyに主眼をおいた糖鎖生物学をやりたいと決めており,まずは国内の研究室を調べていたのですが,より興味に沿った研究室を探すために海外も視野にいれることにしました(学位留学している知り合いもいたので,行きたければ行くのは不可能ではないなという根拠のない自信がありました)。

その後研究室探しを続けるうちに,Q3に述べるような経緯でPaulson Labにぐぐっときて出願を決意しました。Paulson Labに行くためには(サンディエゴにあるので)留学せざるを得ず,留学するに至りました。

留学先はどのようにして決められましたか?

研究内容とPIのJimの人柄に加え,研究所の立地にも後押しされました。

修士課程では,糖アナログを用いた糖鎖合成阻害の論文(ref. 2)から着想を得て,糖アナログ阻害剤を作って細胞に与え,糖脂質アナログを使って阻害をモニタリングしながら細胞への影響を見るといった研究をしていました。

進学先として海外の研究室を考え始めたとき,糖鎖生物学の問いに答えるために化学を手段として用いているこの論文のことを思い出し,論文の出どころであるPaulson Labの他の論文を芋づる式に読んだことでこの研究室に興味を持ったのが最初のきっかけでした。

その後,専攻の海外研究室訪問プログラムに採用していただき,何ヶ所か研究室・大学を見学し,PIの先生方とやりとりしたなかで,Paulson Labの研究内容,研究室を案内してくれたラボメンバーたちの人柄,そしてPIであるJimの人柄にぐぐっときたのが出願に至る最終的な決め手となりました。

また,Paulson Labのあるスクリプス研究所が位置するサンディエゴは,気候がとてもよく(常春と言われたりします),西海岸なのでアメリカの中では日本に近く,東京への直行便もあるのも留学へのハードルを下げる要因でした。

Pic 1. Paulson Labのはいっている建物,奥に見えるのが化学系ラボの入っている棟です。

Pic 2. 研究室の入っている建物の入り口からはゴルフコース越しに海が見えます。

研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。

良かったことはなにより今の環境にいられることかなと思います!

もちろん,‘研究留学経験’は個人によって違う体験だと思いますが,わたし個人にとっては,分野の先端を走るラボで現在のプロジェクトに携われていることはもちろん,授業・セミナー・コラボレーションを通じて分野内・外の人脈や知識を得たことは留学しなければ得られなかった経験かと思います。

ほかにも,スクリプス研究所に関して言えば, 化学分野・生物分野それぞれ週1回以上の頻度で外部の教授・研究者を招いたセミナーがあり,自分の研究に関連する分野はもとより,関連しない分野についても気軽に講演を聴講できて世界が広がる感じがします。また,実際留学してみると案外なんとかなるものだな,という自信がついたので,今後も日本以外の国で働く選択肢があるときに,その選択肢をとる心理的なハードルが下がったかなという気がします。

悪かったことは,今まさにこの記事を書きながら直面しているのですが,自分の研究を日本語で説明するのがとても下手になっていることです……。日本語の総説などを読んで言い回しなどを勉強せねばといま心にきめました。

あとは,日本で起こるイベント(友だち・親戚の結婚式,同窓会など)をことごとく逃していることです。昨今のzoom飲みの流れにのって,次のクラスコンパには参加できるんじゃないかなと期待しています。

現地機関や所属研究室の雰囲気はどうですか?

スクリプス研究所のあるサンディエゴはとってもいいところです!気候がよく,風光明媚で,日本食スーパーマーケットやアジアンマーケットもたくさんあるので食べるものにも困らず,研究所のある地域は特に治安もいいので(車がないと生活できないのが欠点ではありますが)アメリカの他の地域にはもう住めないな……と思っています。

所属しているPaulson Labは,合成化学から構造生物学までさまざまなバックグラウンドを持ったスタッフサイエンティスト2名・ポスドク6名・テクニシャン2名に対して博士課程学生2人という構成です。PIのJimを筆頭として面倒見の良い年長者が多いので,彼らから多くを学びながら博論研究が進められています。また,Scripps内・外とのコラボレーションも盛んなので,研究室の枠にとらわれず,思いついたアイデアを実際にためしてみるまでのハードルが低いように感じます。

研究以外でも,ボス主催のイベント(誕生日会,競馬観戦,ポットラック,ワインテースティング,ラボハッピーアワーなど)が年数回開かれるほか,研究所主催のハッピーアワーにみんなで参加するなど楽しく過ごしています。

学生生活としては,クラスメイトは入学時に21歳から35歳くらい(?)と年齢が幅広く,バックグラウンドも様々で,アメリカだなあ…!という感じです。サンディエゴ出身の人はほとんどいないので,みな研究所周辺に暮らしており,毎週末のように集まって一緒にごはんを食べたり飲みに繰り出したりしています。

Pic3. 研究室のみんなで競馬観戦のあとBreweryに行ったときの様子。

Pic 4. クラスメートと一学年下のひとたちと野球観戦に行ったときの集合写真。年齢だけでなく,人種的にも一定の多様性があります。記憶が正しければSan Diego Padresが珍しく勝ちました。

Pic5. クラスメートたちと庭でビールを仕込んだときの写真,女子勢はカメラのこちら側で市販のビールを飲んでいました。なお,計算間違いによりとんでもなく薄いビールが完成しました……全員理系のPhD学生なのに……。

 

渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください

とくに念入りに準備したことはありませんでした。渡航前の3日くらいは一人暮らしが寂しくて泣きに泣いていました。

どこまで普遍的なのかわからないのですが,サンディエゴでは賃貸情報を見るとほぼ「即日入居可」の物件しか出てこず,渡航前にアパートを決めることができませんでした。そこで,渡航後4日間ぶんだけホテルを予約して,1日目に携帯電話の契約と銀行口座の開設をし,2日目にアパートを回って3日目に契約・鍵を受け取る・ライフラインの開通手続き・必要最低限の家具の購入,4日目に入居という超過密スケジュールになってしまいました(その翌日から研究室にも行き始めました)。また,国際免許証はとっていたものの,日本ではペーパードライバー歴3年だったので車の運転もできず困りました(その後アメリカ人の教官に10時間ほどレッスンしてもらい無事カリフォルニアの免許を取得しました)。

わたしの場合,人生初の一人暮らしinアメリカを心配した母が最初の1週間ついてきてくれ,車の運転含めもろもろ助けてくれました。振り返ってもし一人でやらねばならなかった場合を考えると,とりあえず運転ができるようにしておくのが大事だと思います。

海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?

わたしの場合は,現在のところ海外経験=博士課程留学なので,まずは研究をきちんと進めてPh.D.をとって,そのあとそれを正当に評価される場において結果を出していくことが目標になるかと思います。

最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします

この記事を書くにあたって友だちと話していたのですが,彼の言った“You wanted to join the lab and the fact it’s in overseas didn’t stop you” がまさにわたしを言い表していると思います。

もし「おもしろい研究をやっている海外の研究室に留学したいけれど海外だしな……」と思っている方がいたら,海外にあることを理由に選択肢からはずさないでください。わたしは留学奨学金全落ちしましたが案外なんとかなっています。

最後になりましたが,この記事を書く機会・Vシンポにお誘いくださったケムステスタッフの方々,留学するにあたり手助けしてくださった先生・先輩方,留学生活を支えてくださっているみなさまに感謝しています。

関連論文・参考資料

  1. Peng, W. et al. Recent H3N2 Viruses Have Evolved Specificity for Extended, Branched Human-type Receptors, Conferring Potential for Increased Avidity. Cell Host Microbe 21, 23–34 (2017). DOI: 10.1016/j.chom.2016.11.004
  2. Rillahan, C. D. et al. Global metabolic inhibitors of sialyl- and fucosyltransferases remodel the glycome. Nat. Chem. Biol. 8, 661–668 (2012). DOI: 10.1038/nchembio.999

関連動画

2020年5月23日 第三回ケムステバーチャルシンポジウム「若手化学者、海外経験を語る」より

研究者のご略歴

名前:菊池 智佳(きくち ちか)

所属:スクリプス研究所 PhD課程 Paulson研究室

研究テーマ:Evolution of H3N2 influenza virus for recognition of human airway receptors

海外留学歴:2年11ヶ月

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kanako

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アメリカの製薬企業の研究員。抗体をベースにした薬の開発を行なっている。
就職前は、アメリカの大学院にて化学のPhDを取得。専門はタンパク工学・ケミカルバイオロジー・高分子化学。

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