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何をする反応か — Pd触媒存在下、ハロゲン化アリール/アルケニル(またはトリフラート)とアルケンをカップリングさせ、アルケンのC–H一つをC–C結合に置き換えて置換オレフィンを与える反応。有機金属試薬を一切使わない点が最大の特徴である。
何ができるか — 芳香環とオレフィンの直結、分子内版による環化(四級不斉炭素を含む縮環骨格の構築)、ドミノ/カスケード化による多環骨格の一気組み上げ。
いつ使うか — カップリング相手のオレフィンが市販品または既存中間体としてそのまま使えるとき。事前に有機ホウ素・有機亜鉛などへ誘導する必要がないため、段階経済性で他のクロスカップリングに勝る。逆に、位置選択性(α/β)や生成オレフィンの幾何を厳密に決めたい場合は、鈴木・宮浦反応などの方が読みやすい。
概要
溝呂木・ヘック反応(Mizoroki-Heck reaction)は、1971年に溝呂木勉・森賢二・尾崎萃がヨードベンゼンとオレフィンの酢酸パラジウム触媒反応として報告し[1]、1972年に Heck と Nolley が独立に系統的な条件を確立した[2] 反応である。有機金属試薬を用いずにsp²炭素同士を直接つなぐ最初期のパラジウム触媒クロスカップリングであり、Heck は根岸英一・鈴木章とともに「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」の功績で2010年のノーベル化学賞を受賞している。
形式的には「アルケンのビニル位C–Hの置換」であり、アルケン側に脱離基も金属も必要ない。この「余計な官能基化を経ない」性質が、全合成の終盤や大量合成で好まれる理由である。反応全体を俯瞰する古典的な総説[3–6] を参照されたい。官能基許容性が高く、エステル・ケトン・ニトリル・遊離アミン・ヘテロ環などが概ねそのまま残る。
位置選択性については、アクリル酸エステル・スチレン・アクリロニトリルのような電子求引基をもつアルケン(Michael受容体型)では、置換基のないβ炭素で選択的にC–C結合が生成し、(E)-体が優先的に得られる。一方、エノールエーテル・エナミドのような電子豊富アルケンでは、中性経路では位置選択性の制御が難しい。ただし後述のとおり、これは「制御できない」のではなく「経路を選べば制御できる」問題であることが後に明らかになった。
生成したオレフィンがさらにパラジウムヒドリドと反応して二重結合が異性化する系では、当初これは副反応とみなされていた。たとえばアリルアルコール類を基質に用いると、挿入後に生じるオレフィンが異性化してエノールとなり、最終的にカルボニル化合物が得られる。この「異性化してしまう」という性質を制御可能な道具へ転じたのが、2010年代のレドックスリレーHeck反応である(反応例を参照)。
分子内Heck反応は、Diels–Alder反応と並んで四級不斉炭素を含む縮環化合物を構築できる数少ない方法論であり、キラルホスフィン配位子を用いる不斉分子内Heck反応は天然物全合成の標準的な戦略のひとつとなっている[7,8]。2021年以降の全合成への適用例は、2026年の総説に整理されている[9]。
反応機構
(1) 基本サイクル(Pd(0)/Pd(II))
古典的な触媒サイクルは次の4段階からなる。
- 酸化的付加 — Pd(0)がR¹–X結合に挿入し、R¹–Pd(II)–X を生成する。反応性は I > OTf > Br >> Cl の順。
- アルケンの配位とmigratory insertion — アルケンがPdに配位し、R¹とPdがアルケンの二重結合に syn付加 する。
- 結合回転とβ-ヒドリド脱離 — 脱離すべきβ-ヒドリドがPdと syn の関係になるよう C–C 結合が回転したのち、β-ヒドリド脱離が起こって生成物オレフィンとH–Pd(II)–Xを与える。
- 還元的脱離(塩基による再生) — 塩基がH–Pd(II)–XからHXを取り除き、Pd(0)を再生する。
migratory insertion と β-ヒドリド脱離がともに syn で進行するという点は、この反応の立体化学を理解する上で決定的に重要である。とくに分子内Heck反応で縮環化合物を組む場合、「syn脱離できるβ-ヒドリドが存在するか」が生成物の骨格そのものを決める。
(2) 中性経路・カチオン性経路・アニオン性経路
酸化的付加後の R¹–Pd(II)–X にアルケンが配位するには、配位座を空ける必要がある。その空け方の違いが3つの経路を生む。
- 中性経路(neutral pathway) — ホスフィンが1つ解離して中性の R¹–Pd(II)X(L) にアルケンが配位する。ハロゲン化物をそのまま使う古典条件はこれに該当する。電子豊富アルケンでは、Pd–X の分極が小さいため α/β 選択性が出にくい。
- カチオン性経路(cationic pathway) — X⁻ が解離して カチオン性 [R¹–Pd(II)L₂]⁺ が生じる。Pdの求電子性が上がるため、電子豊富アルケンに対しても α選択的(酸素・窒素が付いた炭素側で結合形成)に進行しやすい。またキラルな二座ホスフィンがPdから外れずに保持されるため、不斉Heck反応にはこの経路が必須である。基質としてトリフラートを用いるか、ハロゲン化物+Ag塩・Tl塩を添加してハロゲン化物イオンを捕捉することで、この経路に乗せる。
- アニオン性経路(anionic pathway) — 系内のハロゲン化物イオンや酢酸イオンがPd(0)に配位し、[Pd(0)L₂X]⁻ のようなアニオン性種として酸化的付加が起こる。Amatore と Jutand による一連の電気化学的研究に始まる描像で、近年は「無配位子(ligandless)」条件下のアニオン性パラジウム種として計算・実験の両面から支持されている[11]。N-ヘテロ環状カルベン系でも同様のアニオン性パラダート経路が提案されている[12]。
実務上の要点は単純で、「選択性が出ない/ee が上がらないときは、まず経路を変える」 ということである。ハロゲン化物をトリフラートに変える、あるいは Ag₂CO₃・AgOTf を加えるという操作は、条件の微調整ではなく機構そのものの切り替えにあたる。
(3) 活性種は単一とは限らない(現代的な理解)
かつては「パラダサイクルやPdナノ粒子といった特殊な触媒がそれ自体で回っている」と説明されることがあったが、現在ではこの描像は修正されている。
Ananikov らが提唱した 「触媒のカクテル(cocktail of catalysts)」 の考え方では、モノマー錯体・クラスター・ナノ粒子・担体からリーチングしたPd種が系内で動的に相互変換しており、どれが主たる活性種であるかは基質・温度・配位子・添加剤に依存する[13,14]。
とくに、後述する Herrmann–Beller パラダサイクルについては、2024年の2報がこの点を明確にした。P(o-tolyl)₃ 配位子が高次のパラダサイクリック・クラスター形成を促すこと[15]、およびこの系が Pd(0)/Pd(II) と Pd(II)/Pd(IV) の双方の経路を含む活性種の混合物として働くこと[16] が報告されている。すなわち パラダサイクルは活性種そのものではなく前駆触媒(precatalyst)と理解するのが妥当 と考えられる。この理解は、同じ触媒でも条件により結果が大きく振れる現象や、再現性の議論を整理する上で有用である。
(4) 主な副反応・失敗様式
- オレフィンの異性化 — 生成物が系内のH–Pd–Xと再度反応し、二重結合が移動する。共役位置や熱力学的に安定な位置へ動いてしまう。
- 位置異性体の混合 — 電子的に中性ないし電子豊富なアルケン、および1,2-二置換(内部)アルケンで顕著。
- Pdブラックの析出 — 配位子不足・高温・還元性条件で Pd(0) が凝集し失活する。無配位子条件では逆にナノ粒子が活性種側に寄与しうるため、単純に「悪」とは言えない。
- β-水素脱離による分解(sp³ハライド使用時) — 後述。
- ジアリール化・ホモカップリング — 過剰のハロゲン化アリールや酸化的条件下で起こる。
特徴・適用範囲・類似反応との比較
強み
- オレフィンを前活性化せずに使える。 有機ホウ素・有機亜鉛・有機スズへの変換工程が不要で、段階経済性に優れる。市販のアクリル酸エステル・スチレン・アクリロニトリルがそのまま使える。
- 官能基許容性が高い。 有機金属試薬を使わないため、エステル・ケトン・アルデヒド・ニトリル・遊離アミン・遊離水酸基が概ね生存する。金属試薬由来の塩基性・求核性による副反応を考えなくてよい。
- 毒性の高い金属試薬を使わない。 スズ(右田・小杉・スティル)や大量の有機亜鉛(根岸)と比べ、廃棄物プロファイルが良い。
- 四級炭素を作れる。 分子内Heck反応は、立体的に混み合った四級(不斉)炭素を構築できる数少ない手法である[7,8]。
- 触媒回転数を極めて高くできる。 適切な前駆触媒と条件では、10⁵〜10⁶オーダーのTONが報告されている。Pd使用量を大幅に削減できる点で工業的に重要である。
- 工業化の実績がある。 ナプロキセン(臭素化ナフタレン+エチレン)や日焼け止め成分オクチルメトキシシンナメートの製造がHeck反応の代表的な工業例として知られている[40]。
弱み・注意点
- 1,2-二置換(内部)アルケンは苦手。 挿入後にsyn脱離可能なβ-ヒドリドが複数存在し、位置・幾何選択性が崩れる。実務上は末端オレフィンに限定して計画するのが安全である。
- 電子豊富アルケンの位置選択性制御には経路の切り替えが必要。 中性条件のままではα/β混合になりやすい。
- 古典条件ではsp³アルキルハライドが使えない。 酸化的付加後の アルキル–Pd 中間体が即座にβ-ヒドリド脱離して分解するため。ただしこの制約は、ラジカル型Heckの登場で部分的に解除されている。
- アリールクロリドは古典条件では不活性。 安価なアリールクロリドを使うには、かさ高く電子豊富なホスフィン(P(t-Bu)₃ 等)やNHC配位子が必要である[36]。
- 高温を要することが多い。 100〜140 ℃、DMF/DMA/NMP といった高沸点極性非プロトン性溶媒が標準で、熱に弱い基質・保護基には向かない。
- 不斉化にはカチオン性条件が必須で、Ag塩・Tl塩のコストと廃棄が問題になる。
- オレフィンの異性化が意図せず進行しうる。 ただし後述のとおり、これは設計次第で利点にも転じる。
派生反応の系譜
| 反応 | 求電子剤 | 終結段階 | 何が解決されるか | 代表文献 |
|---|---|---|---|---|
| 古典的Heck | Ar–X, ArOTf | β-ヒドリド脱離 | 標準。オレフィンを前活性化せず使える | [1,2] |
| 不斉分子内Heck | ArOTf(またはArX+Ag塩) | β-ヒドリド脱離 | 四級不斉炭素の構築 | [7,8] |
| ドミノ/カスケードHeck | Ar–X | 2度目以降の挿入 → 脱離 | syn-β-ヒドリドが無い設計で多環骨格を一気に組む | [20] |
| π-アリルPd捕捉型 | Ar–X + 1,3-ジエン | 求核剤による π-アリルPdの捕捉 | C–C と C–N を1工程で作る | [19] |
| 還元的Heck | Ar–X | ヒドリド源によるプロトン化 | β-ヒドリド脱離を止め、sp³中心を残す | [28,29,30] |
| 酸化的Heck(藤原・守谷型) | ArB(OH)₂ または Ar–H | β-ヒドリド脱離(酸化剤でPd(II)再生) | ハロゲン化物が不要。ただし酸化剤が必要 | [37] |
| レドックスリレーHeck | Ar–X / ArB(OH)₂ | 連鎖的なβ-ヒドリド脱離/再挿入 → 遠隔位でカルボニル化 | 「異性化」を遠隔位官能基化の道具に転用 | [25,26,27] |
| 脱芳香族化Heck | Ar–X(分子内) | 芳香環への挿入 | インドール等を脱芳香族化して立体中心を作る | [31,32] |
| ラジカル型Heck(アルキルハライド) | R(sp³)–X | ラジカル機構 | 「sp³ハライドは使えない」制約の解除 | [33,34] |
類似反応との使い分け
- 鈴木・宮浦クロスカップリングとの比較 — 鈴木法はオレフィン側をあらかじめアルケニルボロン酸に変換する工程を要するが、その代わりに幾何と位置が確定した状態でカップリングできる。幾何純度を最優先するなら鈴木法、工程数を最優先するならHeck、という整理が実務的である。
- 藤原・守谷反応(酸化的Heck / 脱水素型Heck)との比較 — ハロゲン化アリールすら不要でアレーンのC–Hを直接使えるが、化学量論量の酸化剤を要し、アレーン側の位置選択性という別の問題が生じる。ハロゲン化アリールが容易に入手できるなら古典的Heckの方が読みやすい。
- 辻・トロスト反応との関係 — 1,3-ジエンを用いるHeckでは挿入後にπ-アリルPd中間体が生じる。ここを求核剤で捕捉すれば、実質的にHeck/辻・トロストのカスケードとなる。
- 還元的Heck vs. ヒドロアリール化 — sp³中心を残したい場合、還元的Heckが第一選択となる。近年はNi触媒+キラルNHC配位子により、アリールブロミド/クロリドを用いる不斉還元的Heckも報告されている[30]。
反応例
クリプトフィシン系(Arenastatin A)合成における分子間Heck反応[17]
末端オレフィンとヨードベンゼンを Pd(OAc)₂/トリエチルアミン条件でカップリングさせ、(E)-スチリル基を84%で導入している。TBSエーテル・tert-ブチルエステル・共役エノアートが共存したまま、末端オレフィンだけが選択的に反応している点が、この反応の官能基選択性をよく表している。分子内に既存の (E)-エノアートがあるにもかかわらず、より置換の少ない末端オレフィンが選択的に反応していることにも注目。
アリールアミン類との不均一系Heck反応[18]
モンモリロナイトK10に担持したPd–Cu触媒を用い、酢酸還流下でアリールアミンとアクリル酸メチルをカップリングさせる。遊離のアミノ基が保護されずに残る点、および担体を用いる不均一系である点が特徴である。ただし前述のとおり、不均一系Pd触媒は「リーチングした均一系Pd種が真の活性種である」可能性が常にあり、触媒の再利用性を主張する際には熱濾過試験などの検証が必要と考えられる[13,14]。
π-アリルパラジウム中間体の捕捉:(−)-スピロトリプロスタチンB合成[19]
1,3-ジエンを内蔵する基質に対して分子内Heck環化を行うと、β-ヒドリド脱離ではなく π-アリルパラジウム中間体 で止まる。ここをジケトピペラジン側のアミドN原子が分子内で求核攻撃し、スピロオキシインドール骨格が一挙に構築される。Pd₂(dba)₃·CHCl₃/P(o-Tol)₃/KOAc/THF、70 ℃で72%(dr 1:1)。求核攻撃はパラジウムに対して 逆面(anti) から起こる。Heck挿入(syn)と π-アリル置換(anti)で立体化学の入り方が逆になるため、両者を連結したカスケードでは「どちらの段階の立体化学か」を常に区別して考える必要がある。
Scopadulcic Acid A 合成におけるドミノHeck反応[20]
Pd(OAc)₂(10 mol %)/PPh₃(20 mol %)/Ag₂CO₃/THF、65 ℃。アルケニルヨージドから生じたアルケニルPdが1つ目のオレフィンに挿入した後、生じたアルキルPd中間体には synの位置に脱離すべきβ-ヒドリドが存在しない。そのためサイクルは停止せず、2つ目のオレフィンが挿入して橋かけ多環骨格を与える。「β-ヒドリド脱離を意図的に不可能にしておく」という設計が、Heck反応をカスケード化するうえでの中心的な考え方である。Ag₂CO₃はハロゲン化物イオンを捕捉してカチオン性経路に乗せると同時に、生じるHIを捕捉する役割も担っていると考えられる。
不斉Heck反応:(−)-Epitazocine 合成[21]
アリールトリフラートを基質とし、Pd(OAc)₂(7 mol %)/(R)-BINAP(17 mol %)/K₂CO₃(3当量)/THF、60 ℃、72時間で、90%収率・90% ee で四級不斉炭素をもつテトラリン骨格を得ている。トリフラートイオンは配位性が低いためPdから容易に解離し、キラル二座ホスフィンが配位したまま カチオン性経路 に乗る。ハロゲン化物を使う場合はハロゲン化物イオンがキラル配位子を押しのけてしまうため、Ag塩・Tl塩の添加が必要になる。
Herrmann–Bellerパラダサイクルによる高TON条件[23,24]
酢酸パラジウムと P(o-Tol)₃ から調製される酢酸架橋二核パラダサイクルを用いると、4′-ブロモアセトフェノンとアクリル酸ブチルのカップリングが NaOAc/Bu₄NBr/DMA、130 ℃、24時間で定量的に進行する。この系は空気・水分に安定で、非常に低い触媒担持量でも回ることから、10⁵〜10⁶オーダーのTONが報告されている。現在ではこのパラダサイクルは 前駆触媒 と理解されている。P(o-Tol)₃ が高次パラダサイクリック・クラスターの形成を促すこと[15]、および Pd(0)/Pd(II) と Pd(II)/Pd(IV) の両経路を含む活性種の混合物が働いていること[16] が2024年に報告された。
レドックスリレーHeck反応[25,26,27]
Sigman らは、アルケニルアルコールを基質としてアリール化を行うと、生じたPdヒドリドが鎖に沿ってchain walkingを進行させ、最終的に水酸基の位置でβ-ヒドリド脱離してケトン/アルデヒドを与えることを示した。しかもキラル配位子を用いることで、生成する遠隔位の不斉中心を制御できる[25]。かつて副反応として記述されていた現象が、現在では遠隔位不斉官能基化の方法論になっている。 機構と選択性の詳細な解析[27]、および総説[26]も参照。
還元的Heck反応[28,29,30]
ヒドリド源(ギ酸塩、シラン等)を共存させると、挿入後のアルキルPd中間体がβ-ヒドリド脱離する前にプロトン化され、オレフィンを再生せずにsp³炭素が残る。ガランタミン/リコラミンの全合成では分子内還元的Heck環化が鍵段階として用いられている[29]。近年はNi触媒+キラルNHC配位子により、アリールブロミドに加え アリールクロリド を用いる不斉還元的Heckも報告されている[30]。
脱芳香族化Heck反応[31,32]
インドール等のヘテロ芳香環に対して分子内Heck挿入を行うと、芳香族性を犠牲にして四級炭素を含むインドリン骨格が構築できる。エナンチオ選択的な分子内版[31]に加え、2025年には分子間版の不斉脱芳香族アリール化も報告されている[32]。
ラジカル型Heck(sp³ハライドの利用)[33,34]
「アルキルハライドはβ-ヒドリド脱離のため使えない」という古典的制約は、ラジカル機構を経由する条件で部分的に解除された。Pd触媒によるアルキルヨージドのHeck型反応[33]、および光照射により室温で進行する非活性化アルキルハライドのHeck反応[34]が報告されている。
マクロ環化への応用[35]
分子内Heck反応は大環状化にも用いられる。マクロラクトン化や閉環メタセシスと並ぶ選択肢であり、天然物全合成におけるHeckマクロ環化の総説がある[35]。
実験手順
標準的な実施例:アルケニルブロミドとアクリル酸メチルの分子間Heck反応[22]
- 反応容器に 3-ブロモ-2-メチルアクリル酸メチル(1.0当量)、アクリル酸メチル(1.2当量)、Pd(OAc)₂(1 mol %)、PPh₃(2 mol %)、トリエチルアミン(1.25当量)を入れる。
- 系内をアルゴン置換する。
- 100 ℃で8時間撹拌する。
- 反応液をエーテルで希釈する。
- 析出した Et₃N·HBr を濾別する。
- 揮発分を減圧留去する。
- 蒸留またはカラムクロマトグラフィーで精製することで、 2-メチルヘキサ-2,4-ジエン二酸ジメチルが 60% で得られる。
※手順の設計意図
- Pd(OAc)₂ と PPh₃ は 1:2 で用いる。PPh₃ が過剰だと配位飽和で挿入が遅くなり、少なすぎるとPdブラックが析出する。
- Et₃N は塩基(HX捕捉剤)として1当量強を要する。触媒量では回らない.
- アクリル酸メチルを1.2当量とやや過剰にするのは、高温での重合・揮発による損失を見込んでいるためである。
変法A:カチオン性条件(不斉化・電子豊富アルケン向け)
- 基質をハロゲン化物ではなく トリフラート に変える。あるいはハロゲン化物のまま Ag₂CO₃・AgOTf・Tl₂CO₃ 等を1〜2当量加える。
- キラル二座ホスフィン((R)-BINAPなど)をPdに対して2〜2.5当量用いる。
- 塩基は K₂CO₃ など弱めの無機塩基、溶媒は THF などの配位性の低いものを選ぶ。
- 温度は60 ℃程度から検討する。
変法B:無配位子・相間移動条件(Jeffery型)
- ホスフィンを加えず、Pd(OAc)₂ 単独(1〜5 mol %)を用いる。
- Bu₄NBr または Bu₄NCl を1当量程度加える。四級アンモニウム塩がPdナノ粒子を安定化し、同時に相間移動剤として働くと考えられている。
- 塩基は K₂CO₃ / NaHCO₃ / NaOAc、溶媒は DMF または水系。
- 温度は室温〜90 ℃。ホスフィンを使う条件より低温で進行することが多い。
高価なホスフィンを使わずに済むため、スケールアップ時の第一選択となりうる。ただし活性種がナノ粒子側に寄る可能性があり、不斉化には向かない。
変法C:アリールクロリドを使う条件[36]
- かさ高く電子豊富なホスフィン(P(t-Bu)₃)を用いる。
- 塩基は Cs₂CO₃ など。
- 室温〜穏和な加熱で、アリールクロリド・アリールブロミドの双方に適用できると報告されている[36]。
実験のコツ・テクニック
- 「選択性が出ない」ときは条件ではなく経路を疑う。 α/β選択性が割れる、ee が上がらない、という症状は、中性経路で進行していることが原因である場合が多い。基質をトリフラートに変える、あるいは Ag₂CO₃ を加えてカチオン性経路に乗せるのが定石である。これは条件の微調整ではなく機構の切り替えであり、効くときは劇的に効く。
- 末端オレフィンに限定して計画する。 1,2-二置換アルケンを使うと、挿入後にsyn脱離できるβ-ヒドリドが複数生じ、位置異性体と幾何異性体の混合物になる。合成計画の段階で末端オレフィンに落とし込んでおくのが最も確実である。
- ホスフィン/Pd比は 2:1 を起点に振る。 Pd(OAc)₂ に対して PPh₃ を2当量が標準。Pdブラックが析出するなら配位子を増やし、反応が遅いなら減らす。かさ高い配位子(P(o-Tol)₃、P(t-Bu)₃)では 1:1 付近が良いこともある。
- 塩基は化学量論量必要。 Heckサイクルは1回転ごとにHXを1つ放出する。塩基が触媒量では回らない。Et₃N・i-Pr₂NEt・K₂CO₃・NaOAc が標準。アミン塩基は還元剤としてPd(II)→Pd(0)の初期還元にも寄与すると考えられている。
- 脱酸素を丁寧に。 Pd(0)は酸素に敏感である。ただし Pd(II) 前駆体から Pd(0) を系内生成させる場合は、微量の酸素より 配位子の酸化 の方が問題になることが多い。ホスフィンは酸化されてホスフィンオキシドになると配位できない。古いPPh₃瓶は疑ってよい。
- Pdブラックが出たら「失敗」とは限らない。 無配位子条件ではナノ粒子が活性種側に寄与しうる[13,14]。黒くなったのに反応が進んでいるという観察は珍しくない。逆に、再現性が悪い系では活性種が単一でない可能性を疑うべきである。
- 不斉Heckでは銀塩の質と当量が効く。 Ag₂CO₃・AgOTf は光・湿気で劣化する。褐色瓶・遮光での保管と、使用直前の状態確認を推奨する。当量が不足するとハロゲン化物イオンが残り、カチオン性経路に完全には乗らない。
- 高沸点極性溶媒(DMF/DMA/NMP)は後処理が重い。 大量の水で希釈して抽出する必要があり、生成物が水溶性寄りだと回収率が落ちる。トルエン・THF・アセトニトリルで進むなら、そちらを先に試す価値がある。
- Pd残留に注意。 医薬品原薬を意識する場合、Pd残留基準(一般に10 ppm程度)を満たすために、活性炭・金属スカベンジャー樹脂(チオール修飾シリカ等)による処理が必要になることが多い。低触媒担持量の条件(Jeffery型、パラダサイクル型、フロー条件)を選んでおくと後段が楽になる。
- グリーン化の選択肢を知っておく。 ミセル系界面活性剤(TPGS-750-M)を用いる水中クロスカップリング[38]、連続フロー条件での低担持量Heck[39] などが報告されている。配位子系・アリールクロリド活性化・無配位子/ナノ粒子条件・グリーン溶媒の全体像は総説[10]に整理されている。
- 旧来の「できない」を鵜呑みにしない。 sp³アルキルハライド[33,34]、アリールクロリド[36]、電子豊富アルケンの位置選択性、遠隔位の官能基化[25,26,27] — いずれも2000年以降に部分的な解決策が出ている。教科書的な制約リストは、方法論の年代とセットで読む必要がある。
参考文献
【原著】
- Mizoroki, T.; Mori, K.; Ozaki, A. Bull. Chem. Soc. Jpn. 1971, 44, 581.(溝呂木らによる最初の報告)
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【総説】
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- de Meijere, A.; Meyer, F. E. Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1994, 33, 2379.
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- Dounay, A. B.; Overman, L. E. Chem. Rev. 2003, 103, 2945. DOI: 10.1021/cr020039h(不斉分子内Heck反応の全合成応用)
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【機構・活性種】
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- Ananikov, V. P. et al. “Understanding active species in catalytic transformations: From molecular catalysis to nanoparticles, leaching, ‘Cocktails’ of catalysts and dynamic systems” J. Organomet. Chem. 2017.
- “Cocktail of Catalysts: A Dynamic Advance in Modern Catalysis” Chemistry (MDPI) 2025, 7, 109. DOI: 10.3390/chemistry7040109
- “The ubiquitous P(o-tol)₃ ligand promotes formation of catalytically-active higher order palladacyclic clusters” Chem. Sci. 2024, 15, 18627. DOI: 10.1039/D4SC05346J
- “Revealing the Hidden Complexity and Reactivity of Palladacyclic Precatalysts: The P(o-tolyl)₃ Ligand Enables a Cocktail of Active Species Utilizing the Pd(II)/Pd(IV) and Pd(0)/Pd(II) Pathways for Efficient Catalysis” ACS Catal. 2024, 14, 12769. DOI: 10.1021/acscatal.4c02585
【反応例】
- Georg, G. I. et al. J. Org. Chem. 2000, 65, 7792. DOI: 10.1021/jo000767+(Arenastatin A / クリプトフィシン系)
- Waterlot, C.; Couturier, D. et al. Tetrahedron Lett. 2000, 41, 317. DOI: 10.1016/S0040-4039(99)02082-1(モンモリロナイト担持Pd–Cu触媒によるアリールアミンとアクリル酸メチルのカップリング)
- Overman, L. E.; Rosen, M. D. “Terminating Catalytic Asymmetric Heck Cyclizations by Stereoselective Intramolecular Capture of η³-Allylpalladium Intermediates: Total Synthesis of (−)-Spirotryprostatin B and Three Stereoisomers” Angew. Chem. Int. Ed. 2000, 39, 4596. DOI: 10.1002/1521-3773(20001215)39:24<4596::AID-ANIE4596>3.0.CO;2-F((−)-スピロトリプロスタチンB。π-アリルPd中間体の分子内捕捉で不斉Heck環化を終結させる)
- Fox, M. E.; Li, C.; Marino, J. P., Jr.; Overman, L. E. J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 5467. DOI: 10.1021/ja990404v(Scopadulcic Acid A のドミノHeck)
- Takemoto, T.; Sodeoka, M.; Sasai, H.; Shibasaki, M. J. Am. Chem. Soc. 1993, 115, 8477. DOI: 10.1021/ja00071a079(不斉Heckによる (−)-Epitazocine 合成)
- Dieck, H. A.; Heck, R. F. J. Org. Chem. 1975, 40, 1083. DOI: 10.1021/jo00896a020(アルケニルハライドからの共役ジエン合成。実験手順の出典)
- Herrmann, W. A. et al. Chem. Eur. J. 1997, 3. DOI: 10.1002/chem.19970030823(パラダサイクル触媒)
- Beller, M. et al. Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1995, 34, 1848. DOI: 10.1002/anie.199518481(パラダサイクル触媒)
【派生反応】
- Werner, E. W.; Mei, T.-S.; Burckle, A. J.; Sigman, M. S. Science 2012, 338, 1455. DOI: 10.1126/science.1229208(レドックスリレーHeck)
- “Stereoselective Remote Functionalization via Palladium-Catalyzed Redox-Relay Heck Methodologies” Chem. Eur. J. 2020. DOI: 10.1002/chem.202002849
- Xu, L.; Hilton, M. J.; Zhang, X.; Norrby, P.-O.; Wu, Y.-D.; Sigman, M. S.; Wiest, O. J. Am. Chem. Soc. 2014, 136, 1960. DOI: 10.1021/ja4109616(レドックスリレーの機構・選択性解析)
- Ghosh, S. et al. “Reductive Heck Reaction: An Emerging Alternative in Natural Product Synthesis” ChemistrySelect 2019. DOI: 10.1002/slct.201804029
- “Total Synthesis of (−)-Galanthamine and (−)-Lycoramine via Catalytic Asymmetric Hydrogenation and Intramolecular Reductive Heck Cyclization” Org. Lett. 2012. DOI: 10.1021/ol300913g
- “Nickel-Catalyzed Enantioselective Reductive Heck Reaction of Olefins with Aryl Bromides and Chlorides Enabled by Chiral NHC Ligands” Angew. Chem. Int. Ed. 2026. DOI: 10.1002/anie.202525600
- “Palladium-Catalyzed Enantioselective Intramolecular Dearomative Heck Reaction” J. Am. Chem. Soc. 2018. DOI: 10.1021/jacs.8b09186
- “Palladium-catalyzed intermolecular asymmetric dearomatizative arylation of indoles and benzofurans” Sci. Adv. 2025. DOI: 10.1126/sciadv.adw4471
- Fu, G. C. et al. “Palladium-Catalyzed Heck-Type Reactions of Alkyl Iodides” J. Am. Chem. Soc. 2012. DOI: 10.1021/ja2091883
- “Irradiation-Induced Heck Reaction of Unactivated Alkyl Halides at Room Temperature” J. Am. Chem. Soc. 2017. DOI: 10.1021/jacs.7b10009
- “Heck macrocyclization in natural product total synthesis” Nat. Prod. Rep. 2021, 38, 1109–1135. DOI: 10.1039/D0NP00087F
- Littke, A. F.; Fu, G. C. J. Am. Chem. Soc. 2001, 123, 6989. DOI: 10.1021/ja010988c(P(t-Bu)₃ によるアリールクロリドのHeck)
- Sävmarker, J. et al. “Oxidative Heck Reactions using Aryltrifluoroborates and Aryl N-Methyliminodiacetic Acid (MIDA) Boronates” ChemistryOpen 2012. DOI: 10.1002/open.201200007
【グリーン化・プロセス】
- Lipshutz, B. H. et al. “TPGS-750-M: A Second-Generation Amphiphile for Metal-Catalyzed Cross-Couplings in Water at Room Temperature” J. Org. Chem. 2011. DOI: 10.1021/jo101974u
- “Flow Heck Reactions Using Extremely Low Loadings of Phosphine-Free Palladium Acetate” Org. Lett. 2013. DOI: 10.1021/ol4018134
- de Vries, J. G. “The Heck reaction in the production of fine chemicals” Can. J. Chem. 2001. DOI: 10.1139/v01-033
関連反応
- 藤原・守谷反応 Fujiwara-Moritani Reaction
- リーベスカインド・スローグル クロスカップリング Liebeskind-Srogl Cross Coupling
- 福山クロスカップリング Fukuyama Cross Coupling
- ラロック インドール合成 Larock Indole Synthesis
- 触媒的C-H活性化反応 Catalytic C-H activation
- メーヤワイン アリール化反応 Meerwein Arylation
- 金属カルベノイドのC-H挿入反応 C-H Insertion of Metal Carbenoid
- 高知・フュルストナー クロスカップリング Kochi-Fürstner Cross Coupling
- 辻・トロスト反応 Tsuji-Trost Reaction
- カルボニル化を伴うクロスカップリング Carbonylative Cross Coupling
- 檜山クロスカップリング Hiyama Cross Coupling
- 熊田・玉尾・コリューカップリング Kumada-Tamao-Corriu Cross Coupling
- ワッカー酸化 Wacker oxidation
- バックワルド・ハートウィグ クロスカップリング Buchwald-Hartwig Cross Coupling
- 根岸クロスカップリング Negishi Cross Coupling
- 右田・小杉・スティル クロスカップリング Migita-Kosugi-Stille Cross Coupling
- 薗頭・萩原クロスカップリング Sonogashira-Hagihara Cross Coupling
- 鈴木・宮浦クロスカップリング Suzuki-Miyaura Cross Coupling
関連書籍
Palladium Reagents and Catalysts: New Perspectives for the 21st Century
Cross-Coupling Reactions: A Practical Guide (Topics in Current Chemistry, 219)
Transition Metal Catalyzed Cross-Coupling Reactions
外部リンク
- Heck Reaction (organic-chemistry.org)
- ヘック反応(Wikipedia 日本語版)
- Heck reaction (Wikipedia)
- The Nobel Prize in Chemistry 2010
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