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二水素錯体 Dihydrogen Complexes

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水素分子がサイドオン型で金属中心に近づくと、二水素錯体を形成することができる。こうして形成した二水素錯体は金属からの逆供与が適度に存在し、酸化的付加が寸止めされた錯体として興味深い。くわえて、水素分子は化石燃料に替わるクリーンな燃料になりえるため、二水素錯体は水素貯蔵材料として応用できる。

水素分子の配位能

水素分子は中性の二電子供与体として金属に配位できる。すなわち水素分子がサイドオンの形式で金属に近づくと、 σ結合中の 2 電子を金属の空の d 軌道へ供与する。典型的な Werner 型錯体は原子上の孤立電子対が金属に供与することで形成されるのに対し、二水素錯体ではすでに結合形成に使われている電子対が金属に配位していることは注目に値する。二水素錯体以外にも、σ結合 (C—H, Si—H 結合など) と金属間の相互作用が存在することがあり、そのような錯体はσ錯体と呼ばれる。2
水素分子の配位能はσ供与性だけでなく、π 受容性にも起因する。すなわち、金属の d 電子が反結合性σ*軌道に逆供与することによっても、その錯形成が安定化される。そのπ受容性とσ供与性のバランスが丁度よいため、水素分子は中心金属の電子的環境に順応して配位できる。例えば、極めて電子求引的な中心金属では金属からの逆供与を受けられないものの、水素は強い σ供与によって配位できる。

水素分子はσ供与性とπ受容性を持つ両性の配位子. σ供与性とπ受容性を使い分けられる性質は, 他の気体分子には見られない. 例えば一酸化炭素は強力な π 受容性配位子であるし, 窒素は弱い σ 供与性配位子である (π 受容性も弱い). 

二水素錯体は酸化的付加が寸止めされた錯体である

金属から水素分子への逆供与の度合いによって、二水素錯体を「水素の酸化的付加の反応座標」に対応させることができる。二水素錯体の H—H 結合距離は 0.82–1.5 Å と幅広い。結合開裂がこのようにさまざまな反応座標で寸止めされていることは珍しい。

H—H 距離による二水素錯体の分類 (分類の境界は文献 1 の著者による独断に基づく). 厳密な分類ではないが, それぞれの錯体は固有な性質を持つ.

H—H 距離が比較的短い (0.8—1.0 Å) のものは、水素が可逆的に結合できる”真の二水素”錯体とみなせる。[W(CO)3(PR3)2(H2)] が”真の二水素” 錯体の最も良い例で、H—H 距離は 0.8 Å より短い。これはほとんど物理吸着した水素の H—H 距離に等しい。二水素錯体における金属からの逆供与は、水素の反結合性σ*軌道に電子をもたらすため、H—H 間距離を長くする。H—H 距離が1–1.3 Å であるものは、”伸長二水素”錯体と考えられ、1.3–1.6 Å のものは”圧縮されたジヒドリド”錯体とみなすのが適当だと思われる。H—H 距離が 1.6 Å 以上であるものは、もはや H—H 間に結合がないと考えられ、 H– イオンが二つ配位したジヒドリド錯体とみなす方が適切である。

二水素錯体 VS ジヒドリド錯体

中心金属の影響
中心金属が電子不足であるほど、その二水素錯体は “真の二水素” 錯体に近づく。一方、電子豊富な中心金属は二水素錯体を形成しにくい。なぜなら、それらの電子豊富な金属は、水素の反結合性σ* 軌道へ電子を強く逆供与することで H—H 結合を弱め、もはや分子状水素内の結合を酸化的付加により開裂し、ヒドリド錯体を形成してしまうからである。同じ金属で同じ形式電荷であっても、周りの配位子によって二水素錯体の結合様式や安定性は敏感に変化する。例えば強い π 受容性配位子である一酸化炭素の数に応じて、次のタングステン錯体は “真の二水素” 錯体” から “ジヒドリド錯体” まで形成できる。

上記のタングステン錯体は一酸化炭素が少ないほど, 中心金属が電子豊富になり, ジヒドリド錯体に近づく.

配位子の影響
水素分子のトランス位の配位子は、水素分子の配位様式に大きく影響する。前述のように π 受容性を持つ配位子が “真の二水素” 錯体の形成を促進することはもちろん、ヒドリドのように強いトランス効果を持つ配位子も、”真の二水素”錯体の形成を促す。例えばトランス位のπ受容性配位子は金属の電子密度を下げ、金属から水素への逆供与を弱める。またσ供与性配位子は、トランス位の水素分子のσ供与を押し返すことにより、M—H2 距離を伸長する (トランス影響)。これにより、金属のd軌道と水素σ*間の軌道の重なりが小さくなり、逆供与も弱まると考えられている。逆に、H2O のような弱いσ供与体やハロゲン化物イオンのような優れたπ供与体は、金属からの逆供与を促進することで安定な二水素錯体の形成を助ける。

水素のトランス位の配位子も水素の配位様式に影響する. π 受容性配位子や強いσ供与性配位子は, トランス位の水素分子の酸化的付加を抑制する. π 供与性配位子や弱いσ供与性配位子は, トランス位の水素分子の H—H 距離を伸長する. 

二水素錯体の同定法

二水素錯体とジヒドリド錯体の違いは、IR スペクトルの伸縮振動によって区別される。ヒドリド錯体は M—H による伸縮運動 (1700–2300 cm–1) と変角運動 (700–900 cm–1) の2つの基準振動しかないのに対して、二水素錯体は水素分子の伸縮(H—H)、並進あるいは回転などの 6 つの基準振動を持つ (下図)。3, 二水素錯体を分析する他の手法として、NMR や中性子線回折、非弾性中性子散乱 (inelastic neutron scattering, INS) がある。

二水素錯体における水素の基準振動. 通常の水素において H—H 対称伸縮振動は IR 不活性だが, 二水素錯体中では IR で弱く観測できる. その理由は, M—H2 などと連動することで, この遷移によって双極子モーメントが変化しうるからである.3 

合成法

配位不飽和錯体と水素の反応
配位不飽和部位を持つ錯体は二水素錯体の前駆体になる。そのような前駆体の多くは、アゴスチック相互作用 (配位子上のC—H 結合と配位不飽和部位における分子内での σ 錯体の形成) で安定化されている場合が多い。そのアゴスチック相互作用が水素分子と置換されることで二水素錯体が形成される。こうして形成された二水素錯体は、水素が可逆的に着脱できることが特徴である。

アゴスチック相互作用 (オレンジ色枠内) によって安定化された配位不飽和錯体は水素と可逆的に錯形成する.

この合成法における前駆体の設計をする際には、配位不飽和な環境をいかに安定化するかが重要である。配位不飽和な環境を安定化する配位子としては、アゴスチック相互作用が可能なアルキルホスフィン、 π-供与性のハロゲン化物、強いσ供与性を持つヒドリドなどがある。また溶媒が配位した金属部位を持つ金属–有機構造体 (MOF) は、加熱真空引きによって配位不飽和な金属部位を形成できる (後述)。

ヒドリド錯体のプロトン化
二水素錯体の合成法としてもっとも汎用的である。なぜなら配位不飽和錯体前駆体の多くは存在しないか、合成するのが難しいためである。中性のポリヒドリド錯体をプロトン化することで得られるカチオン性二水素ヒドリド錯体は、たいていの場合水素ガスとの反応により得られる二水素錯体よりも安定である。ハーフサンドイッチ型二水素錯体の多くは、この手法で合成される。

ハーフサンドイッチ型ルテニウムヒドリド錯体のプロトン化による二水素錯体の形成4

応用例

水素錯体の研究は、水素製造, 水素貯蔵などのクリーンエネルギー技術に応用できる。またヒドロゲナーゼなどの酵素などにおける酵素反応の機構解明にもつながる。ここでは水素貯蔵材料への応用例として金属–有機構造体の研究例を挙げる。

金属–有機構造体におけるガス貯蔵能力の問題
一般的な錯体では、一つの中心金属に有機化合物などが配位しているが、配位子である有機化合物が複数の配位部位を持つ場合、金属錯体が無限につながった構造を取ることができる。そのような化学種の中でも、繋がり方の周期性がよく結晶性を示すものは金属–有機構造体 (MOF) と呼ばれる5)。MOF は用いる配位子や金属に応じて、内部の細孔のサイズや化学的性質を設計することができる。広い表面積を持つ MOF は、ガス貯蔵材料としての応用が注目されてきたが、単に物理吸着可能な表面積が広いだけでは実用的なガス貯蔵材料にはなりえない。単純な物理吸着は吸着エンタルピー –5~7 kJ/mol 程度と弱く、温度が上昇するにつれて水素貯蔵能力が著しく下がるからである。可逆的で容易な水素の吸着性を保ちつつ、室温下でも水素を吸着できる最適な吸着エンタルピーは –15~25 kJ/mol であると考えられている。 

Ni2(m-dobdc) は水素が配位可能な部位を高密度に持つ
室温付近においても十分な水素貯蔵容量を発揮できる材料として、配位不飽和な金属部位をもつMOF が有力視されている。一部の MOF の金属中心には、金属を橋かけしている配位子の他に、溶媒が配位していることがある。そのような MOF を真空下で加熱すると、その溶媒が除去され、配位不飽和な金属部位が形成される。この金属部位に水素が配位した場合、典型的な物理吸着よりも強い吸着エンタルピーを示す。例えば Ni2(m-dobdc) と呼ばれる MOF は、Ni2+ 部位における吸着エンタルピーは–13.7 kJ/mol  におよぶ。そのような強力な吸着部位が c 軸上に高密度に並んでいるため、Ni2(m-dobdc) 室温下でこれまでの吸着材料よりもすぐれた水素貯蔵能力を示すことが報告されている6,7)。

Ni2(m-dobdc) の結晶構造 (左) と配位不飽和な Ni2+ 部位における水素の配位. 

π 逆供与相互作用によって最適な吸着エンタルピーが得られる

MOF の配位不飽和金属サイトは、典型的には二価でルイス酸性を示し、水素の相互作用はその正電荷による分極相互作用に基づく。上述の Ni2(m-dobdc) の Ni2+ サイトも実際に分極相互作用によって水素を吸着している。このような分極相互作用による水素吸着での吸着エンタルピーは、強くとも −13 kJ/mol 程度にとどまり、配位子の変更や金属の種類を変更しても室温水素貯蔵の最適値である −15∼25 kJ/mol に達するのは難しい。

2021 年ごろから軌道相互作用によってガスと相互作用できる金属サイトが MOF 中で実現されるようになった。特に前周期 3d 遷移金属である V2+ を持つ MOF (V2Cl2,8(btdd); H2btdd = bis(1H-1,2,3-triazolo[4,5-b],[4′,5′-i])dibenzo[1,4]dioxin )が、−21 kJ/mol の吸着エンタルピーを示し、多孔性吸着剤として初めて最適な吸着エンタルピーが得られることが報告された8。2024 年には低酸化状態を持つ金属サイトの CuI において、三角錐構造を調整することでその π 逆供与能力を調節し、二例目の最適吸着エンタルピーを示す MOF も報告された 9(下図; 関連記事: Cu(I) の構造制御による π 逆供与の調節【低圧室温水素貯蔵への一歩】) 。水素分子による金属への配位の研究は、MOF の発展によってふたたび興味を集めて始めている。

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参考文献

  1. この記事の内容は, 特にことわりのない限りこのレビューに基づいている. Kubas, G. J. Chem. Rev. 2007, 107, 4152–4205. (DOI: 10.1021/cr050197j)
  2. Crabtree, R. H. Angew. Chem., Int. Ed. Engl. 1993, 32, 78. (DOI: 10.1002/anie.19930789)
  3. Bender, B. R.; Kubas, G. J.; Jones, L. H.; Swanson, B. I.; Eckert, J.; Capps, K. B.; Hoff, C. D. J. Am. Chem. Soc. 1997, 119, 9179.(DOI: 10.1021/ja971009c)
  4. Jia, G.; Lau, C.-P. Coord. Chem. Rev. 1999, 190, 83. (10.1016/S0010-8545(99)00066-1)
  5. Furukawa, H.; Kordova, K. E.; O’Keeffe, M.; Yaghi, O. M. Science 2013, 341, 1230444. DOI: 10.1126/science.1230444)
  6. Kapelewski, M. T.; Geier, S. J.; Hudson, M. R.; Stuk, D.; Mason, J. A.; Nelson, J. N.; Xiao, D. J.; Hulvey, Z.; Gilmour, E.; FitzGerald, S. A.; Head-Gordon, M.; Brown, C. M.; Long, J. R. J. Am. Chem. Soc. 2014, 136, 12119. (DOI: 10.1021/ja506230r)
  7. Kapelewski, M. T.; Runčevski, T.; Tarver, J. D.; Jiang, H. Z. H.; Hurst, K. E.; Parilla, P. A.; Ayala, A.; Gennett, T.; FitzGerald, S. A.; Brown, C. M.; Long, J. R. Chem. Mater. 2018, 30, 8179−8189. (DOI: 10.1021/acs.chemmater.8b03276)
  8. Jaramillo, D. E.; Jiang, H. Z. H.; Evans, H. A.; Chakraborty, R.; Furukawa, H.; Brown, C. M.; Head-Gordon, M.; Long, J. R. Ambient-Temperature Hydrogen Storage via Vanadium(II)-Dihydrogen Complexation in a Metal–Organic Framework. J. Am. Chem. Soc. 2021, 143 (16), 6248–6256. https://doi.org/10.1021/jacs.1c01883
  9. Yabuuchi, Y.; Furukawa, H.; Carsch, K. M.; Klein, R. A.; Tkachenko, N. V.; Huang, A. J.; Cheng, Y.; Taddei, K. M.; Novak, E.; Brown, C. M.; Head-Gordon, M.; Long, J. R. Geometric Tuning of Coordinatively Unsaturated Copper(I) Sites in Metal–Organic Frameworks for Ambient-Temperature Hydrogen Storage. J. Am. Chem. Soc. 2024, 146 (32), 22759–22776. DOI: 10.1021/jacs.4c08039

 

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ポスドク。学部レベルの基礎知識の解説から、最先端の論文の解説まで幅広く頑張ります。高専出身。

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