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アッペル反応/Appel Reaction

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⏱ 30秒サマリー

  • 何をする反応か — トリフェニルホスフィンと四ハロゲン化炭素(CBr₄, CCl₄ など)を組み合わせ、中性・非酸性条件で第1・2級アルコールのヒドロキシ基をハロゲンに置き換える反応。
  • 何ができるか — 塩化・臭化アルキル(条件を選べばヨウ化物も)。SN2で進行するため立体反転した光学活性ハライドが得られる。アリルアルコールでも転位を伴わない。2026年にはフッ化アルキルへの適用も達成された。
  • いつ使うか — 酸・塩基に弱い基質のハロゲン化。ただしCCl₄はオゾン層保護法で原則使用禁止なので、実際にはCBr₄・ヘキサクロロアセトン・NXS/ジハロヒダントインなど代替ハロゲン源を選ぶ。

概要

アッペル反応(Appel reaction) は、トリフェニルホスフィン(PPh₃)と四ハロゲン化炭素(CCl₄, CBr₄ など)の組み合わせによって、アルコールを対応するハロゲン化アルキルへ一段階で変換する反応である[1,5]

最大の特長は中性条件で進行することにある。塩化チオニル・三臭化リン・ハロゲン化水素といった従来法はいずれも強酸性の副生成物を伴い、酸に弱い保護基や骨格を持つ基質には使いにくい。アッペル反応では副生成物がトリフェニルホスフィンオキシド(O=PPh₃)とハロホルム(CHX₃)だけであり、系中の pH がほとんど動かない。リン–酸素結合の生成エンタルピー(P=O 結合の強さ)が反応全体の駆動力になっている。

反応はアルコキシホスホニウム中間体を経るSN2形式で進行するため、不斉炭素上では原則として立体が反転する。また、アリルアルコールでもアリル転位(SN2′)を起こさずに末端のみが置換されるため、ゲラニオール→ゲラニルクロリドのようなテルペン系の変換で古くから重宝されてきた[6]。さらに2026年には、本反応の最後の空白であったフッ素化が達成された[13]

2020年代の実務上は、古典条件のCCl₄がほぼ使えなくなった点を無視できない。CCl₄はモントリオール議定書の規制対象(オゾン層破壊物質)であり、日本ではオゾン層保護法によりエッセンシャルユースを除いて製造・使用が禁止されている。このため現在の記述としては「PPh₃/CCl₄」ではなく「PPh₃+適切なハロゲン源」と捉えるのが正しく、CBr₄、ヘキサクロロアセトン、ベンゾトリクロリド、N-ハロスクシンイミド、1,3-ジハロ-5,5-ジメチルヒダントイン、さらには電気化学的にハロゲン化物イオンを酸化する手法まで、ハロゲン源の選択肢が大きく広がっている[9–12]。加えて、化学量論量のリン試薬を触媒量に落とす P(III)/P(V) レドックスサイクル型の触媒的アッペル反応が2010年代以降に確立し、本反応最大の弱点であった「大量のホスフィンオキシド廃棄物」も原理的には解消しつつある[16–23]

開発の歴史

反応名はロルフ・アッペル(Rolf Appel, 1921–2012) に由来する。アッペルはハンブルク・ハールブルクに生まれ、ハレで化学を学んだのち、1951年にハイデルベルク大学で Margot Becke-Goehring のもとで学位を取得した(学位論文は三酸化二硫黄に関するもの)。1962年にボン大学教授に着任し、1966年から1986年の退官まで同大無機化学研究所長を務めた。専門は一貫して無機リン化学であり、いわゆる「アッペル塩」(1,2,3-ジチアゾリウム塩)にも名を残している[32]

Rolf Appel

Rolf Appel

ただし反応そのものの初報はアッペルではない。PPh₃/CCl₄ による穏和なアルキルクロリド合成を最初に報告したのは1966年の Downie, Holmes, Lee であり[1]、同年に Lee と Nolan も関連する報告を行っている[2]。1968年には Hooz と Gilani が CBr₄ を用いる臭素化へ拡張し[3]、同年 Downie らは PBu₃ や P(NMe₂)₃ といったより求核性の高いホスフィンが穏和かつ迅速に働くことを示した[4]

アッペルの寄与は、1975年の Angewandte Chemie 総説に代表される、この試薬系の反応性を体系的に整理し、一般的手法として確立した点にある[5]。この総説以降、反応名としての「Appel reaction」が定着した。アッペルは1979年に IMPHOS 賞、1986年にドイツ化学会(GDCh)のリービッヒ記念メダル(Liebig-Denkmünze) を受けている[32]

なお PPh₃ と CX₄ の反応そのものは、アルコール非存在下ではジハロメチレンイリド(Ph₃P=CX₂)と Ph₃PX₂ を与えることが1962年に Rabinowitz–Marcus および Ramirez–Desai–McKelvie によって報告されており[6]、こちらはコーリー・フックス アルキン合成の源流にあたる。同じ試薬の組み合わせが、アルコールの有無で全く別の反応に分岐する点は本反応を理解するうえで重要である(後述)。

反応機構

リンの高い酸素親和性を駆動力とする反応である。全体は次の3段階からなる。

(1) ハロホスホニウム塩の生成 — PPh₃ が四ハロゲン化炭素を攻撃してハロホスホニウム塩 [Ph₃P–X]⁺ [CX₃]⁻ が生じる。ここで注意すべきは、PPh₃ が攻撃するのは炭素ではなくハロゲン原子であるという点で、通常の SN2 型の炭素攻撃とは異なる(halophilic attack)[5,6]

(2) アルコキシホスホニウム中間体の形成 — アルコールの酸素がリン中心を攻撃し、[Ph₃P–OR]⁺ が生成する。この段階で脱離能の低い OH が、P=O 結合形成という強い熱力学的駆動力を背負った優れた脱離基に変換される。放出された CX₃⁻ はプロトンを拾ってハロホルム(CHX₃)となる。

(3) ハロゲン化物イオンによる SN2 置換 — X⁻ が C–O 結合の背面から攻撃し、O=PPh₃ を追い出してハロゲン化アルキルを与える。不斉炭素上では立体が反転する。ただし、カチオン中間体を安定化できる基質では完全反転が成り立たないケースもある。

律速段階と電子的要請

ホスファミド触媒系での速度論研究によれば、アルコールの O–H 解離が律速段階であり、パラ置換ベンジルアルコールを用いた Hammett 解析はリン中心への正電荷の蓄積を示す[24]。Eyring 解析では ΔH‡ = 28.95 (±1.6) kcal/mol、ΔS‡ = −70.02 (±0.4) cal K⁻¹ mol⁻¹ と、大きく負の活性化エントロピーが得られている[24]。これらは触媒系での測定値であり古典条件へそのまま外挿はできないが、「アルコールをいかに脱プロトン化しやすくするか」が反応加速の鍵であるという描像とは整合する。

電気化学版では、陽極上でハロゲン化物イオンと共役したホスフィン酸化(halide-coupled phosphine oxidation)が穏和な電位で起こり、同じアルコキシホスホニウム中間体に到達することがボルタンメトリーと対照実験から支持されている[12]。すなわち「PPh₃ を P(V) に導く酸化剤」を CX₄ から電子に置き換えても、下流の機構は共通である。

特徴・適用範囲・類似反応との比較

  • 得意な基質:第1級アルコール(ほぼ定量的)、非障害な第2級アルコール、ベンジル位、アリル位(転位なし)
  • 苦手な基質:第3級アルコール(脱離が競合)[6]、ネオペンチル型、β位に酸性プロトンを持ちE1cB脱離しうる基質
  • 立体化学:原則反転。ただし隣接基関与でカチオンが安定化される系では保持もありうる[25]
  • 官能基許容性:中性条件のため、酸・塩基に弱い保護基(アセタール、シリルエーテル、Boc など)と併用しやすい
  • 最大の弱点:等量のO=PPh₃が副生し、その除去がしばしば困難。触媒化・担持化・錯体析出で対処する
  • 規制上の注意:CCl₄はオゾン層保護法で原則使用禁止。CBr₄・HCA・NXS等への置き換えが必須
  • フッ素化:古典条件では不可(PPh₃F₂ として失活)。2026年にネオペントキシホスホニウム塩+KF による解決法が報告された[13]
ハロゲン源の選択
ハロゲン源 生成物 典型条件 備考
CBr₄ R–Br 0 °C〜室温、DCM 現在の標準。反応が速い
CCl₄ R–Cl 加熱還流(CCl₄が溶媒兼ハロゲン源) 古典条件。規制により実質使用不可
ヘキサクロロアセトン(HCA) R–Cl 低温でも進行 アリル位で位置・立体特異的[9]。触媒的アッペルのハロゲン源としても優秀[21]
ヘキサブロモアセトン R–Br 低温 高活性。一部の第3級アルコールにも適用可[10]
BrCCl₃ R–Br / R–Cl 混合 室温、DCM/MeCN 塩素・臭素の比が溶媒依存。ベンジルアルコールの塩素化には有用
NXS / 1,3-ジハロ-5,5-ジメチルヒダントイン R–Cl, R–Br, R–I 15分以内、DCM不要 バッチ・連続フロー両対応[11]
I₂ / イミダゾール R–I 室温 いわゆる Garegg–Samuelsson 条件。ヨウ化物合成の定番
nBu₄NX + 陽極酸化 R–Cl, R–Br, R–I 定電流電解、室温 化学量論酸化剤が不要。医薬品骨格にも適用[12]
KF + ネオペントキシホスホニウム塩 R–F 水素結合相間移動触媒(尿素触媒)共存下 2026年に確立。キラル尿素触媒でエナンチオ選択的フッ素化も可能[13]
類似反応との使い分け
反応 何が違うか 使い分けの指針
光延反応 酸化剤がアゾジカルボキシラート、求核剤が酸性プロトン源(pKa の制約あり) 生成物がハライドで足りるならアッペル。エステル・エーテル・アジド等を直接入れたいなら光延
向山酸化還元縮合 ホスフィン+ジスルフィド/ピリジニウム塩を活性化剤に用いる 発想は同じ「リンの酸素親和性の利用」。試薬コストと後処理で選ぶ
メシル化 → フィンケルシュタイン反応 二段階。塩基(Et₃N など)を使う リン廃棄物を出したくないとき、また大スケールでは有利。立体は二回反転=正味保持になる点に注意
Garegg–Samuelsson(PPh₃/I₂/イミダゾール) イミダゾールが塩基兼配位子 ヨウ化物を作るならこちら。アリル位では SN2′ が起こりうる
チオ尿素(触媒量)+ NXS リンを使わない。EPR等からラジカル機構が示唆される ホスフィンオキシドを一切出したくない場合の選択肢。ただし立体化学の挙動が異なる(β-アリールアルコールでは1,2-アリール転位を伴う完全な立体保持)[26]
脱酸素的フッ素化(DAST・Deoxo-Fluor 等) S–F 試薬を用いる。熱的に不安定で毒性が高く、ケトン・アルデヒドと非適合 従来はフッ素化はこちらの独占領域だったが、2026年のフッ素版アッペル反応が KF ベースの代替を提示した[13]。カルボニル共存系や大スケールではアッペル型が有利になりうる

反応例

立体反転

光学活性な第2級アルコールから、立体反転した光学活性ハライドが高い光学純度で得られる[34]。Org. Synth. の記載でも、本反応が光学活性アルコールをキラルハライドへ変換する簡便な手段であると総括されている[6]

立体保持の例[25]

コレステロール(3β-ヒドロキシコレスタ-5-エン)を CBr₄/PPh₃、ジクロロメタン中室温で1時間処理すると、3β-ブロモコレスタ-5-エンが80%(立体保持) とコレスタ-3,5-ジエンが8%(脱離) で得られる。反転体は生成しい。

これは、活性化されたC3位から O=PPh₃ が脱離する際に Δ5 の π 電子が α 面から関与してシクロプロピルカルビニル型カチオン(i-ステロイド型)を形成するためで、続く臭化物イオンの攻撃が立体特異的に β 面から起こる。すべての生成物の構造は単結晶X線回折で確定されており、過去の文献における立体帰属の誤りもあわせて訂正されている。

アリル位・プロパルギル位の位置選択性

ゲラニオールのような単純なアリルアルコールは、CCl₄/PPh₃ 条件でアリル転位を起こさず末端のみが塩素化される[6]。これは HCl・PCl₃・SOCl₂ ではゲラニル体とリナリル体の混合物になってしまうのと対照的である。ヘキサクロロアセトン/PPh₃ 条件はアリル位で位置・立体特異的に働くことが古くから知られる[9]

一方、第2級プロパルギルアルコールはアッペル型条件下でアレニルブロミドへ異性化することが報告されており[33]、sp炭素が隣接する系では転位を前提に条件を組む必要がある。

フッ素版アッペル反応

アッペル反応は長らく「フッ素以外のすべてのハロゲンに使える反応」だった。原因は明快で、フッ化物イオンはリン中心に強く結合してジフルオロホスホラン PPh₃F₂ として捕捉されてしまい、アルコールの活性化に回らないためである。この失活経路が、半世紀にわたってフッ素版の実現を阻んできた[13]

Gouverneur らは2026年、bench-stableなネオペントキシホスホニウム塩を設計してこの課題を解決した[13]。かさ高いネオペンチルオキシ基をあらかじめリン上に載せておくことで PPh₃F₂ の生成を回避し、この塩がフッ化カリウム(KF)と組み合わさって、アルコールを活性化しうる反応性中間体を与える。フッ化物イオンの可溶化と送達は、同グループが確立した水素結合相間移動触媒(HB-PTC)——尿素系の水素結合ドナーが固体の KF を有機相へ引き出しながら求核性を制御する手法[14]——が担う。触媒とホスフィンオキシド副生成物の双方とも回収・再利用できる。試薬の調製に必要なフッ素源は、同グループが開発した蛍石(CaF₂)の低温水中活性化法によって HF を経ずに得られる[15]

DAST(ジエチルアミノ硫黄トリフルオリド)に代表される従来のフッ素化剤は、熱的に不安定で毒性も高く、大スケール製造では取り扱いが大きな負担になっていた。安価で扱いやすい KF を使えるという点で、医薬・農薬・材料分野のフッ素化学に対する貢献は大きい。

アッペル条件を利用したホスフィンの不斉酸化

Gilheany らは、アッペル型のハロホスホニウム中間体を経由してホスフィンをエナンチオ選択的に酸化し、P-キラルなホスフィンオキシドを得る手法を報告している[27]。アルコールのハロゲン化とは逆に「リン側」を主役に据えた応用例である。 (参考: Appel反応を用いるホスフィンの不斉酸化

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触媒的アッペル反応[7,8]

除去の難しいリン化合物を触媒量に減らす研究は、2010年代以降に大きく展開した。

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  • Denton ら(2010, 2011): PPh₃=O を触媒とし、シュウ酸クロリドを化学量論の消耗試薬としてハロホスホニウム塩をその場発生させる。DFT 計算を含む機構研究により、ハロホスホニウム/アルコキシホスホニウムを経る触媒サイクルが支持された[16,17]。ホスフィンオキシドを「廃棄物」から「触媒」へ転換した点で概念的な転回点となった。
  • van Kalkeren ら(2011): ホスフィンオキシドをシランでその場還元して P(III) に戻す、P(III)/P(V) レドックスサイクル型[18]
  • Werner ら(2019): トリオクチルホスフィンを触媒、安価なベンゾトリクロリドをハロゲン源、フェニルシランを終端還元剤とする無溶媒系。第1〜3級の27種のクロリドを最高95%収率で合成し、エポキシドやオキセタンからジクロリドも得ている[19]
  • Jordan・Denton・Sneddon(2020, GSK): 塩素系溶媒を炭酸ジメチル(DMC) に置換し、回収・再利用可能な PPh₃=O 触媒を用いるクロマトグラフィー不要のプロセス。ReactIR による in situ モニタリングを併用し、GSK の脂肪酸合成酵素阻害剤探索で用いられた中間体 1-ブロモ-4-(1-ブロモエチル)ベンゼンの合成に適用された[20]
  • Werner ら(2023): 触媒量わずか 1〜2 mol% で立体特異的に進行する系。ヘキサクロロアセトン 0.7 当量とフェニルシラン 1.0 当量、トルエン中100 °C・24時間で、アルコール26例・エポキシド9例を最高97%収率、エナンチオ特異性 >99%、er >99:1 で変換した[21]。触媒的アッペル反応でここまで立体特異性が担保された初の例である。
  • 不均一系(Chakraborty ら, 2023–2025): リン–窒素結合を骨格にもつポリホスファミド(POP)を不均一触媒として用いる系。メソポーラス化により TON が大きく向上し(p-PPA で TON 561、細孔径 <10 nm)、細孔径に由来する形状選択性(直鎖第1級アルコールは高転化、嵩高い第2・3級は低転化)も観測されている[22]。多孔性とリン含量を協働させた改良系では TON 696 が報告されている[23]。触媒は濾別だけで回収でき、繰り返し使用が可能である。
フロー化・電気化学化
  • Bjørsvik らは、安価な 1,3-ジハロ-5,5-ジメチルヒダントインおよび N-ハロスクシンイミドで PPh₃ をハロゲン化する方式を開発し、15分未満という短時間で Cl/Br/I いずれの導入も可能にした。DCM を使わずに済み、バッチと連続フローの双方で実証されている[11]
  • Zhu らは、テトラブチルアンモニウムハライド(nBu₄N⁺X⁻, X = Cl, Br, I)を唯一のハロゲン源とする電気化学的アッペル反応を報告した。化学量論の酸化剤が不要で、医薬品や生理活性化合物の骨格を含む広い官能基許容性を示す。さらに同条件で、酸化を受けやすいフェノールや弱酸性アルコールを求核剤とする分子内エーテル化にも展開できる[12]
全合成での利用

アッペル反応は、断片連結に用いるハロゲン化物ビルディングブロックの調製手段として全合成で日常的に使われる。たとえば Opatz らの (±)-シクロクラビンの形式合成では、4-ブロモインドールから Vilsmeier–Haack ホルミル化・Boc 保護・還元・アッペル反応の4工程を経てジブロミド中間体を得ており、クロマトグラフィー精製をわずか4回に抑えた合成の一部を担っている。グラヤナン型ジテルペンの合成でも、SmI₂ 還元・アッペル反応によるヨウ化物化・MOM 保護の3工程が実施されている。

実験手順

標準的な実施例: ゲラニルクロリドの合成(古典条件)[6]

CCl₄ を溶媒兼ハロゲン源として大量に使う点で、現在の日本では原則実施できない。歴史的な標準手順として、また後述の注意点の出典として掲げる。

  1. 乾燥した三口フラスコに乾燥 CCl₄(90 mL)とゲラニオール(15.42 g, 100 mmol)を仕込む。
  2. PPh₃(34.09 g, 130 mmol, 1.3 当量)を加え、撹拌しながら1時間加熱還流する(乾燥管付き還流冷却器を装着)。
  3. 室温まで冷却したのち乾燥ペンタン(100 mL)を加え、さらに5分間撹拌する。
  4. 析出した O=PPh₃ を濾別し、ペンタン(50 mL)で洗う。
  5. 濾液を室温・アスピレーター減圧で濃縮し、Vigreux カラム(2 cm)を付けたショートパス蒸留装置で蒸留する。

ゲラニルクロリドが 13.0〜14.0 g(75〜81%) 得られる(bp 47–49 °C / 0.4 mmHg、n²³_D 1.4794)。アリル転位は起こらず、リナリルクロリドの混入はない。

原報の注記として、CCl₄ は硫酸マグネシウムで乾燥後に五酸化二リンから蒸留すること、ガラス器具・試薬が乾燥していないと収率が低下すること、PPh₃ の過剰が10〜20%程度だと収率が約75%に留まり未反応ゲラニオールの残存で精製が難しくなること、が挙げられている[6]

現行の第一選択: CBr₄ による臭素化

現在もっとも一般的に用いられる条件は次のとおりである。

  1. アルコール(1.0 当量)を無水ジクロロメタンに溶かし、アルゴン下 0 °C に冷却する。
  2. CBr₄(1.1〜1.3 当量)を加える。
  3. PPh₃(1.1〜1.5 当量)を数回に分けて加える(発熱するため)。
  4. 0 °C〜室温で 30分〜1.5時間撹拌する。
  5. 反応液を濃縮してからヘキサン等の貧溶媒を加え、析出した O=PPh₃ をセライト濾過で除く。濾液をシリカゲルカラムに付す。

第1級・ベンジル位アルコールならこの条件でほぼ完結する。CBr₄ とアルコールは必ず PPh₃ の添加前に共存させること。

変法: 触媒的アッペル反応[21]
  1. アルゴン下、リン系有機触媒(アルコールに対し 1.0 mol%)をトルエン溶液としてアルコール(1.0 mmol, 1.0 当量)に加える。
  2. ヘキサクロロアセトン(0.70 当量)とフェニルシラン(1.0 当量)を順に加える。
  3. 油浴で 100 °C に加熱し、24時間撹拌する。
  4. 室温に戻し、粗生成物をシリカゲルカラム(ペンタン/Et₂O)で精製する。

エポキシドをジクロリドに変換する場合は触媒 2.0 mol%、ヘキサクロロアセトン 1.40 当量、フェニルシラン 1.50 当量とする[21]

実験のコツ・テクニック

仕込み順序
  • アルコールは最初から共存させる。 PPh₃ と CX₄ だけを先に反応させてしまうと、系はジハロメチレンイリド(Ph₃P=CX₂)と Ph₃PX₂ の生成に流れ、アルコールを後から加えてもハロゲン化物がほとんど得られない[6]。同じ試薬の組み合わせがコーリー・フックス アルキン合成(ジハロオレフィン化)に分岐してしまう。とくに求核性の高いホスフィン(PBu₃, P(NMe₂)₃)ではこの副反応が発熱的に速く進むため致命的になる[6]
  • 「アルコール+ハロゲン源を溶かしてから、ホスフィンを分割添加」が実務上もっとも安全な順序である。
温度・ハロゲン源の選び方
  • CBr₄ を用いる臭素化は 0 °C〜室温で進行するが、CCl₄ を用いる塩素化は加熱還流を要する。塩素化を穏和に行いたいならヘキサクロロアセトンやベンゾトリクロリドを検討する。
  • PPh₃ より PBu₃・P(n-Oct)₃・P(NMe₂)₃ のほうが求核性が高く、より低温・短時間で進む[4,6]。ただし空気酸化を受けやすく、臭気や取り扱いの難点もある。
  • CCl₄ は使わない前提で設計する。 オゾン層保護法により、エッセンシャルユースを除いて製造・使用が禁止されている。古い論文の追試であっても代替ハロゲン源への読み替えが必要になる。
ホスフィンオキシドの除去

本反応最大の実務的ハードル。手札を多く持っておくとよい。

  • 貧溶媒での析出濾別: 反応後にペンタン/ヘキサンを加えて O=PPh₃ を析出させ、濾別する。Org. Synth. の手順が実際に採用している最も簡便な方法[6]。ただし生成物が極性の高い場合は共沈しやすい。
  • ZnCl₂ による錯体析出: 極性溶媒中で ZnCl₂(2当量)を加えると ZnCl₂(O=PPh₃)₂ 錯体として析出する[28]
  • 無水 CaBr₂ による錯体析出: THF から 95〜98%、2-MeTHF や MTBE からは 99% の O=PPh₃ を除去できる。プロセス化学向けに有力な選択肢[29]
  • 担持型ホスフィンを使う: ROMPgel 担持 PPh₃[30]、フッ素タグ付きホスフィン[31]、ポリホスファミド[22,23] などを使えば、濾別だけでリン成分を回収できる。
  • そもそも触媒化する: 触媒量まで落とせば除去すべき量自体が減る[17–21]
  • 二段階法に逃げる: メシル化 → ハライド置換(フィンケルシュタイン反応)ならリン廃棄物が出ない。ただし置換が二回起こるため正味の立体は保持になる点を忘れないこと。
生成物の安定性
  • アリルハライド・ベンジルハライドは不安定なものが多く、シリカゲル上や濃縮中に分解・異性化しうる。可能なら精製せずに次工程へ送る。
  • 残留した可溶性ホスフィンオキシドは、感受性の高いハライド(アリル位・光学活性体)でラセミ化や分解を招くことがある[6]。貧溶媒での析出を丁寧に行う価値がある。
よくある誤解
  • 「アッペル反応なら必ず立体反転する」 — 隣接基関与やカチオン安定化が働く基質では保持が主生成物になりうる。コレステロールがその代表例である[25]。立体化学は必ず実測すること。
  • 「第3級アルコールには全く使えない」 — 古典条件では脱離が競合して実用的でないが、ヘキサブロモアセトンのような高活性条件[10]や、Werner らの触媒系(第3級を含む基質群を報告)[19]では変換例がある。
  • 「CCl₄ が定番」 — 教科書の記述としては正しいが、現在の実験室では規制上使えない。
  • 「アッペル反応でフッ素化はできない」 — 2026年7月までは正しかった。フッ化物イオンが PPh₃F₂ として捕捉される問題が、ネオペントキシホスホニウム塩の設計によって解決され、KF を用いるフッ素版アッペル反応が報告されている[13]

参考文献

【原著・初期報告】
  1. Downie, I. M.; Holmes, J. B.; Lee, J. B. “Preparation of Alkyl Chlorides Under Mild Conditions” Chem. Ind. (London) 1966, 900–901.(原著。PPh₃/CCl₄ によるアルコールの塩素化の初報)
  2. Lee, J. B.; Nolan, T. J. Can. J. Chem. 1966, 44, 1331.
  3. Hooz, J.; Gilani, S. S. H. Can. J. Chem. 1968, 46, 86.(CBr₄ を用いる臭素化への拡張)
  4. Downie, I. M.; Lee, J. B.; Matough, M. F. S. Chem. Commun. 1968, 1350.(PBu₃・P(NMe₂)₃ など求核性の高いホスフィン)
  5. Appel, R. “Tertiary Phosphane/Tetrachloromethane, a Versatile Reagent for Chlorination, Dehydration, and P–N Linkage” Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1975, 14, 801–811. DOI: 10.1002/anie.197508011(反応名の由来となった総括)
  6. Calzada, J. G.; Hooz, J. “Geranyl Chloride” Org. Synth. 1974, 54, 63. DOI: 10.15227/orgsyn.054.0063[PDF](実験手順の一次情報。Discussion に仕込み順序・第3級アルコールの限界・機構考察あり)
【総説】
  1. van Kalkeren, H. A.; van Delft, F. L.; Rutjes, F. P. J. T. Pure Appl. Chem. 2013, 85, 817. DOI: 10.1351/PAC-CON-12-06-13(リン試薬のリサイクル)
  2. El Bekri-Saudain, R.; Butin, P.-O.; Mele, L.; Fourbet, L.; Musikas, L.; Virieux, D.; Ayad, T. “Phosphorus-based redox organocatalysis for sustainable synthesis: A literature review” Tetrahedron 2026, 193, 135124. DOI: 10.1016/j.tet.2025.135124
【ハロゲン源・条件の改良】
  1. Magid, M. R.; Fruchey, S.; Johnson, W. L.; Allen, T. G. “Hexachloroacetone/triphenylphosphine: a mild reagent for the regioselective and stereospecific production of allylic chlorides from the alcohols” J. Org. Chem. 1979, 44, 359. DOI: 10.1021/jo01317a011
  2. Tongkate, P.; Pluempanupat, W.; Chavasiri, W. Tetrahedron Lett. 2008, 49, 1146. DOI: 10.1016/j.tetlet.2007.12.061(ヘキサブロモアセトン)
  3. Fuenzalida, N. M. D. R.; Alme, E.; Lundevall, F. J.; Bjørsvik, H.-R. “An environmentally benign and high-rate Appel type reaction” React. Chem. Eng. 2022, 7, 1650–1659. DOI: 10.1039/D2RE00071G(ジハロヒダントイン/NXS。15分以内、フロー対応)
  4. Hale, E. A.; Ngo, V. T. C.; Zhu, Q. “Electrochemical Halogenation and Etherification of Alcohols Enabled by a Halide-Coupled Phosphine Oxidation” ACS Org. Inorg. Au 2025, 5, 492–497. DOI: 10.1021/acsorginorgau.5c00091
【フッ素化】
  1. Mondal, A.; Struijs, J. J. C.; Doyle, C. J. N.; Chen, Z.; Tangamornchaipattana, W.; Allais, C.; Richardson, P. F.; Piper, J.; Paton, R. S.; Aldridge, S.; Gouverneur, V. “Catalytic Appel fluorination of alcohols with potassium fluoride” Science 2026. DOI: 10.1126/science.aec6298(フッ素版アッペル反応。ネオペントキシホスホニウム塩+KF+水素結合相間移動触媒)
  2. Pupo, G.; Ibba, F.; Ascough, D. M. H.; Vicini, A. C.; Ricci, P.; Christensen, K. E.; Pfeifer, L.; Morphy, J. R.; Brown, J. M.; Paton, R. S.; Gouverneur, V. “Asymmetric nucleophilic fluorination under hydrogen bonding phase-transfer catalysis” Science 2018, 360, 638–642. DOI: 10.1126/science.aar7941(水素結合相間移動触媒(HB-PTC)の原理)
  3. Klose, I.; Patel, C.; Mondal, A.; Schwarz, A.; Pupo, G.; Gouverneur, V. “Fluorspar to fluorochemicals upon low-temperature activation in water” Nature 2024, 635, 359–364. DOI: 10.1038/s41586-024-08125-1(蛍石からHFを経ずにフッ素化学品を得る技術)
【触媒化・グリーン化】
  1. Denton, R. M.; An, J.; Adeniran, B. Chem. Commun. 2010, 46, 3025–3027.(PPh₃=O 触媒によるアルコールの塩素化の初報)
  2. Denton, R. M.; An, J.; Adeniran, B.; Blake, A. J.; Lewis, W.; Poulton, A. M. “Catalytic Phosphorus(V)-Mediated Nucleophilic Substitution Reactions: Development of a Catalytic Appel Reaction” J. Org. Chem. 2011, 76, 6749–6767. DOI: 10.1021/jo201085r
  3. van Kalkeren, H. A.; Leenders, S. H. A. M.; Hommersom, C. R. A.; Rutjes, F. P. J. T.; van Delft, F. L. “In Situ Phosphine Oxide Reduction: A Catalytic Appel Reaction” Chem. Eur. J. 2011, 17, 11290–11295. DOI: 10.1002/chem.201101563
  4. Longwitz, L.; Jopp, S.; Werner, T. “Organocatalytic Chlorination of Alcohols by P(III)/P(V) Redox Cycling” J. Org. Chem. 2019, 84, 7863–7870. DOI: 10.1021/acs.joc.9b00741
  5. Jordan, A.; Denton, R. M.; Sneddon, H. F. “Development of a More Sustainable Appel Reaction” ACS Sustainable Chem. Eng. 2020, 8, 2300–2309. DOI: 10.1021/acssuschemeng.9b07069
  6. Tönjes, J.; Kell, L.; Werner, T. “Organocatalytic Stereospecific Appel Reaction” Org. Lett. 2023, 25, 9114–9118. DOI: 10.1021/acs.orglett.3c03463
  7. Mahata, A.; Kumari, N.; Chakraborty, B. “Catalytic Appel Reaction Accessing the Mesoporous Substructure of a Robust and Heterogeneous Polyphosphamide” ChemCatChem 2024, 16, e202400729. DOI: 10.1002/cctc.202400729
  8. Kumari, N.; Chakraborty, B. “Cooperativity Between Porosity and Phosphorus Content in Polyphosphamides for Improving Catalytic Appel Reactions” Chem. Asian J. 2025, 20. DOI: 10.1002/asia.202500738
【機構・立体化学】
  1. Kumari, N.; Jagadeesh, A.; Galav, P.; Kundu, A.; Chakraborty, B. “Moderation of the Electronic Structure of Phosphamides to Execute the Catalytic Appel Reaction Bypassing Phosphine” J. Org. Chem. 2024, 89, 15851–15863. DOI: 10.1021/acs.joc.4c02006(重水素標識・Hammett 解析・Eyring 解析)
  2. Schumacher, C.; Ward, J. S.; Rissanen, K.; Bolm, C.; Aly, M. R. E. S. “Revisiting the bromination of 3β-hydroxycholest-5-ene with CBr₄/PPh₃ and the subsequent azidolysis of the resulting bromide, disparity in stereochemical behavior” Beilstein J. Org. Chem. 2023, 19, 91–99. DOI: 10.3762/bjoc.19.9(オープンアクセス。立体保持の反例)
  3. Assy, H.; Mishra, U. K.; Rösler, T.; Khurana, R.; Lemcoff, N. G.; Reany, O. “Stereospecific Radical Bromination of β-Aryl Alcohols with Thiourea Additives Through A Serendipitous Discovery of A 1,2-Aryl Migration” Chem. Eur. J. 2025, 31, e202403831. DOI: 10.1002/chem.202403831(リンを使わないチオ尿素/NXS 系。ラジカル機構)
  4. Bergin, E.; O’Connor, C. T.; Robinson, S. B.; McGarrigle, E. B.; O’Mahony, C. P.; Gilheany, D. G. J. Am. Chem. Soc. 2007, 129, 9566. DOI: 10.1021/ja072925l(アッペル条件を利用したホスフィンの不斉酸化)
【後処理・実務】
  1. Batesky, D. C.; Goldfogel, M. J.; Weix, D. J. “Removal of Triphenylphosphine Oxide by Precipitation with Zinc Chloride in Polar Solvents” J. Org. Chem. 2017, 82, 9931–9936. DOI: 10.1021/acs.joc.7b00459
  2. Hergueta, A. R. “Easy Removal of Triphenylphosphine Oxide from Reaction Mixtures by Precipitation with CaBr₂” Org. Process Res. Dev. 2022, 26, 1845–1853. DOI: 10.1021/acs.oprd.2c00104
  3. Arstad, E.; Barrett, A. G. M.; Hopkins, B. T.; Koebberling, J. “ROMPgel-Supported Triphenylphosphine with Potential Application in Parallel Synthesis” Org. Lett. 2002, 4, 1975–1977.
  4. Desmaris, L.; Percina, N.; Cottier, L.; Sinou, D. “Conversion of alcohols to bromides using a fluorous phosphine” Tetrahedron Lett. 2003, 44, 7589–7591.
【その他】
  1. Niecke, E.; Filippou, A. C. “Rolf Appel (1921–2012)” Angew. Chem. Int. Ed. 2012. DOI: 10.1002/anie.201205250(追悼記事。経歴・受賞歴の一次情報)
  2. Sakai, N.; Maruyama, T.; Konakahara, T. “Chemoselective Isomerization of Secondary-Type Propargylic Alcohols to Propargylic/Allenic Bromides, and Brominated Dienes with Appel-Type Reaction Conditions” Synlett 2009, 2105–2106.
  3. Suzuki, T. et al. Tetrahedron Lett. 2001, 42, 65. DOI: 10.1016/S0040-4039(00)01880-3(立体反転の実例)

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博士(薬学)。Chem-Station副代表。国立大学教員→国研研究員にクラスチェンジ。専門は有機合成化学、触媒化学、医薬化学、ペプチド/タンパク質化学。
関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。
素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

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