概要
ルーシェ還元(Luche Reduction)は、フランスの化学者 Jean-Louis Luche が1978年に報告した、塩化セリウム CeCl₃・7H₂Oと水素化ホウ素ナトリウムNaBH₄を組み合わせて、α,β-不飽和ケトン(エノン)を位置選択的に1,2-還元しアリルアルコールを与える手法である。[1][2]
NaBH₄単体でエノンを還元すると、1,2-還元(カルボニルへのヒドリド付加→アリルアルコール)と 1,4-還元(共役付加→飽和ケトンないし飽和アルコール)が競合し、しばしば混合物を与える。 ここにCeCl₃・7H₂Oを共存させると1,2-還元が優先し、対応するアリルアルコールが 選択的に得られる。反応は室温付近・メタノール溶媒で速やかに進行し(原報でも数分オーダーと 短時間であることが特徴とされる)、操作も簡便である。
適用範囲は広く、非環状・環状のエノンやエナールに用いられるほか、エステル・アセタール・ ハロゲン・スルフィドなど多くの官能基を損なわずに進行するとされ、複雑化合物の合成に適する。
反応機構
CeCl₃はルイス酸/メタノリシス触媒として働き、メタノール溶媒中でNaBH₄の メタノール分解(配位子交換)を促進して、段階的にメトキシ体 NaBHn(OMe)(4-n) を生成させると考えられている。生じたメトキシヒドリドは、 母体のBH₄⁻よりもハード(hard)な還元種となり、HSAB(ハード・ソフト酸塩基)則の 観点から、よりハードな求電子中心であるカルボニル炭素(1,2-付加)を選好する。 その結果、ソフトな共役付加(1,4-付加、β炭素への付加)が抑制され、1,2-還元体である アリルアルコールが優先して生成する。[2] 加えて、Ce³⁺がカルボニル酸素に配位してカルボニルの求電子性を高める寄与や、 アルデヒド共存時にはCe(III)がアルデヒドのアセタール化(メタノール中)を促し、 アルデヒドを一時的に還元不活性化する寄与も指摘される。
特徴・適用範囲・類似反応との比較
ルーシェ還元の要点は「NaBH₄にCeCl₃を足すだけで、エノンの還元を1,4優先から 1,2優先へ切り替えられる」点にある。以下に、エノンの還元における代表的手法との 使い分けの目安を示す。
| 手法 | 主な選択性 | 中間体・活性種 | 使い分けの目安 |
|---|---|---|---|
| ルーシェ還元(NaBH₄ / CeCl₃・7H₂O, MeOH) | 1,2-還元(アリルアルコール) | ハード化したメトキシヒドリド NaBHn(OMe)(4-n) | エノン→アリルアルコールの標準法。短時間・簡便・官能基許容性が広い |
| NaBH₄単独 | 1,2/1,4が競合(しばしば混合) | BH₄⁻ | 単純な飽和ケトン・アルデヒド向け。エノンでは選択性が低い |
| DIBAL-H | 1,2-還元 | 求電子的Al–H | エノンの1,2-還元に有効だが概して低温が必要 |
| ストライカー試薬[(Ph₃P)CuH] | 1,4-還元(共役還元) | 銅ヒドリド | 逆に飽和ケトンが欲しいとき。1,2とは相補的 |
| CBS還元(Corey–Bakshi–Shibata) | 1,2-還元・エナンチオ選択的 | オキサザボロリジン–ボラン | 不斉が必要な場合。ルーシェは基本的に不斉制御なし |
| L/N/K-Selectride | 立体選択的な1,2など(かさ高い) | トリアルキルボロヒドリド | 立体(ジアステレオ)選択性を細かく制御したい場合 |
なお近年は、CeCl₃を使わずに同じ「エノンの化学選択的1,2-還元(ルーシェ型)」を実現する 触媒的手法も報告されている。たとえばキラルなN,N′-ジオキシド–Sc(III)錯体と ホウ素水素化物による触媒的不斉1,2-還元[5]、マグネシウム触媒とピナコールボラン(HBpin)によるMg触媒ルーシェ型還元[6]などがあり、従来のNaBH₄/CeCl₃系を補完する 選択肢として位置づけられる。
反応例
アルデヒドとケトンが共存する基質においては、Ce(III)の触媒作用によってアルデヒドがアセタール化(もしくはヘミアセタール化・gem-ジオール化)され、ヒドリド還元を受けない。このため、ケトンのみを選択的に還元することが出来る。
岸義人らの (±)-バトラコトキシニンA(Batrachotoxinin A)全合成において、 ステロイド系エノン部位のルーシェ還元が一工程として用いられている[4]。
実験手順
- エノン基質をメタノールに溶かし、CeCl₃・7H₂O(基質に対しおよそ1当量前後)を加えて 撹拌・溶解させる。氷冷(0 ℃付近)しておくと発熱・発泡を抑えやすい。
- ここにNaBH₄(およそ1〜1.5当量)を数回に分けて加える。 NaBH₄添加時は水素ガスの発生と発熱・発泡が起こるため、少量ずつゆっくり加える、との 注意が複数の解説で共有されている。
- 反応は速やかに進行し、原報では数分オーダー、解説によっては数十分程度で完結するとされる。TLC等で反応を追跡し、エノンの消失を確認する。
- 反応完了後、飽和塩化アンモニウム水溶液や水で低温にてクエンチし、有機溶媒(酢酸エチル等)で 抽出、洗浄・乾燥・濃縮の後、必要に応じてカラムクロマトグラフィーで精製してアリルアルコールを得る。
水に敏感な基質では、7水和物に代えて無水CeCl₃を用いる場合がある。
実験のコツ・テクニック
- NaBH₄はゆっくり・分割添加:NaBH₄をメタノールに加えると水素発生・発泡・発熱を伴う。 一度に大量投入すると突沸・過度の発泡の原因になるため、0 ℃付近で少量ずつ加えるとよい。
- CeCl₃・7H₂O と無水CeCl₃の使い分け:通常は入手容易な7水和物で足りるが、 水に敏感な基質・条件では無水体を選ぶ。無水CeCl₃の調製・乾燥は水和水の脱離が難しいことが知られ、注意を要する。
参考文献
- Luche, J.-L. J. Am. Chem. Soc. 1978, 100, 2226–2227. DOI: 10.1021/ja00475a040
- Gemal, A. L.; Luche, J.-L. J. Am. Chem. Soc. 1981, 103, 5454–5459. DOI: 10.1021/ja00408a029
- Luche, J.-L.; Rodriguez-Hahn, L.; Crabbé, P. J. Chem. Soc., Chem. Commun. 1978, 601–602. DOI: 10.1039/C39780000601
- Kurosu, M.; Marcin, L. R.; Grinsteiner, T. J.; Kishi, Y. J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 6627. DOI: 10.1021/ja981258g
- He, P.; Liu, X.; Zheng, H.; Li, W.; Lin, L.; Feng, X. Org. Lett. 2012, 14, 5134–5137. DOI: 10.1021/ol302430h
- Jang, Y. K.; Magre, M.; Rueping, M. Org. Lett. 2019, 21, 8349–8352. DOI: 10.1021/acs.orglett.9b03131
関連反応
- 水素化ジイソブチルアルミニウム Diisobutylaluminium hydride (DIBAL-H)
- 水素化リチウムアルミニウム Lithium Aluminum Hydride (LAH)
- ストライカー試薬 Stryker’s Reagent
- コーリー・バクシ・柴田還元 Corey–Bakshi–Shibata (CBS) Reduction
- メーヤワイン・ポンドルフ・ヴァーレイ還元 Meerwein–Ponndorf–Verley (MPV) Reduction
- ボーチ還元的アミノ化反応 Borch Reductive Amination
- ティシチェンコ反応 Tishchenko Reaction
- カニッツァロ反応 Cannizzaro Reaction
- 野依不斉水素移動反応 Noyori Asymmetric Transfer Hydrogenation
- 金属水素化物による還元 Reduction with Metal Hydride
関連リンク
- Luche reduction – Wikipedia(英語)(機構・選択性・文献の概観)
- Luche Reduction – organic-chemistry.org(機構の要点と関連文献。非査読)
- Chemoselective Luche-Type Reduction by Mg Catalysis(要旨)– organic-chemistry.org(Mg触媒ルーシェ型還元[6]の要旨)
- Cerium(III) chloride – Wikipedia(英語)(CeCl₃・7H₂O/無水体の性質)
- Luche reduction – Grokipedia(適用範囲・実務的条件・注意点の解説)
- 有機って面白いよね!!「1,2-還元と1,4-還元」

































